第七章 時を止めた呪い(後編)
薫が着地した地面にぴしりと大きく地割れが走る。それに貴仁は今度は逆に薫の身体を抱きあげて飛んだ。着地地点は、すでに空へと舞い上がっていた、己の黒馬の鞍の上にだ。
薫を抱き上げる腕に力を込めながら、貴仁は「護られるだけの月」ではなく「共に戦い立つ月」を、この腕に迎えたのだと想い微笑を浮かべる。
すでに地面から伸びていた白骨の右手ではなく、今度は左手。さらにその中央の闇から、巨大な髑髏が浮かび上がり、首から胴体の半ばまでが姿を現した。骨は青白い炎をまとっている。
「なんというデカ物だ」と惟光が焦った声をあげている。まあ、これまで相対した中でも、一番の大物だろう。
上半身だけ地の底からせり上がった巨大な骸骨は、東寺の五重塔ほどの大きさがあった。これが真っ昼間だったら都中大騒ぎになっていただろう。
「……先の亡者は露払いで本命はこれか?」
これだけの姿となっても、なお、やはり、ただ人の目には見えないだろうが、その禍々しい瘴気は災厄となって、人々を襲っただろう。
華やかな都の裏にたまりし、人々の怨念は大火や疫病となって、幾度もこの都に降り注いだ。
その災いの芽を未然に貴仁が摘んできた。春宮から帝の頃よりの夜歩きを宿直の殿上人や女官達は気味悪げに、見て見ぬふりをしこそすれ、本当に彼が何をしていたのかは、知りもしないだろう。
上半身だけ地面に生えた巨大な骸骨。貴仁と抱かれた薫を乗る黒馬を追い掛けて、その右手が動く。巨大な手をがしりと剣で受けとめれば、今度は左手が追い掛けてきて横に退く。
そこに今度は手ではなく、巨大な髑髏が、ぐわりと口を開いてのぞいたのは、黒炎をまとった長い舌だ。それが黒馬ごと貴仁達を絡め取ろうとする。
今度は薫が扇をひらめかせて、風を起こして黒い炎を飛ばした。しかし、そこに今度は右手が……ときりがない。
「薫、左手の相手を出来るか? 俺は右を」
「はい」
短い問答だけで互いの意図が伝わる。視線を交わした瞬間、薫の風と貴仁の炎とが、ひとつの戦場の図を同じように思い描いているのが、どちらにもはっきりとわかった。
貴仁にこくりとうなずいて、彼の腕の中、横乗りしていた鞍からふわりと、その身体が離れる。
「菊丸」
そう薫が名付けたおぼろ車の名を呼べば、車の大きな車輪が一つ外れて飛んでくる。そこに薫はとんと着地する。
二つに分かれた獲物を骨だけの巨大な手が追い掛ける。右手は黒馬に乗る貴仁を、左手は青白い炎をまとう車輪に乗る薫をだ。主人が命じずとも、黒馬も、そしておぼろ車の車輪も自在に宙をかけて、その攻撃をひらりひらりと避ける。
ガキリ、ガキリと重い音がして、右と左の手を貴仁と薫が、その太刀と扇で受けとめたのは同時だった。お互い言葉を交わさずとも、ぴったりと合った呼吸だ。
太刀は紅蓮の炎をまとい、巨大な手だけでなくその片腕を包み込む。地獄の業火はその骨を焼き尽くす。
かざされたたおやかな扇は、しかし、見えない風の壁が同じく骨の巨大な手を阻み。そして、巻き起こった渦はたちまち巨大な竜巻となって、同じく腕まで吸い込み、鋭いかまいたちとなって骨を砂となるまで細かく刻む。
燃えあがる炎と、そして、さらさらと崩れていく両腕。残った髑髏は、無用となった胴体を捨てた。頭が宙へと浮かび上がると、残った首から下の胴体のあばらの骨ががらがらと崩れさる。
髑髏が、さっきより大きく口をぐわりと開けば、ひらめく黒炎の舌の向こうに、漆黒の闇が見えた。おそらくは地獄とは違う、もっと恐ろしい暗黒の冥府へと繋がる道だ。生きたまま、二人をのみ込もうとする。
貴仁は真っ直ぐ黒馬を進め、その後ろに青白い炎をまとう車輪に乗った薫が続く。黒い炎の舌が二人を絡め取ろうとするが、それは薫が張った風の結界にはじかれる。
そして、黒馬から飛んだ貴仁が髑髏の頭に着地し、その脳天に太刀を突き刺す。びしりと亀裂が広がり、またたくまに崩壊する。
崩れる足場から跳んだ貴仁を黒馬が回収する。「よくやったな、玄王」と己の愛馬の首を軽く叩けば、彼はふんと鼻息荒く応えた。
「やれやれ、今宵は大騒ぎにございますな」
一の従者である惟光が、狐から元の姿に戻り、左近と右近も元のしずしずとした女房装束で、おぼろ車の横に立つ。
薫もまた、下へと降りた車輪からふわりと地に立った。そして、小石だらけの河原をするすると滑るように逃げていく、小さく黒い影に気付く。扇をむけて、ひょいと上にはねあげれば、見えない力にすくいとられるように、その黒く小さな影は薫の手に落ちようとしたが――。
横から伸びた大きな手が、その黒いなにか――トカゲの形をした影を、そっとつかみ取った。
「このような"穢れ"は、大神であるそなたが触れるものではない」
「貴仁様、お手が!」
彼の手は黒い炎に包まれていたが、それもすぐに消え、開かれた掌からは、すすのような黒い粒がさらさらと落ちて、跡形もなく消えた。
「傷が……」
貴仁の手の平は焼けただれていた。薫がその手を取り、そっと口付けると、傷はたちまち治ってしまった。
唇にふれた皮膚の熱さから、薫の「癒しの力」が静かに入りこんでくるのがわかる。
貴仁は、胸の奥までじんと焼かれるような痛みが広がるのを感じた。それは痛みでありながら、どこか甘く、切ないものだったが――その感情を顔に出すことは、けしてなかった。
「痛みは?」
「そなたが癒してくれたから、大丈夫だ」
「こんな傷、一晩も放置しておけば治ってしまうのだが」という言葉に、薫はその顔を曇らせた。
「それでも、お痛いものは、お痛いでしょう? 蠱毒を握りしめられるなんて」
蠱毒とは強い呪いの術だ。毒蛇や毒虫を同じ瓶に閉じこめ、互いに争わせて、最後に生き残った一匹を術の媒介とする。
それをこのような怨嗟極まる刑場に埋めるなど、どす黒い意思しか感じられず、薫は珍しくも険しい顔となる。
「蠱毒を知っているのか?」
「あ、はい」
うなずく。それが不思議なことか? と薫は首をかしげた。初めから頭にあったことだ。自分がどうして、蠱毒などというものをわかっていたのか、疑問に思わないほどの。
それは神の末として生まれたときから知っていること。
それより。
「……とても嫌な感じがします」
あの大きな骸骨の物の怪と対峙しているときも感じた。これは都にたまった積み重ねの幾多の怨嗟だけではない。
なに者かの……ただ一人の強い邪悪な意思を感じる。
「俺もそう思う。そなたが感じているならば、なおさらそうだろうな」
蠱毒によって強化された、怨霊達を放置しておいたならば、それは都に災厄となって降り注いだだろう。恐ろしい疫病という形で。
傍らにやってきた惟光は「おそろしや、おそろしや、あのような物の怪、この惟光、この百年生きてきて、見た事もありませんぬ」などとおどけた調子で、しかしその足は震えている。この狐、物の怪としては意外と若いのだ。それに比べれば、三百年生きた左近と右近の猫又は、扇で口許を隠して「まあ、惟光殿は恐がりだこと」と、ころころ笑っているが。
「さて、惟光。お前に仕事がある」
「は、はい。この蠱毒を仕込んだ者が誰か、探すのでございますか?」
「それもあるが、一番最初の仕事はそれだ」
と貴仁が指さしたのは、先の騒ぎで木っ端微塵になった、処刑人の首をさらす台だ。
「元に戻しておけ」
「へ、あ、それがし一人で? このような、薄気味悪い刑場で? ひ、ひどうございますぞ、殿……!」
左近と右近はおぼろ車に乗り込み、薫は貴仁に抱かれて黒馬の上に。叫ぶ惟光を置き去りにして、さっさとその場を立ち去る。
「惟光、一人で大丈夫ですか?」と心配する薫に「そなたは本当に優しいな」と貴仁はその頬に口づけて。
軽く触れただけの口づけなのに、薫の尖った耳の先までかぁっと熱くなる。さきほどまで怨霊の気配を拾っていた大神の耳が、今は自分の心の臓の音ばかりを拾っている。
「あれは一人ではない。使い魔の管狐がいたのは見えたであろう?」
「あ、はい。手伝いの者がいるなら大丈夫ですね」
こうして、やけに真新しくなった刑場のさらし首の台を前に、人々は首を傾げることになる――という、余談である。




