第17話 突入せよ
その瞬間、世界が反転した。
窓ガラスが乱暴に開け放たれる音。
私の鼓膜を震わせたのは、死神の鎌が風を切る音ではなく、重厚なブーツが床を踏みしめる轟音だった。
「突入! クリア!」
「対象確認! 二時の方向!」
ベランダから雪崩れ込んできたのは、黒ずくめの集団だった。
フルフェイスのヘルメット、暗視ゴーグル、そして短機関銃。
組織の処刑部隊か。ついに年貢の納め時が来たのだ。
私は半狂乱になり、握りしめた拳銃を突き出そうとした。
「うわああああっ! 来るな! 道連れにしてやる!」
だが、私の抵抗は赤子の手をひねるように無力化された。
先頭の男が私の手首を瞬時に極め、銃を床に弾き飛ばす。視界が回転し、冷たいフローリングに顔を押し付けられた。
「確保! 対象を保護しました!」
「こ、殺すならひと思いにやれ!」
私は喚いた。拷問されるくらいなら、今すぐ頭を撃ち抜いてくれ。
だが、頭上から降ってきた言葉は、予想もしないものだった。
「落ち着いてください、相馬武次さん。我々は敵ではありません」
抑揚のない、事務的な声。
拘束の圧力がふっと弱まる。
恐る恐る顔を上げると、男の一人がヘルメットのバイザーを上げ、警察手帳を目の前に掲げていた。
そこには、菊の御紋と『内閣情報調査室』の文字が輝いていた。
「な……内調……?」
思考が停止した。
なぜだ。警察組織の一部は、既に『ウロボロス』が監視の糸を張っている。
裏切り者のリストでもない限り、その糸をかいくぐって助けなど来るはずがない。ましてや、こんな極秘の隠れ家に、ピンポイントで突入してくるなど。
「ど、どうしてここが……? あんたたちは、組織の手先じゃないのか?」
私の問いに、隊長らしき男は短く答えた。
「『匿名の市民』からの通報です。あなたの身柄とデータと引き換えに、証人保護プログラムを適用するよう取引が成立しています」
「匿名の……市民?」
誰だ、それは。
私のことなど、誰も知らないはずだ。
組織からも、警察からも見捨てられ、このコンクリートの箱の中で腐っていく運命だったはずだ。
「さあ、急ぎましょう。敵の包囲網が再構築される前に離脱します」
隊員たちは手際よく私を防弾ブランケットで包み込むと、まるで壊れ物を扱うように抱え上げた。
私は荷物のように運ばれながら、部屋の中を見回した。
家具一つない、殺風景なワンルーム。
半年間、一度も訪れず、最後は墓場になるはずだった場所。
ふと、天井の隅にある火災報知器が目に入った。
赤いLEDが、まるでウインクするように一瞬だけ点滅した気がした。
(……まさか、な)
誰かが見ていてくれたのか。
この孤独な戦いを。誰にも知られず消えていくはずだった命を。
顔も名前も知らない誰かが、その「目」で見守り、国を動かしてまで救い出してくれたというのか。
裏口へ向かう搬出ルート。
装甲車の重いドアが開き、私はその中へと押し込まれた。
車内は薄暗く、電子機器の光だけが明滅している。
ドアが閉まる直前、私は隙間からマンションを振り返った。
『レジデンス・アルゴス』。
百の目を持つ巨人の城。
重厚な石造りの外壁は、夕日を浴びてどこか誇らしげに輝いていた。
(……ありがとう。ここに来てよかった)
声にならなかった感謝が、涙となって頬を伝う。
誰だか知らない守護者よ。
あんたのおかげで、俺はまだ戦える。
死んでいった仲間たちの無念を、必ず晴らしてみせる。
装甲車が静かに発進する。
私の人生を救った奇跡の要塞は、バックミラーの中で小さくなり、やがてビルの谷間へと消えていった。
+++
騒動が去った後。
レジデンス・アルゴス、五〇一号室。通称コクピット。
私はモニターに映し出された静寂を前に、深くシートに背を預けた。
二〇二号室のカメラには、もう誰も映っていない。
床に散らばっていた相馬の私物は回収され、あとは彼が這いずり回った痕跡が埃の上に残っているだけだ。
ピロン。
手元のタブレットが、軽快な通知音を奏でた。
不動産管理システムからの通知だ。
『二〇二号室:契約解除手続き完了』
『違約金・原状回復費:入金済み』
「ふぅ……。やれやれ、これで一件落着か」
私は満足げに頷き、画面上のステータスバーを操作した。
『賃貸中』の赤いアイコンをタップし、『即入居可』の緑色に切り替える。
これで、明日からまた新しいカモを募集できる。
次はどんな人間が来るだろうか。
相場より安い家賃に釣られてやってくる、欲深き子ガモたち。
もちろん、彼らの人生を覗き見て楽しむことが目的ではない。
彼らが、バッドエンドをむかえようが、ハッピーエンドをむかえようがどちらでもいい。早く退去さえしてくれれば。
+++
私は一仕事を終えた区切りにコンビニへ行くため、マンションのエントランスまで降りてきた。
すると背後から声がした。管理人の荒矢吹翔龍だ。
手には湯気の立つコーヒーカップが二つ。
「オーナー、お疲れ様です。コーヒーどうですか?」
「ああ、ありがとう荒矢吹さん」
彼は無骨な手つきでカップを私に手渡すと、少し不審そうな顔で言った。
「先ほど、裏口の方で少し騒がしかったようですが? 黒い車が数台、猛スピードで走り去っていきました」
さすが元刑事。耳が良い。
だが、彼に真実を話すわけにはいかない。
国家を揺るがす機密データの取引も、特殊部隊の突入も、彼の中にある「平穏なマンション管理」という世界観には馴染まないからだ。
私はコーヒーを啜り、何食わぬ顔で答えた。
「ああ、あれね。二〇二号室の引越しだよ」
「二〇二号室? そうですか。といいますか、一度も住人の姿を見たことが無かったような…」
「急な転勤が決まったらしくてね。引越し業者が少し荒っぽかっただけだよ。まあ、立つ鳥跡を濁さずとはいかなかったが、費用はきっちり頂いたから問題ない」
荒矢吹は「そうですか」と短く頷き、興味なさそうに窓の外へ目をやった。
「傷でも残っていたもんなら引越し会社にクレームを入れてやりますよ」
「心強いですが穏便に頼むよ、管理人さん」
私は苦笑した。
彼にとって、国家の命運をかけた脱出劇よりも、エントランスの泥汚れの方が重大事なのだ。
この男がいる限り、レジデンス・アルゴスの平和は盤石だ。
+++
荒矢吹と別れてコンビニへ行き、アルコールとつまみを少々購入して部屋へ戻った。
そして、再びモニターに向き直った。
画面の中で、無数の監視カメラが明滅している。
一〇二号室では女子大生が電話で嘘をつき、三〇五号室ではサラリーマンが隠れて押し入れで大麻を育てている。
相馬武次の人生を救った奇跡も、国の運命を変えた取引も、このマンションにおいては「日常の事務処理」の一つに過ぎない。
すべては、私の「莫大な相続税」の支払いのために。
「さて、仕事に戻るか」
私は新しいビールのプルタブを開けた。
プシュッという小気味よい音が、要塞の中に響き渡った。
そういえば、なぜ彼は私がエントランスに降りたところでコーヒーを2つ手にしていたのか?
まぁいい。
第4章 完
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