第八章 見鬼(けんき)の帝
半月に一度、貴仁は御所へ入る。
濃赤の袍を翻し、高欄の簀の子を渡るその足音が近づくと、殿上人たちは言葉を失って道を割った。大臣でさえ、視線を伏せて頭を垂れる。
──畏れられている。
だが、長い挨拶が省けるのなら、貴仁にとっては都合がよかった。
本来ならば、己は位を退いた身と、二度と足を踏み入れる気もなかった御所に、こうして貴仁が定期的に通っているのは理由があった。
「三条院、よくぞ参られた」
清涼殿の昼の御座所。帝のくつろぎの装束である御引直衣をまとった、今帝は笑顔で迎えた。
今帝のお歳は十六歳。貴仁がその位をゆずったのは十四であった。先々帝の曾孫にあたる。
優秀だった父宮は、その聡明さゆえに当時の権力者である二条藤家に疎まれた。追い詰められる形で、息子である今帝が生まれる前に出家し、失意のうちに亡くなっている。
今帝の母である大納言の娘もまた、頼りにしていた夫の宮が出家という衝撃に、今帝を生んだ直後に亡くなっていた。
両親を失った幼い皇子がどれほど孤独であったか、当時の宮中でそれを思いやる者は少なかった。
身寄りも後ろ盾を亡くした今帝だが、その原因となった二条藤家が、貴仁の次の傀儡として担ぎ出したのが彼だった。
父宮も得度した寺にて出家していた身を、わざわざ還俗させてまで――という、あまりに強引なやり方でだ。
大人達の勝手な都合で翻弄された少年を、貴仁は自分が後ろ盾となり帝とした。己が帝だった当時は、二条藤家の意向で春宮としたとはいえ、貴仁はこの父宮に似て利発な少年を気に入ってもいた。
さらに春宮にまでしておいて、彼以外を帝にとなれば、これまた再び出家させるしかない。幼い頃から運命に翻弄され続けた少年を、再び苛酷な荒波に放り出す気にもなれなかった。
さて、帝にすえることが果たして幸福かどうかは迷うところではあったが。
来たくもない魑魅魍魎が蠢く御所に、こうして貴仁が半月に一度の割合で足を運ぶのは、この年若い帝の後ろ盾が、人々の畏れる三条院であることを示す為だった。
それは帝を守るためであり、同時に宮中の不穏な動きを牽制するためでもあった。
「院、まずは月宮をお迎えなされたこと、まこと、わがことのようにめでたく思います」
「ああ、主上からのお言葉が、なによりうれしく感じます」
朗らかに微笑む少年の言葉に、貴仁も微笑を浮かべる。まったく、幼少時からの不幸な生い立ちにかかわらず、彼には鬱屈したところがなく、こうして素直に人の幸福を喜ぶことが出来る。
「主上もまた、梨壺の宮とのお仲がよろしいようで、なにより」
そう貴仁が口にすれば、今帝ははにかむように微笑む。
「梨壺の宮も会いたがっているので、是非、このあとご一緒に行きませんか?」
その言葉にうなずく。
梨壺の宮は、今帝より二つ下の十四のまだまだ無邪気な子供っぽさが残る姫だ。宮とついているとおり宮家の姫であったが、祖母である大宮の尼と暮らしていた頼りのない身の上を、今帝が耳にして、是非にと後宮にお迎えした姫だ。
まだまだお二人のあいだに子はないが、いずれは中宮《正妃》になるだろうとその御寵愛は深い。同じような境遇でありながら、明るさを失わないお二人の仲は大変よろしかった。
「院、私は院を今は亡き父上同然と思って、お慕いしています」
「ありがたきお言葉」
そう返しながら、なにを今さら改まってと貴仁は思う。聡明な少年は真っ直ぐ彼を見て。
「ですから、此度、院が迎えられた月宮は、私の母上も同然と感じているのです。こたびの院の喜ばしい婚儀の祝いをかねて、宮にもお会いしたく、そちらに参りたいのですが、よろしいですか?」
それは若き帝としてではなく、父と慕う貴仁に対する子供らしい甘えが見える、この少年の滅多にない我が儘であった。
今帝が三条院邸に赴きたいという希望だ。
さて、なんとお答えしようかと、貴仁が少し沈黙した。そのとき。
今帝がふと視線を逸らした。
「……また来ていますね」
その一言に、そばにいた女官は意味が分からず怪訝な顔をしたが、貴仁だけは気づく。
御簾の向こうの簀の子で遊ぶ小鬼が、帝の目に"見えて"いるのだ。
貴仁が扇を一度、静かに払う。すると小鬼の気配は散り、帝の肩の強張りがほどけた。
そう、今帝は……。
それが貴仁が三条院邸への彼の来訪を快く歓迎の即答ができなかった、理由だった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
三条院にて自由に暮らし、春宮や帝の時代から勝手に御所を抜け出て夜歩きしていた貴仁が型破りなのであって、春宮も帝も、また上皇とても不用意な外出など出来ず、色々なしきたりや手続きがある。
まず陰陽師が良き日と良き方角であるか調べ、日時を定める。
これは他の貴族共も似たような暮らしで、日が悪いから物忌みだと出仕もせず、方角が悪いと方替えだなんだと知己の屋敷をあちこちとする。
しかし、貴仁は微塵もそんなことを気にしたことはない。
人が占いに右往左往するほど、鬼神の血を引く身には、かえってその慎ましやかさが遠く思える。
春宮や帝であった時代は、それでも儀礼に関しては陰陽師に任せてはいたが、内緒の夜歩きとなれば日が悪かろうと方角が悪かろうと、気が向くままにそちらに向かった。
さて、帝が御所からお出になって赴かれることを行幸と言う。宮家においても貴族の家においても、大変な名誉だろう。
しかし、貴仁は上皇である。それもただの上皇ではなく、先の権力者だった二条藤家が凋落したあとは、どんぐりの背比べの貴族達に畏れられている、己は世捨て人といいながらも、その発言権は一番強く、誰もが彼の前には頭を垂れる。
今帝の後ろ盾も、当然上皇たる貴仁である。だから、帝が三条院を訪ねたいと希望されても、はっきり断ることなく、遠回しに「それはまた次の機会に」とかなんとか先延ばしという名のうやむやにすることも出来た。
しかしだ。傍若無人の貴仁とて、運命に翻弄されながらも明るさと素直さを失わず、今は精一杯帝の務めを果たしますが退位したのちは仏道へ……などと言っている、健気な少年には弱い。
普段はわがまま一つ言わない方だから、余計にだ。
貴仁はふと、守るべき弟のような存在だと思ってしまう自分に気付き、苦笑した。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「主上の行幸にございますか? それはおめでとうございます」
もう一人の素直な者。薫が素直に言祝いだ。──二十七歳、貴仁より年上の妻である。もっとも、その身は男であったが。
若菖蒲の青緑と白のまとう袿のあわせも、夏の初めを感じさせる。その衣の上に散る、星屑を散らしたような黒髪も見事で、「ふむ……」と生返事のまま、貴仁は手を伸ばして、その髪に指を絡ませ無意識に遊ぶのが、クセとなっている。
指先にからむさらさらとした感触が心地よく、気付けば薫の髪にこうして触れている。
貴仁の姿もまた、薫に合わせたように花橘の朽葉の黄と青緑の狩衣姿で、足を崩して脇息にもたれかかる彼に、寄り添う薫の姿は、まるで一枚の絵のようと、そばに控える左近に右近、そして漆の高坏に盛った唐菓子を持ってきたあこぎもまた、しばし見とれて、お二人のおそばにそれを差し上げた。
女房達は互いに目を見交わし、(まことにお二人は比翼連理のごとき御夫婦なこと)と胸の内でひそやかに嘆息する。
あこぎの持ってきた菓子に貴仁は指を伸ばし、棒をねじり上げたようなゴマ入りのを摘まむと「そなたも頂きなさい」と勧める。「はい」と素直に薫がうなずけば、左近が薫が好きなあん入りの兜のかたちをしたものを一つ、紙にとって渡す。
貴仁は童の頃より、菓子はあまり好まなかったが、自分が摘まむと薫の食が進むようなので、一口二口食べるようにしている。
甘さはやはり得手ではないが、薫が嬉しそうにもう一口かじるのを見るたび、そのささやかな我慢も悪くないと感じていた。
薫は男子にしては食があいかわらず細いが、それでもあれこれ、周りの女房達が勧めるだけあって、浮いたあばらは改善した。それは、毎夜、薫を抱いて眠っている貴仁が一番良く知っている。
本当に抱っこして眠っているだけなのだが。
柳のようにしなやかな躯を腕の中に収め、規則正しい寝息と鼓動を確かめるその一時は、貴仁にとってなにより穏やかな時間となりつつあった。
「殿、本日も本懐は……」と惟光が懲りずに茶化せば、貴仁が軽く放った気によって、簀の欄干まで飛び越えて、白砂の庭に落ちるのは、もはや、毎度の光景となっている。
実際のところ、二人の夜はまだ、肩を並べて眠るだけの静かなものだというのに。
「主上は、そなたに会いたいとおっしゃっている」
「私に?」
「琴をお聞かせするとよい。俺も笛を合わせよう」
帝の行幸ともなれば、光源氏の絵巻を見るまでもなく大変な名誉と、迎える側は様々な趣向を凝らすのだが、貴仁としてはごく普通の歓待をするつもりだ。
別に自分が後ろ盾の少年の帝を侮っているのではなく、そのような大仰なお迎えなど彼が望んでいないことをわかっているからだ。
貴仁のことを父とも思っていると言ったのは、本心であり、今回その敬愛する父が迎えた"母"を見たいと、これも本心であろう。
ならば、こちらは家族のように迎え、庭を美々しく整え、お食事と菓子をご用意し、そして琴と笛の音でもてなす。
ただ、問題は。
「主上には見鬼の才があられる。御簾ごしでもごまかせないであろうな」
貴仁の言葉にぱちぱちと薫は瞬きをする。この人には説明する必要もない。見鬼がなんであるかは、生まれた頃より頭にはいっているだろう。
見鬼とはこの世にあらざるものが見える才だ。さまよう霊魂に物の怪と。左近と右近が「まあまあ、それではわたくしたちのしっぽも」などと言っているので「当然、二つに分かれているのも、白黒の色までわかるだろうな」と返す。
主上の見鬼の才はとくに優れている。これも皇の血の先祖返りというべきか。父と母と失う不幸はあったとはいえ、ある意味、寺で育ったのは幼い心にとっては平穏をもたらしたかもしれない。見えないものが見えるという幼子を、どれだけの大人が本気にしたか。
人ならざるものの姿ばかりを見て育った少年にとって、穢れなき光をまとう薫の気配がどれほど眩しく映るかを思うと、貴仁は胸の内で小さく息をついた。
御所に連れてこられて、なにかに怯えている少年に気付いた貴仁は、すぐに彼のすまう昭陽舎をパンと柏手を一つ打つことで、雑鬼を追い出し清浄な場所とした。
半月に一度、御所を訪れているのも、せめて少年帝の周囲だけは、穢れが近寄ることのないよう……という考えからだ。
花の御所などと言いながら、そこは宮廷人の陰謀と怨嗟が長年渦巻き積み重なった場所なのだ。穢れを人一倍嫌い、陰陽師に日々占わせ、物忌みだ方替えだと騒ぐ者達ほど、その指貫の裾にケタケタ笑う小鬼がまつわりついていることを彼らは知らない。
春宮だった今帝が貴仁を"父"とも慕うようになったのは、それが切っ掛けだ。そもそも見える彼には、貴仁が何者かもひと目会っただけで見抜き、震えさえしていた。それは恐怖ではなく、畏敬だ。
「今生にて不動明王の化身に出会えるとは思いませんでした。ましてそれが帝とは……」
少年は貴仁をそうたとえた。
そんな見鬼の帝だ。たとえ御簾ごしの対面であっても、確実に薫が何者であるか分かるだろう。そもそも頭が痛いのは、この三条院でただ人と言えるのは、あこぎ一人なのだ。
「では主上には、ありのまま、お見せすればよろしいのでは?」
ことりと首をかしげて薫がいう。貴仁は軽く目を見開いた。
「ありのままか?」
「はい、主上にいつわりをお見せすることのほうが、畏れおおく思います」
貴仁は息を呑み、次いで微笑した。──難しく考え過ぎていたようだ。
「なるほど、隠すほうが無礼だ」
開き直ったような言葉に聞こえるが、薫は素直に帝にはうそがつけないと言っているのだ。それに「ふ……」と貴仁は口許をゆがめ「ははは」とついに声をあげて笑う。
「そうだな、そうだな、お見せすればよろしいか?」
「はい、お会いするのが楽しみにございます」
どこまでもおっとりと、薫がうなずくのだった。




