第二十八話・「これが僕の贖罪です」
床にヘッドセットを転がしたまま、和臣は誰もいない廊下を歩く。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……とは佳人の例えであるが、和臣の歩く姿は通常ならば男性でもそれに当てはまる。歩いている姿を見かける度に学園内の女子生徒は黄色い声を上げるし、風で髪がなびく様を見ては頬を染め、楽しそうに微笑む表情を見つければ行動を止めて注視する。
その和臣の姿が、今は全くの別物になっていた。
頭痛に耐えるように常に右手を頭に当て、歯は食いしばられ、息も荒い。笑顔などほど遠く、眉間には鋭い険が走り、頬は鋼のように強ばる。
優雅とは無縁の取り憑かれたような姿であった。
「誠一郎君……待っていて下さいね。僕が今、罰を下しますから」
和臣の耳には、誠一郎の最後の言葉が聞こえる。
――やっぱり俺さ、お前等が好きなんだ。
「僕も好きです、誠一郎君。誠一郎君……」
その直後にヘッドホンから聞こえたのは、誠一郎の周囲で起きた大絶叫。女子達の悲鳴。想像を絶する阿鼻叫喚。
当然のことだ。
誠一郎は、男子が禁制されて然るべき身体測定のど真ん中に、自殺同然の態で躍り出たのだから。その後どうなったのかは分からない。分からない……が、誠一郎に下される断罪は、想像するだに筆舌に尽くしがたいものがある。
クラスの女子生徒全員から嫌われるぐらいならばまだいい。
問題は、そこに学園で自治及び規律に対して多大なる権力をもつ風紀委員がいたことだ。
彼ら風紀委員はいわば学園を守る警察。学年を越えて生徒を裁くことの出来る生徒の集団。とびきりの模範生、各分野の優秀生を集めた生粋のエリート集団……いわば、超・生徒の集まりだ。
学園の生徒であれば風紀委員の腕章をした人間を廊下で見かければ、私語を止め、廊下の左右に避けて道をあける。セシル・B・デミル監督の撮った映画『十戒』のクライマックスを見ているような風景。学園のモーセ、それが風紀委員。
……その中でもとびきり恐れられているのが、冷血な一匹狼こと六條七海なのであった。争い沙汰になることも厭わない単独行動、男女の隔てなく規律に違反することを積極的に排除し、冷徹なまでに裁き続ける……。
その彼女が身体測定の現場にいたのだ。
あの騒ぎの中で気が付かれないわけがない。とすれば、誠一郎に課せられる罪は最高に重大なものとなる。
――退学。
学園生活で最も重大な罪だ。
繰り返し繰り返し、まるで悪夢に悩まされるように和臣の頭の中では誠一郎の最後の言葉が再生される。その一つ一つの言葉に和臣は律儀に答える。
好きです。好きです。好きです。
恋人同士が身を寄せ合い、口づけした後に互いの愛を確認する行為に近いものがあった。
和臣が纏うのは漆黒の、どす黒いオーラ。何者も寄せ付けない刺々しい雰囲気。途中、学園を見回っていた教師とすれ違うが、教師は和臣に何も言わなかった。口を開きかけて、和臣の様子が尋常ではないことに気が付くと、何も言わずに口を閉ざした。そのまま、チラチラとその場で振り返っては和臣を確認していたが、やがてそそくさと廊下を歩き出す。
……そして、和臣は体育館の裏へ辿り着く。
渡り廊下を通り過ぎ、体育館の正面玄関へ。体育館の正面玄関を、校舎から死角になるように曲がると体育館の裏、目的の体育倉庫がある。
そこは、色々な意味で裏側となる場所だった。
「オイ、お前」
角を曲がろうとした瞬間、吐き出された煙に出迎えられた。和臣はそれを無視して、体育倉庫へ行こうとする。
「待てよ」
肩を強烈な力でがしりと捕まれる。
無骨で野蛮な手。特に拳は、擦り傷や切り傷を経験したことが一目で分かるぐらいに斑だった。ちょうど素振りをし過ぎた野球部員の手のひらがまめで破け、破けた部分が治って皮膚が再生し、以前より固くなる……その流れに準拠したような手だった。
和臣はその手をチラリとも見ずに、肩を揺すって振り払うと、ずんずんと先を目指す。
「待てって言ってンだろうが!」
昼過ぎの体育館裏には不釣り合いながなり声。
「おい、どうしたよ」
「……誰か来たのか?」
「おい、他に誰か呼んだのか」
「いや、呼んでない。あれ、コイツ……?」
「確か、二年の田中……和臣だったか?」
「お、知ってるのか?」
「女子がイケメンイケメンうるせーんだよ、んで覚えちまった」
まるで獲物にたかるハイエナのように、ぞろぞろと和臣を中心にして集まってくる。ピアスに煙草、乱れた服装、挑戦的な言葉づかい……不良の模範と言うべき装いである。
「六條さん……これだからあなた方風紀委員は無能と言わざるを得ないのですよ……。このような生徒を好き勝手にさせるほど野放しにする……とても協力できたものではありませんね……」
和臣はざっと全員を一瞥したところで、頭痛を抑えていた手を下ろす。
「……これで無粋なのぞき魔は全員ですか?」
和臣を囲んだ六人はその言葉には答えずに、互いに短い視線のやりとりをする。
「何のことだか分からないな」
「俺達はただサボってただけだぜ?」
半笑いで煙草を吹かした。煙草の煙同様、和臣の質問を煙に巻こうとする。
「そうですか、ところで、少し僕とボール遊びしませんか」
「?」
「なんだと?」
意味が分からんとばかりに、互いに顔を合せて和臣の意図を計ろうとする。
「そこの体育倉庫に入っているボールで、です。僕が準備しましょう」
歩いて包囲網を抜けようとする。和臣の歩みの先に、割り込む影。
「もし分かっているなら、冗談はそこまでにしとけよ、田中」
一番図体の大きな男が和臣の前に立ちはだかる。
それが事実上の犯行を認める発言となった。
「――誠一郎君、これが僕の贖罪です」
知らない名前の登場に男が眉をぴくりと上げたその刹那――男の鼻は潰れた。