第七章 時を止めた呪い(前編)
そして、話は冒頭へと戻る。
貴仁が独り夜歩きへ出た夜。
薫はそれを追い、ぬえもとぎを退け、四尾花の百鬼夜行と相見えた。
二人の婚姻祝いとして"おぼろ車"が贈られた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
からからと引く牛のいない車が行く。
「四尾花様は……」
「あなたが、あのあやかしに様をつける必要はない」
車の中、貴仁の言葉に薫はこてんと首を傾げる。
「あの方とは貴仁様が東宮様の頃からお親しくされているのですね」
「親しいというような間柄ではない。ただ長い付き合いなだけだ。あれは左京の物の怪を治めるもの。今宵は大物過ぎたが、都の影の異変についてはあれに聞けば、大概わかる」
……便利に使っているだけだ。やましいことなど、何もない。そう言い切りながら、貴仁はそれが"言い訳"になっていることに気づいた。
これではまるで浮気の弁明をする亭主のようではないか。
眉間に皺をよせて薫を見れば、こちらを真っ直ぐに見ている。その黒い瞳には、なんの怒りも不安もなく、ただ童のように真っ直ぐに、貴仁の話に耳を傾け信じている。まるで生まれ立ての赤子のような無垢がそこにそのままあった。
「では、貴仁様の助けになられる方なのですね」
ふわりと桜色の唇の口角を上げる。その微笑みもまた花開くように貴仁にそのような頼りになる知己がいることを、心から慶んでいる。
そこには婀娜っぽい白狐に対する、醜い妬心など微塵もなく──。
貴仁は胸に湧き上がった熱い衝動のままに、薫を抱き寄せていた。
「貴仁……様?」
抱きしめられた狩衣の肩から顔をあげて、こちらを戸惑い見る。その薫の頬がほんのりと紅く染まっている。それに貴仁は満足する。
何も知らぬ無垢なのに、自分にはこうして気恥ずかしいのだと、心の柔らかな揺れを見せてくれる。そんな妻がただ愛おしい。
そして、三条邸に戻った夫婦は、同じ御帳台に入り、貴仁は宝珠のごとく薫を抱きしめて寝た。
そう、ただ優しく包みこんで、薫のすやすやという寝息を聞きながら、貴仁もまた眠るに誘われる毎日だ。
この夫婦。夫婦といいながら、大変清らかな関係であった。
さて、翌日。「殿、今宵もお変わりなく『おやすみ』になられましたか?」という、一の従者惟光の問いに、貴仁が無言で扇をかざして、従者が簀から庭に転げ落ちる。
いつもの日課が繰り広げられた。
女房達は「惟光殿は懲りないこと」と笑い、その頃、昨夜の夜歩きの疲れもあって、まだ御帳台の中で夢の中にいた薫は、そのことを知る由もなかった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
三日後の再びの都の夜。
からからといくのは、青の糸毛車の牛車だ。だが、ひいている牛はいない。車輪にまとっている青い炎から、これがただの車ではない、おぼろ車という妖怪だとわかる。
中に乗っているのは、躑躅の袿をまとった薫に、女房装束の左近と右近。その裳からは、黒猫と白猫の二つに分かれた尻尾が覗いている。
その横を行くのは黒馬にまたがった、貴仁だ。馬の目は夜の闇に赤く光り、いかにも異形だとわかる。その横を徒歩の惟光が駆けてついてくる。
走る馬にも息を切らせることなく横を走る惟光の、衣の裾からも、狐の三つの尻尾が揺れている。
車の中では。
「さあ、月宮様、甘い物をご用意しました、お一ついかがですか?」
「ありがとう、この唐菓子おいしい」
左近の勧めに薫が応え、ぽりぽりと音がする。それに右近が「こちらは杏を甘葛で煮た餡が入っていますのよ」と勧めて、それも「うん、甘くてこれもおいしい」と薫は返している。
左近と右近は、薫が機嫌よく菓子を口にするたびに、微笑みの喜びを隠さず顔を見合わせる。三百年生きた猫又であっても、この主は格別に素晴らしくお可愛らしいと噛みしめるように。
夜の物騒な都を行くとは思えないほどのどかだ。
父宮と母宮という後ろ盾を失い。荒れた屋敷に薫は隠れ棲んでいた。
その手をとって外へ引きだしたのが、貴仁だが。
長年の薄い草粥だけ生活で食が細い薫には、なにかにつけて、少しずつなにかを口にさせるようにと命じたのは、貴仁だ。左近と右近の優秀な女房達は、薫の小腹のすき具合をみては、あれこれと勧めているようだ。
そして、その出来る女房としては、先の貴仁の夜歩きに薫も一緒に抜け出したのを、気付かなかった自分達に相当な衝撃を受けたらしい。
それで、どうしてもついて来ると聞かなかったのだが。
「己の身は己で守れよ」と貴仁は先に申しつけておいた。ま、二人とも百年どころか、かれこれ三百年は生きている猫又だ。並の物の怪にはおくれはとらないだろう。
賑やかな車の中とは裏腹に、六条の河原に近づくにつれて、外の空気は重くなる。そもそも、夜の刑場に誰も近づくものなどいない。
そう、六条の河原は有名な刑場だ。ここに都が移されて以来、盗人や殺人などの咎人だけでなく、叛逆の疑いをかけられた貴族や武人、それに連なる女子供までの一族が処刑されて、その首をさらされてきた。
だがそれよりも、牛も引かずに青い鬼火を揺らめかせてゆくおぼろ車に、不吉な黒馬に直衣姿の公達など、姿を見られたなら、こちらのほうがあやかしとして人々の噂になりそうだと、貴仁は思う。
六条の河原へ足を踏み入れた瞬間、ふっと音が薄れた。川のさざめきも、草の擦れる気配も遠のき、世界の時が一拍、止まったように感じる。
――ここは、呪いが時を淀ませている。
それを現すように、妙に静かすぎて不気味だ。今はさらし首のない、木の台がぽつんとおかれているのが、いっそ、恐ろしく感じる者がいるだろう。
「静かでございますね」
「ああ」
左近に手をとられ、右近に長袴の裾の世話をされながら、降り立った薫はのんきにそう言った。これが寝殿の奥で育った並の姫君ならば、なにもない風の音にも怯え震えて、ちょっとした音でも卒倒したことだろう。
まあ、薫は並の姫ではない。ぼんやりとした風で夜の闇に沈んで河原と鴨川の境さえわからない周囲を見て、そして、こてんと首をかしげる。頭の上の耳が、くるりと回るのを貴仁は見た。
「来ます」
薫の言葉と同時に、貴仁の背には幾度も味わった気配、異界の"よどみ"が流れ、彼は薫の前へ半歩出た。
河原の荒れた地面がぼこりぼこりと隆起し、そのなかから這い出てきたのは、土色にくすみ、どこか不自然に腹が膨れあがった亡者共。
だけでなく、川の上にゆらりと揺らめき現れたのは、衣冠束帯や女房装束姿の男女だ。冠をかぶった者もいれば、黒髪に縁取られた者もいるが、その顔はいずれも肉の気配を失った、白く乾いた骨ばかりであった。
亡者と死霊が、ぐるりと貴仁と薫たちを取り囲み――じわじわと輪を縮めた。
亡者は「おんおん」と哭くような、言葉にならない声をあげる。貴族の姿をした死霊達は「主上うらめしや……」「皇の血、絶やさずにおくものか」と、空洞の眼窩でこちらを見据えてくる。
貴仁は上皇であり、薫も宮であるからして、憎い皇の血に違いない。その死霊達の中にも、あきらかに皇族だろう者達も混じってはいるが、だからこそ憎いのだろう。
謀反がならずに帝になれなかったのを逆恨みするのはともかく、なんの罪もないのに政争の犠牲として処刑された者達はさらに呪わしいだろう。
「……どのような事情があるとはいえ、今は恨みに凝り固まった怨霊だ」
貴仁が淡々と告げる。無念である、くやしかろう、うらめしかろう。ここにあるのは、その憤怒の念で凝りかたまったものだ。ほうっておけば、この六条の川原をさまようのみならず都に災いをもたらす。
「ならば、その怨念をすべて燃やし尽くす」
静かな宣告とともに貴仁の黄金に変わった瞳には、人としての哀れみと鬼神としての容赦なさが、炎として燃えあがる。
貴仁は腰の太刀を抜き、ふわりと剣舞のごとく頭上で回せば、その切っ先から紅蓮の炎が出る。うねる竜のごとき炎は周りを取り囲む死霊に亡者どもを、一瞬にして焼き尽くす。その怨嗟の声さえも。
「私は――無垢な魂に、救いを」
炎がすべてを呑み込む、その刹那。薫が檜扇を広げてふわりと扇げば、風にひらひらと乗る無数の胡蝶が。それがあがる炎の上を滑るように飛んで、そして天へと光となって昇る。
地獄の炎のただ中で、薫の清んだ祈りが、一筋の天から蜘蛛の糸のような光を垂らす。
糸が伸びた魂は親と共にわけもわからず処刑された子供達のものだ。なぜ我が子まで……とその子をかき抱き、嘆いていた母親は、吾子が糸が触れたとたん、光の玉となり天へと昇っていくのに、ほっと救われた顔で炎に呑まれ成仏する。
「救いか……大神は慈悲深いな」
「余分なことをいたしましたか?」
「いいや、鬼神たる俺には出来ない。地獄にたたき落とすか、その魂を消滅させるしかな」
貴仁は、自分の掌に宿るのが裁きの炎だけであることを知っているからこそ、薫の差し出す救いの手を、どこか羨むように見つめていた。
いままでならば、罪を裁き、業火で焼き尽くすことしか出来ないのも、致し方なしと考えていただろう。己の片手には断罪の太刀が、もう片方にはすべてを燃やし尽くす炎しかない。鬼神に慈悲の手などない。
「……案外とそなたと俺が出会ったのは、高天原と地獄の意思か?」
そう貴仁が口にすれば薫はきょとんとした顔だ。その無邪気さも愛おしいと目を細めて、気をとられていたせいなのかもしれない。
奥深く地から響く音を先に捕らえたのは、薫の大神の耳だった。頭の上のそれが、ぴくりとはねる。
「貴仁様、危ない!」
「なっ!?」
地面が割れて足が取られる。だけでなく、貴仁を掴もうとふわりと出たのは、巨大な骨の手だ。
だが、間一髪、伸びた腕が彼の身体をさらうようにして、さらに追い掛けてきた骨の手の平を蹴って、大きく跳躍して、ひらりと着地したのは薫だ。
「ご無事でよろしゅうございました」
にっこりする薫に「ありがとう」と答えた貴仁は、複雑な表情だ。
なにしろ、袿姿に長袴の姫に、直衣姿の自分が軽々横抱きにされていたのだから。
「降ろしてくれぬか?」
「あ、はい」
貴仁と薫の背丈はさほど変わらないが、身体の厚みや肩幅が違う。己より遥かにがっしりとした貴仁を軽々、薫は抱きあげたどころか、袿に長袴姿で跳躍したのだ。
薫の腕に支えられていた一瞬、貴仁は己の重さを気にするよりも、その無邪気な笑みのほうがよほど心の均衡を揺らすと、目をそれとなく逸らした。
地面に降ろされて「そなたは案外、力持ちだな」と言えば、薫は「そのようですね」とおっとり返す。
足下の地面がえぐられた襲撃に、左近に右近は本来の白と黒の猫の姿となって飛んで避けて、離れた場所に停まっていた、おぼろ車の屋根に。
惟光もまた、元の三尾の狐となって、尻尾をふくらませて空をひらひら、飛んでいる。自分達の身は自分で守れと、貴仁は先に告げたのだから、立派に主命を守ったといえるが、いずれもニヤニヤとしているのに貴仁は、美しい眉間にしわを寄せた。
「しかし、俺は逆のほうがいいな」
「はい?」




