第六章 琴に笛
数々の道具が一つずつ無くなっていくなか、琴だけは最後まで薫のそばにあった。
弦が一つ、二つと切れても、残った弦で鳴らす。切れた弦の音を、胸の中で思い浮かべながら。
だが、最後の弦が切れて、もう音が鳴らなくなったとき。あこぎの大叔母である女房に、こう言われて手放した。
「これしか……売る物がありません」
その夜のすすけた御帳台の中で、薫は声を殺して泣いた。大叔母の女房やあこぎに聞こえてはいけない。これで皆が粥に困らずにすむのなら――そう自分に言いきかせながら。
大事なものを手放すたび、世界が少しずつ色を失ってゆく――そんな風にぼんやりと感じながらも、薫は父母の言いつけ通り外の世界を知らず、乳母の言葉に従う、そんな姫君の生き方しか知らなかった。
だから、左近と右近が「殿様から、これを」と差し出した琴に、薫は目を輝かせた。
一目で分かる銘品だ。
「私がこれを弾いてもいいの?」
そう問えば、双子はにっこり微笑んで、「ぜひ、宮様のお琴をお聞きになりたいと」と告げた。
薫は錦の袋から爪を取り出し、指に嵌める。こちらも象牙の逸品だった。
薫が琴に触れる指先を見つめながら、あこぎは胸の奥がきゅっと痛んだ。
袖口でにじむ涙をそっとぬぐう。「なにがよいか?」と貴仁から昨日問われたのだ。
「贈りたい物は数あるが、最初はあの方が望むものが一番だろう? しかし、直接に聞いて奥ゆかしいあの方がおっしゃるとは思わない」
ほんの数日のおつきあいなのに、よくわかってらっしゃる。
それで、琴と答えたのだ。薫が最後まで手元に置いていた。弦が一つとなっても愛おしむように弾かれていた。葎の御殿で一人きりだった宮様の唯一のお友達。
薫は、たしかめるように一つ一つ弦を鳴らしていく。ほう……とため息が、その桜色の唇からこぼれた。やはり銘品だ。素晴らしい音色。だから、つたない弾き手である私に応えてと、心で語りかけながら、子供の頃、母様から習った曲を、その教えを記憶から呼び起こしながらたどる。
指先からあふれる音に自分のわびしい過去と、輝くような今が静かに縫い合わされてゆく気がして、薫は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
夢中になっていたから、そばにいつの間に、こちらを見ている方に気づかなかった。「宮らしい、奥ゆかしく気品のある音だ」と言われて、弾き終えて余韻に浸っていた顔をあげる。
「このような素晴らしい琴をありがとうございます」
三つ指をついて頭をさげる。
「うん、そなたが喜んでくれたならば、俺も嬉しい」
そして貴仁は曲の名を告げて「弾けるか?」と訊ねるのに、薫はこくりとうなずく。彼は満足そうに微笑む。
それは、帝や宮家のみに伝わる秘曲だ。薫がその初めを奏でれば、貴仁が懐から横笛を取り出して、口をつける。
笛は、空を征く竜のように悠々と鳴る。琴はその傍らで、風の裾のように柔らかく寄り添った。
その音色に女房達はうっとりと耳をかたむけ、忙しく働いていた下働きの者達も、ふと手を止めて口許に笑みを浮かべる。
そして、琴の最後の一音が終わり、笛の音も消えて、ほう……と薫は、頬を染めて感嘆のため息を一つ。
「とても見事な笛の音にございました」
「それを言うならば、そなたも素敵だった」
「また」とお互い口にして、顔を見合わせる。貴仁の深い慈愛の瞳にうながされるように、薫は口を開く。
「また、ご一緒してくださいますか?」
「もちろん、これからいくらでも」
「では、お食事と一緒ですね」
そう言う薫に、貴仁が軽く目を見開くのに、続けて。
「一人ではなく、二人ならばもっと楽しいです」
「ああ」
二人して、微笑みあったのだった。
音と膳を共にする日々――それは薫の中で、静かに「夫婦」と呼べる景色になりつつあった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
そして、三日目の夜。
貴仁に手を引かれて、御帳台の中へと入る。二人してしとねに横たわり、今日も彼の腕に抱かれて目を閉じようとした。
「少し良いか?」
「はい? ん……」
唇を重ねられる。
ちょん、ちょんと――小鳥の挨拶のように触れるだけ。それが次第に深くなり、唇をすっぽり覆われる。
ぴくりと薫の薄い肩が跳ねた。
それをなだめるように貴仁の大きな手が撫でて、夜着一枚に覆われた背を片手がなで下ろす。その温かさに安心するのに、ぞくりとなにかが這い上がってくるのはなぜだろう。
頭の上の耳も、ぴくぴくと左右に動き、銀色の糸を引いて離れた唇が、その先にそっと触れる。
「や……」
「嫌か?」
「耳を噛むなんて……あ……」
その先にそっと触れられ、尖った形を縁取るように舌がなぞっていくたび、声が自然にあがる。
「ここも心地よい?」
「くすぐっ…た…んんっ!」
ささやく甘い声さえ、胸がざわざわとざわめく。唇の奥深くまで触れ合う感触が、直接頭に響くようで、それだけで頬を赤らめて、潤む黒目がちのぼんやりとした瞳で、ただただ貴仁を見る。
「くすぐったい、というのは……心地よい、ということだ」
「貴仁様に触れられるのは、ドキドキするけれど、もっと……と思います」
「もっと?」
「は…い……」
自分の口からこぼれた「もっと」という言葉に、薫自身が一番驚いていた。それでも、この人から離れたくない――その願いだけは、はっきりしていた。
大きな手で耳ごと頭を撫でられて、目を細める。そして、また唇をふさがれて今度は長く。息が苦しくなって離れて訴えれば、「鼻で息をすればよい」と穏やかに笑われた。
言われたとおりにしてみれば、再び深まる口付けに、胸の鼓動ばかりが高鳴って、触れ合う唇の熱さに指先までじんわりと力が入る。
「あ……」
うっとり目を細めれば「おやすみ」とひたいに口づけられて、薫は素直に目を閉じた。
耳の奥までじんわり残る体温に包まれながら、薫は「この人と眠る夜が、ずっと続けばいい」と、幼子のように無邪気な願いを抱いていた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
まだ、薄暗い早朝から三条院の屋敷を取り囲む、牛車の列は、もはや都人には見慣れた光景だった。大臣といえど門の中へと入れず、外へと出てきた屋敷の男に「本日、院は誰ともお会いになりませぬ」と、そのまま朝廷へと向かうのも。
しかし、今朝は違っていた。門は開かれ、さあさあと全員、簀へと上げられた。正殿正面にずらりと左右大臣、大納言以下、参議など三位以上の上達部と呼ばれる殿上人が居並ぶ様は、圧巻で、さながら宮中での行事を思わせた。
通された殿上人達もまた、その理由もわからず、そのうち女房達がやってきて杯を持たされ、酒を勧められるがままに、みな一杯ずつ飲み干した。
今のは祝いの酒か? ならばなんの?
首をかしげる殿上人が居並ぶ簀の前、白砂の庭にささっと歩み出たのは、皆が顔をよく知る院の一の従者惟光だ。一応、宮中より五位を頂き、特別に昇殿も許されているが、院の母である亡き更衣の遠縁という以外、身元も知れぬ怪しいものだ。
彼に毎朝「院は本日どなたともお会いになりませぬ」と告げられて、すごすご、帰らざるをえない大臣達以下の殿上人にとっては、その狐のようなしたり顔は見たくもない、が、彼に取り次がねば、院にお会い出来ぬのも確かで。
「方々におそろい頂いたのは、本日はまことにめでたい日。院がこの三条院にお后様を迎えられて、三夜過ごされ、露顕とあいなりました」
ところあらわしとは、男君が女君の元へと通い、三日過ごして正式に夫婦となった、それを公にする習わしである。とはいえ、通常ならば正殿の御簾の向こうにいるはずの婿である院の姿はない。
そもそも、どこの姫を娶られたのだ? と思わず顔を寄せてざわつく、大臣以下の者達に惟光は、これで用が済んだとばかりに、方々の退席を促した。
「鬼神の上皇が、自ら后を明かした」その事実だけで、三条院の白砂の庭は一夜にして都中のうわさの種となるだろうと、惟光は内心ほくそ笑んでいた。
追い出されるように三条院を出て、おのおのの車に乗り込んで、殿上人達は仰天することになる。
本日の祝いの引き出物と、見事な女房装束が一式すべての牛車に届けられていたのだ。
貴族同士、なにかにつけて張り合うように豪華な贈り物をし合うのが、当世風のお付き合いというものである。しかし、院は帝時代からケチ……いやいや、いわれのない贈り物などまったくなさらない方で有名であった。ただし、評価にたる見事な舞や楽の音を響かせたものには、その報償を惜しまない方ではあったが。
院となってからは、それはさらに顕著となり、己は世捨て人よとばかりに宴一つ開かず、大臣達の日参とて一月に両手の指で数えるほどしか会わず。
よく考えてみなくとも、このようにあまたの殿上人を御殿の中に入れたのは初めてではないか? それが御簾ごしでもお姿を現さず、杯一杯で大臣以下を追い出すとは、なんともあの方らしいが。
しかし、招き入れたすべての殿上人に、このように見事な女房装束一式とは、迎え入れた姫君に対して、並々ならぬお気持ちがあるらしいことはわかる。
そこで、皆、そのようなご執心やお通いの姫の噂など、とんと耳にしたこともなく、まったく思い当たらぬと首をかしげるのであった。
「鬼神の子」と恐れられた男が、誰にここまで入れ込んだのか!? 答えの見えぬまま、好奇心と畏れだけが、都じゅうにふくらんでいく。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
その頃、御帳台の中の二人は。
「まあ、お可愛らしい」
薫は思わず声をあげる。
目の前に出された黒漆の深さの浅い箱の上には、赤い紙が敷かれ、その上に金の稲穂に鶴の飾り、季節の花に囲まれたなか、小さな餅が盛られていた。
三日夜の餅だ。夫婦となった証に、三夜過ごした朝に食べる。
「頂けるか?」と貴仁からうながされて、こくりと薫はうなずく。左近から渡された銀の箸を手にとって、小さな餅をとって、大きく口を開け、貴仁に食べさせる。彼は一口でそれを呑むと、右近がすかさずほどよく冷ました白湯を差し出すのを飲み干す。
餅を噛まないで呑むのが、婿の作法だ。「あなたはよく噛んで」と同じ箸で餅をお返しされた。薫はもごもごと口を動かし、あこぎに白湯を同じく渡されて飲み込んだ。
柔らかな餅の甘みが、胸のうちにじんわり染みていく。噂に聞くだけだった「夫婦の作法」が、自分の身に起きている不思議さに、薫は小さく喉を鳴らして笑った。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
さて、三条院様がお迎えになったのは、かの有名な六条の葎御殿の姫宮だという話に、宮中や、あちこちの貴族の屋敷で開かれた宴でも、人々はひそひそと噂し合った。
あの三条院が迎えられたのが、零落した宮家の姫とは、いや、いくら落ちぶれようとも宮家は宮家、お血筋的には問題はない。姫になんの後ろ盾がないことも、かえってそのようなしがらみを嫌う、あの型破りな院らしいが。
「しかし、かの末摘花の姫にそっくりだという噂だぞ」
「帝の位であらせられたときも、あまた美女のお妃様方に手を付けなかったのは、まさかの醜女好き?」
などという噂は、三条院の女房達のほほほ……という笑い声に払拭された。
女房には女房同士の付き合いがあるというもの。ちょうど家に里帰りしていた、とある女房の家に三条院の女房に、他家の女房も集まっており。
「宮様は星屑を散らしたような見事な御髪に、そのお顔は望月のごとく輝いてらっしゃるというのに」
「ほんに殿とお似合いで」と語る女房に、他家に仕える友人の女房の一人が、扇を口許に寄せてひそひそと。
「でも二条藤家の若君が垣間見なされたと……」
「宮家の姫に文の挨拶も寄こさず、いきなり夜に訪ねられるとはなんたる不作法。まして、高貴な姫宮が臣に降嫁することなどもっての他との、父宮様のお言いつけを、固くお守りになったのです。とっさにお仕えしてる童女の機転で、鼻に紅をつけて、それにまんまと騙されるとは」
まったくまぬけな殿方だことと、ころころ笑う双子の女房のその語りは、当然、方々に仕える女房達の口から口へと瞬く間に広がり、とっくに落ちぶれていた二条藤家の末の馬鹿息子は、さらに恥の上塗りをして、役職のない宮中にも当分出て来なかったとか。
そして葎御殿の姫宮――今は三条院の正妃となったその方は、いつしか「望月宮」、あるいは「月宮」と呼ばれるようになった。




