第26話(82話) 動かない針
一度だけ、止まった世界を見た事がある。
それは戦いが終わった後、残骸のみが残された戦場だった。
今も戦場で戦ってはいるが、戦場の跡地を見ることはほとんど無くなってしまい、実際にその場に立つ機会など無くなった。
見たのはまだ12歳の時。その時アレンは少年兵として戦場に駆り出され、今ではもう名も残っていない都市でアルギネア軍と戦った。
とは言っても、まだライフルが背丈に対してあまりに大き過ぎる程の年だった。機動兵器達が主戦場を闊歩する中、歩兵の仕事は同じ歩兵を殺す事。
銃声、爆発、悲鳴。少年の目や耳を犯す終末の光景、音が満たす。
多くの同僚達が心を殺し、死人のような目をしながら人殺しに慣れていく中、アレンは最初から淡々と敵を討っていた。
人殺しに戸惑いが無かった訳ではない。だが何処か、感覚がズレていた事だけは覚えている。人殺しに興味があった訳ではないが、それを悪だと思わなかった。
言ってしまえば、初めて戦場に出た日から、「慣れていた」のだ。そんな事、ありえないはずなのに。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
共に出撃した仲間はほとんど死に、物音も、人の気配も無くなった。あるのは銃痕が刻まれたものと死体、そしてそれを食い荒らす烏や獣、虫。
遥か遠くでは、未だ砲撃や爆発が絶えない。あちらが終わるまではまだ時間がかかるだろう。それまで、この止まった世界の中で生きなければならなかった。
人がいなくなった店から食料品を失敬していたが、この場所が戦場になると察した住民達が持ち去った為か、もうそれも尽きようとしていた。
最悪、その辺の死体に集る烏や獣を撃ち殺すか、ドブのような川の中を泳ぐ得体の知れない魚を食べるしかない。そう考え始めた時だった。
建物と建物の隙間、そこからフラリと人影が姿を現したのだ。アレンは反射的に銃を構える。
人影の正体は、1人の少女だった。ほとんど裸に近い、ボロボロの布切れを纏い、傷んだ茶髪は腰まで伸びていた。目は瞳孔が開きかけており、肌は小さな虫に啄まれている。
そして何より、その少女の手に握られていたのは、人間の腕であった。噛み千切られたような痕がある。
この少女は、人間を食っていた。事実口元から、得体の知れない繊維のようなものが垂れ下がっている。
「……」
「あ…………あぁ…………」
少女はアレンに気がつくと同時に、糸が切れたように地面に倒れこむ。力尽きたようだ。
銃口は外さず、ゆっくり少女へと歩み寄る。腐肉のような甘い香りは少女のものか、はたまた腕からのものなのか。
アレンは何も尋ねなかった。少女に話す気力などないのも知っていたが、何より興味が無かった。一般人ならば保護しなければならないだろうが、もう長くないようにも見える。今の自分に出来るのは楽にしてやる事くらい。
その時、少女の唇が微かに動いた。
「し……………………に、く、ない…………しに、たく…………い…………生き、たい…………」
「…………」
掠れた声でうわ言のように懇願する。
「そうか。死にたくないんだな、お前」
ならば、望み通りにしてやるだけ。
わざわざ、もう助かる見込みがないから殺すなどという事はしない。そこまで考える程大人ではなかった。
少女を廃墟へ運び、破裂した水道管から汲み上げた水で身体を洗い流す。火を起こし、少女の身体と服を温めると、缶詰を2つ開けた。
少女に差し出すが、もはや手すら動かないようだ。
仕方無く、アレンは口を開けて中身を押し込め、手で咀嚼させる。何とか飲み込ませるが、途中でむせてしまったのか半分程吐き出してしまう。
「ッ!! ゲッホ、ウグ、ゲッホ!!」
「人間食べるよりはマシだろ。嫌って言ってもダメだからな。お前が生きたいって言ったんだから」
そう言って再び、缶詰を少女の口の中に押し込む。
そんな日々を繰り返し、とうとう食料も尽きた。
少女の体調も以前よりは回復し、身体を流し続けた為か死体のような臭いも消えていった。
だがまだ回収部隊は来ない。あと数日は耐え忍ばねばならない。
「……俺、ちょっと飯獲ってくる。火の面倒だけは見ておけよ」
「…………はい」
力ない返事を確認し、アレンは廃墟の外に出た。まだ砲撃音は続いている。お互い元気なものだ。
アレンが戻ってくると、少女が傍に擦り寄ってきた。まるで餌をねだる動物のように。
獲ってきた獲物ーーネズミや魚、小鳥を見ると、少女はすぐさま手に取って喰らい付こうとした。
「火を通せ。また虫に集られたいのか」
少女の手からネズミをひったくると皮を剥ぎ、焚き火の中に放り込んだ。物悲しそうな目でこちらを見てくるが、アレンは目を合わせなかった。
「……お前、名前はあるのか?」
「…………」
「無いならいい。どうせしばらくしたらお別れだ」
「……みんな、お前、って呼ぶ。お前、って、名前?」
「名前じゃない」
焼けたネズミを取り出し、少女へと渡す。熱いのか、ハフハフと息を吐きながら夢中で食べている。
「……触らないの?」
「は? 何の話だ」
「みんな、私の身体、触ったりしてた。よく分からないけど、叩かれたりした。……君は、やらないの?」
見たところアレンと歳が近いようだが、自分が何をされていたか理解していないようだった。
大方、現地に来た軍人か、もしくはスラムの住人に虐待を受けていたのだろう。そうと思しき死体が転がっていたのを見た。
「する意味が無い。興味が無い」
「男の子、でしょ? みんなーー」
「言うな、飯を抜くぞ」
「…………ごめん」
聞きたくなかった。
聞いた所でもう、どうしようもない事だ。
数日後、その日が来た。
軍の捜索部隊がアレンの回収に訪れたのだ。
その時に2人を発見した軍人ーーハリッドは、アレンの側にいた少女に目を留めた。
「その子は?」
「此奴は…………関係無い。一般人だ。後はこの街の奴等の仕事だろ?」
「でもその子、大分君に懐いているようだが」
半笑いを浮かべるハリッドに、アレンは舌打ちした。
自分の服の裾を掴んで離さない、少女の手。
「もう離れろ」
「…………」
「離れろ!」
「…………!!」
黙って首を振るだけ。それどころか腕にしがみつき、頭を押し付ける。
「……こちらハリッド。少年兵の生き残り、及び一般人を保護。回収ヘリを回してくれ」
「おい!」
「別に良いさ。スティアも、君の姉さんにも連絡しておく。軍の保護施設にいる方が、こんな場所にいるより良いだろう?」
「…………本当、あんたは」
「余計なお世話? 大人は子供の世話を焼くのが仕事だよ」
不敵に笑うハリッドから目を逸らす。
するとその先にあったのは、少女が初めて見せた笑顔があった。
いつまでも忘れられない、無邪気な笑顔。
「アレンさん?」
ふと、聞き慣れた声で現実に引き戻された。
自室のベッドに腰掛けたまま、浅い眠りについてしまっていたようだ。
「悪いな。ちょっと昔を思い出していた」
「昔?」
「あぁ。ろくな思い出がない過去の中で、唯一の良い思い出だ」
後ろから自らを抱きしめる、あの時の少女。
あの時とは違い、柔らかで、花のように甘い香り。止まった世界から拾い上げた、宝。
彼女の頭を抱き寄せ、その頬に口付けする。
「エリーザ。あの時があったから、今俺は、こうして理由を見失わずに生きている。お前がいるから、生きたいって思えるんだ」
「……? アレンさん?」
「分からないなら今から教えてやる」
「あ、ちょ…………!」
ソウレン・ビャクヤを、アリアを討った今、自分の生きる理由は変わった。
あの時から、彼らの時は、動いていない。
続く
次回、Ambrosia Knight 〜遠き日の約束〜
「果てにあるもの」
少女が覗く照準は、紅い機体の影との邂逅を望んでいる。