博愛の魔女 ③
『……ちゃん』
『……』
『……ドリーちゃん』
『……』
『カドリーちゃん!』
『…………………………お母様?』
上体を起こし、周囲を見回す。慣れない環境に身を置いた最初の日という事もあるのだろう。自分が今、異世界留学の為に魔界を離れていたのだと頭が認識するまで、少し時間がかかった。
引き戸の間から射し込む朝日に照らされて、土の匂いと食事の匂い、そして僅かな畳の匂いが混ざり合った初めての匂いに、鼻が一瞬混乱しかける。そこは4年間の人生で、一度も経験した事のない環境だった。
一体何故自分がこんな所で目を覚ましたのか。何故いつも起こしに来てくれるお母様の姿が見当たらないのか。頭が中々環境に着いていけない。……が。
『残念。ダイゴロウだよ』
『……ダイゴロウさん』
母の代わりに私を起こしに来たその人が名を名乗った事で、ようやく私の脳は、自分の置かれた環境を受け入れた。異世界留学二日目。私はまだまだこの日本の田舎町に慣れる兆しがない。
『大丈夫? なんかうなされていたみたいだけど。冷や汗もびっしょりだし』
『……』
『まぁ無理はないか。お母さんが恋しいよね?』
『……』
『顔を洗っておいで。そしたら朝食にしよう。カドリーちゃんのお母さん代わりにはまだまだ未熟だけど、俺なりに頑張ってお袋の味を考えて挑戦してみたんだ』
そう言って私に背を向け、この部屋を後にするダイゴロウさん。
『……』
私は未だに寝ぼけ半分の頭で、しかし冷や汗を吸い込んでずっしりと重くなった浴衣が気持ち悪いのは間違いなかった為、汗水のせいで素肌に張り付くその浴衣を脱ぎ捨てて、まずは顔を洗うべく、井戸のある裏庭の方へと足を運ぶのだった。
『あのね、ダイゴロウ! 勘違いしないで欲しいんだけど、私別にお母様がいなくたって全然平気なんだから!』
『へー、凄いな。俺がカドリーちゃんくらいの頃は、お袋がいつも近くにいないと不安で不安で堪らなかったのに』
『私は違うの! うなされてたのは……あれよ! あの浴衣って言う寝巻きが悪いのよ!』
『あれ? 着心地が悪かった? でも昨日、寝る前はスゥスゥして気持ちいいって』
『そっちじゃなくて紐! ダイゴロウさん、私の体を紐でぐるぐる巻きにしたでしょ!』
『あー、そっちか。それはおはしょりって言ってね、浴衣を胴まで引き上げてから紐で固定して、丈の寸法をカドリーちゃんに合わせているんだよ。そうしないと夜に厠に行く時とか、丈を踏んじゃって危ないだろう?』
『でもこんなにぐるぐる結ばなくてもいいじゃない! おかげで凄く寝づらかったわ……』
『あっはっはっ……、そっかそっか。それはごめんな。でもこんなに沢山の紐を使うのにもちゃんとした教訓があって、夜寝ている時に火事が起きたら、浴衣の紐を使ってすぐに2階から逃げられるんだ。そう考えると中々便利な物だろう?』
『でもうち、2階なんてないじゃない』
『…………。確かに』
その後、ダイゴロウさんは珍しく一本取られたとでも言わんばかりに大笑いして、朝食のシチューを頬張るのだった。
『まったくもう……』
私もダイゴロウさんに釣られるように、シチューを一杯口にする。
『お味はどう?』
『…………美味しいわ』
数秒前までダイゴロウさんを怒鳴りつけていただけに、素直に褒める事は出来なかったものの、しかし前日の夕食に比べて、このシチューという料理は中々私の舌に馴染む味だった。ここで褒めておかなければ、また前日の夕食のような物が出されるかも知れないと危惧した私は、渋々ながらもダイゴロウさんお手製のシチューを褒めた。
シチュー……、とは言っても。あの時に私が食べたシチューは、現代で言う所の肉じゃがに近い料理だっただろう。現代人が一般的に思い浮かべるようなホワイトソースを使ったクリームシチューは、戦後になって普及した料理である。
シチューそのものは、明治時代に政府のお偉い様が海外で振る舞われ、そのあまりの美味しさに感銘を受けた事で日本に伝えられた料理である。しかしじゃがいもや人参のような具材はまだしも、ホワイトソースという未知の食材を日本の料理人に上手く伝えられる筈もなく、料理人なりに試行錯誤しながら、シチューの具材を純日本風の味付けで調理したものが肉じゃがの始まりだと言われている。
ダイゴロウさんが私より早起きして拵えたそのシチューも、やはりデミグラスソースやホワイトソースの類いは一切使われておらず、とろみつけの為にメリケン粉(小麦粉)を少々まぶした程度の肉じゃがである事に違いはなかった。
……が、それでも漬物や味噌のような発酵食品を使っていない分、私にとってはとても馴染みやすい匂いと味であり、おかげでほんの少しではあるが、この世界で生きて行く事に希望を持てた一時であった。
『ねぇ、ダイゴロウ』
そんな至福の朝食を終え、ダイゴロウさんと一緒に洗い物に取り掛かった私。お茶碗を洗う私の表情に違和感を覚えたのだろう。
『どうしたの?』
ダイゴロウさんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
そんなダイゴロウさんを見て、私はこの悩みを打ち明けていいのかどうか少し考える。母がいなくても全然寂しくはないと啖呵を切った手前、この不安を口に出すのは子ども扱いされそうで、格好もつかなそうで、抵抗があったのだ。
『んー……あのね』
でも、この不安を抱えたままこの家で6年も暮らす方がキツいと判断した私は、思い切って昨晩の出来事を打ち明ける事にした。
『このお家って、おばけが出るの?』
『おばけ?』
思いもしなかった言葉が私の口から出て来て、ダイゴロウさんは首を傾げる。私はどうしてそのような疑問を投げたのか、ダイゴロウさんに昨日あった出来事を打ち明けた。
『昨日の夜ね……、変な音がしたの』
『変な音?』
『うん……。ダイゴロウの部屋の方から、どーん、どーん、って』
『……』
首を上げてダイゴロウさんの顔を覗き込む。ダイゴロウさんの表情は普段と変わらない笑顔のままだったが、その額には春先にしては珍しい冷や汗のような雫が浮かんでいたのを、私は見逃さなかった。
『それで怖くなってうなされていたんだね』
でも。
『ごめんな。ちょっと家具を倒しちゃったんだ。夜には騒がないよう、次からは気をつけるよ』
『……』
嘘を吐かれた。人生経験の浅すぎる4歳という幼い私でも、何故かその時は直感的にそう感じてしまった。
『それじゃあ畑仕事に行ってくるよ。もしもご近所さんが来たら、適当に挨拶でもしてくれればいいから』
それから少し時間が経ち、農作業着に着替えて農具を拵えたダイゴロウさんを玄関先まで見送りに行く。……いや。
『私も行きたい!』
なんなら私もついて行くつもりで、玄関先で靴を履いた。
『こらこら』
脱がされた。
『言っただろう? カドリーちゃんは親戚の病弱な子っていう設定で話を通してあるって。こんな朝っぱらから出歩かれたらいきなり嘘がバレちゃうよ。わかってくれるよね?』
『わかったわ! 嘘がバレないように出歩いてみる!』
『そうじゃなくて』
ダイゴロウさんは再び靴に履き替えようとした私を抱き抱え、玄関前の板の間に押し戻す。二度もダイゴロウさんに拒絶された事で、どれだけお願いしても連れて行って貰えないのだと4歳の私は理解し、頬を膨らませながら己の不機嫌さをダイゴロウさんへ見せつけた。
『別に四六時中閉じこもってろとまでは言わないよ。お昼になったら一緒にお外でおにぎりでも食べよう。だからせめて、それまではお家で大人しくして貰えないかな?』
『だってー……』
『頼むよ。外に出られたら嫌でも人の目につくし、それで仕事仲間がカドリーちゃんの話題で持ちきりになったら必ずどこかでボロが出る。俺が畑仕事で目を離している隙に誰かに話しかけられたとして、カドリーちゃんは自分の秘密を誤魔化し続けられる自信があるかい?』
『でもー……』
『お母さんみたいな魔法使いになりたいんだろう? 秘密がバレて魔界行きになったら、それこそ本末転倒じゃないか。6年間の留学を完遂しないと、お母さんとも離れ離れで暮らすことになるって言うのに』
『……はーい』
私は渋々とダイゴロウさんに背中を向け、トボトボと家の奥へと足を進めた。
『ごめんな。仕事が休みの時は、極力遊びにだって連れて行くから』
遊びたい盛りの子どもを家に閉じ込める事に対して罪悪感を覚えているのだろう。心底申し訳なさそうな声色でそう呟くダイゴロウさんの声が、私の背中に投げられた。
『暇ー』
それから少しして、私は暇つぶしがてらに家の中の探検を始める。
『暇暇暇ー』
自分の心境をオリジナルのメロディに乗せて口ずさみながら、昨日のうちは見る事の出来なかった様々な部屋に訪れた。
『ご本ー』
本棚に飾ってあった本を片っ端から取り出しては、4歳児には理解出来ない物だと察してすぐに戻したり。
『ノコギリー、トンカチー』
それらが危険な物であるとはわかっていても好奇心には抗えず、物置に置かれた工具についつい手を伸ばしてしまったり。
『魚ー』
台所にあった魚の干物に手を伸ばし、2022年の夏頃に話題になったようななっていないようなアニメのポーズを先取りしたり。
しかしそのどれもが子どもの暇つぶしには適さない日用品ばかりであり、遂に私はやる事をなくして途方にくれる。そんな時に。
『ん? んー……?』
ダイゴロウさんの部屋から使い方のわからない未知の道具を発掘してしまったものだから、私の好奇心は破裂寸前まで膨張するのだった。
これは一体何だろう。四角い木の枠の中に、木で出来た小さな車輪が規則的に並んでいる。車輪を指で転がすと、滑らかに回転する。その道具をぶんぶん勢いよく振り回すと、無数の木の車輪がシャカシャカと小気味の良い音を鳴らしてくれる。そして私はその道具の正体に気づいてしまった。
『楽器だ!』
そろばんだった。こうして私はマラカスの要領でそろばんをシャカシャカ鳴らし、鼻歌なんかも口ずさみながらしばし音楽の世界に没頭した。
数分後。
『なんかこれ楽器じゃない気がする』
そろばんだった。しかしながら4歳児の頭では、それが算術の為の道具なのだと思い至るのは中々困難なもの。私はもうしばらく試行錯誤しながらその道具の真の使い道について思考したものの。
『これが答えだわ!』
そろばんを足の下に敷きながら、ローラースケートの要領で縁側の長廊下を滑走する。それが4歳の私に導き出せる、精一杯の答えだった。
【ダイゴロウさんに怒られるわよ】
そうやってはしゃぎ回る私に、ゼルルは呆れた口調でそう言うものの、そろばんの間違った使い方に魅了されてしまった私は、ゼルルの忠告なんて気にも留めずにそろばんスケートに没入する。
で。
『ぎゃっ!?』
遂にはバランスを崩し、縁側の長廊下の真ん中で激しく横転するのだった。……が。
『てぃひっ! てぃひひひひっ!』
あの頃の私は強かった。顔から転倒した事も相まって、鼻血まで流しながら全身を激痛が襲っていた筈なのに、それ上回る圧倒的な面白可笑しい感情に心を支配され、お腹を抱えて大笑いをあげるのだ。そして。
『……』
白昼堂々、外部と隣接した縁側でそんな目立つ行動をしてしまったのだから、誰かを誘き寄せてしまうのは必然の出来事だった。
『え?』
私は思わぬ侵入者に目を丸くする。子どもだ。身長からして私より年齢が高いのは間違いないものの、ダイゴロウさんには遠く及ばない小柄な女の子が、はしゃいで笑い転げる私の様子を庭先から見ている。耳から下を刈り上げたおかっぱ頭の女の子。昭和の女の子特有の髪型である。
『……あ。これ爺ちゃんが持ってってやれって。ここおいとくな?』
しかし何故だろう。その子は私の顔を見るや否や、しまったとでも言いたそうな焦りを顔に浮かべ、持参した大根を庭先に置いて、すぐにこの場を立ち去るべく私に背を向けたのだ。
けれど、その時の私は暇だった。暇で暇で仕方なくて、なんとかその子を引き止めようと、先制して自己紹介をする。
『こんにちは! 私カドリー!』
もちろん、ダイゴロウさんの考えた設定を蔑ろにしないよう、しっかり私の事情もその子に伝えたのだけれど。
『喘息の病気持ちで体の弱い女の子よ!』
『どこが?』
廊下の上ではしゃぎ回る私を見た彼女は、冷静にそうツッコミながら足早にどこかへと走り去ってしまうのだった。
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