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第2話 ただ火をつけるだけの道具

大都市ロンダリアの空は、今日も引きちぎった灰色の羊毛みたいな霧に覆われている。


その霧は下町の掘っ立て小屋だけでなく、この街で最も権威ある建物のひとつ――職人ギルド本部の最上階、幹部会議室の窓ガラスにも容赦なく張り付いていた。石炭の煤煙と湿気が混ざり合い、磨き上げられた大理石の床にすら薄く水滴の膜を作っている。豪奢な調度品で埋め尽くされた部屋のはずなのに、そこに満ちているのは金の匂いではなく、湿った石とかび臭い羊皮紙の匂いだった。


部屋の主たる幹部たちは、革張りの椅子にふんぞり返り、値の張るパイプをふかしていた。三人。いずれも脂ぎった顎と、下町の人間を虫けらとしか思っていない目つきを持つ、典型的な「クソジジイ」どもである。


部屋の片隅では、見習いの小僧が一人、必死に格闘していた。


火打石と火打金を、カチ、カチ、と打ち合わせる。飛び散る火花は美しいが、それだけだ。懐に忍ばせた火口ほくち――炭化させた布切れは、ロンダリアの底意地の悪い湿気を吸いきってすっかりくたびれ、火花を受け止めても燻ることすらしない。小僧の指先はとうに真っ黒に汚れ、額には冷や汗が浮いている。


「おい、まだ茶も出せんのか。ノロマめ」


幹部の一人が苛立たしげに怒鳴った。小僧はびくりと肩を跳ねさせ、涙目のままカチカチと火花を散らし続ける。この街において、火をひとつ手に入れることは、これほどまでに重労働なのだ。誰もが毎朝、毎晩、この理不尽な儀式に苛立ちながら人生の時間を溶かしている。


「――それより、例の紐だ」


もう一人の幹部が、パイプの先を机に打ち付けながら唸った。


「あの『魔法の紐』の伸縮性は本物だった。使い道は無限だ。だが……持ってきたのが、あのジンだというのが気に入らんな」


その名を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに凍った。


「過去に我らをハメた、あのドブネズミが……。今回、紐を一万本吐き出させて過去のツケを完全に清算した上で、丁重にドブへ沈めてやる」


三人の口元に、粘つくような嗤いが浮かんだ。


---


重い扉が、軋みながら開いた。


「お待たせしました、ギルドの偉~いカミサマたち」


不敵な声とともに現れたのは、ジン、ただ一人だった。


いつもの無精ヒゲはツルツルに剃り上げられ、上等な生地のフード付きの外套を涼しい顔で纏っている。サファイアブルーの髪は丁寧に撫でつけられ、下町の小悪党の面影はどこにもない。まるで最初から名家の生まれであったかのような、堂々とした足取りだった。琥珀色の猫目だけが、獲物を品定めするようにギラついている。


――だが、その堂々とした足取りの裏で、ジンの脳裏には数時間前のやり取りが鮮明に焼き付いていた。


アパートを出る直前。ジンはヨシトシに問うたのだ。


「ねえ、センセイ」

「センセイ?」

「作るんだからセンセイでしょ。材料さえ揃ったら、あの火起こしの道具って一日にどれくらい作れるの?」


ヨシトシは膝を抱えたまま、視線を泳がせながらぼそぼそと答えた。


「材料がそろうなら、ワタシのワンオペでも……一日、三百本くらいは……」

「えっ、そんなに少ないの!? もっとドカンと作れない?」

「あ、あの……軸木を作るのにも、結構、時間がかかるんです……」

「軸木ってどうやって作るの?」

「えっ……木をこう、細く均一に切って、乾燥のムラが出ないように……」


そこから先、ヨシトシの口調が変わった。いつもの吃音がふっと消え、代わりに息継ぎなしの早口が炸裂する。木材の繊維方向がどうの、乾燥収縮率がどうの――ジンにはまるで理解できない呪文の羅列だったが、その熱量だけは痛いほど伝わってきた。


「――待って待って、つまり」


ジンは話を強引に断ち切った。


「ただの木の棒ってことでしょ? ふーん。だったらいいこと考えた」


琥珀色の瞳に、じわりと悪だくみの光が灯る。


「その棒を削って、束ねて、頭に薬品をくっつける手なら、ボクにいい心当たりがあるから任せてよ。センセイはこの『火のつく薬品部分』だけを作ってくれればいい」


ヨシトシの伏し目がちな瞳が、一瞬だけ大きく見開かれた。


「それなら……軸木のカットと組み立てが外注できるなら、ワタシの薬品調合だけで千本……いや、二千本くらいは作れますね……」


ジンの口元が弧を描いた。


「薬品の製法――トップシークレットは、センセイがまもってくれれば大丈夫。」

「センセイみたいな超レアカードは、切りどころが大事だからね。今日はボクが一人でギルドをハックしてくる。差し入れたスープとパンでも食べてゆっくり待っててよ。」


そう言い残して、ジンは不敵に笑ってアパートを飛び出したのだった。


――手札は揃った。あとは、目の前のクソジジイどもをどう転がすかだけだ。


「ジン……! よくぞ逃げずにツラを見せたな。」


上座の真ん中に座る、最も恰幅のいい一番目の幹部が、値の張るパイプの煙とともにドスの利いた声を放つ。


「我がギルドが要求した『紐一万本』は、その薄汚い外套の中に揃っているのだろうな?」


すかさず、その隣に座る幹部が、口の端から唾を飛ばしながら机を睨みつけた。


「前回の件も含めて、今日持ってこられなければ――お前の生死を決めるのはロンダリアの法じゃない。我々の『掟』だ」


最後のトドメとばかりに、もう一人の幹部がガシャァンと灰皿を机に叩きつける。

命のカウントダウンを突きつけるような、三者三様の粘つく脅迫だった。


ジンの背筋を、冷たいものが一瞬だけ駆け抜ける。だが、その動揺は表情の奥深くに沈められ、代わりに口元へと不敵な笑みが浮上した。幼い頃、ドブ街で落ちぶれていた老人から何度も聞かされた『馬鹿な貴族の見栄とマウンティング』。


(みたいなもんでしょ。)


「一万本?」


ジンは、心底呆れたように片眉を上げてみせた。


「我がセンセイが出すわけないでしょ。そんなもん。」

「なに……?」

「あの方は、本物の姓持ちだ。キミらみたいなドブ街の職人が、逆立ちしたって届かない雲の上の御人だよ。ボクは、そのセンセイの代理人としてここに来たのさ。」


特大のブラフだった。心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。だが顔には、欠片も出さない。


「フン!嘘を吐きおって! 姓持ちだと!? 貴様のような下町のドブネズミが、そんな与太話で我らを謀ろうというのか!」


幹部の一人が怒りで顔を真っ赤にして立ち上がった、その時である。ジンは、まだ会議室の隅でカチカチと火打石を叩き続けていた見習い小僧の肩を、軽く押しのけた。


「坊主、そのボロい石、もう休んでいいよ」


懐から取り出したのは、ヨシトシが震える指先で仕上げた、一本の小さな棒切れ。硫黄と硝石と、練り込まれたわずかな生ゴム。


――シュッ。


乾いた音とともに、小さな炎が霧の湿気を切り裂いて灯った。わずか一秒。それだけの時間で、この街の誰もが毎朝格闘している重労働が、いとも容易く踏み倒されたのだ。見習い小僧は口を半開きにしたまま固まり、幹部たちも怒声を止めて絶句した。部屋を満たした完全な静寂を破り、幹部の一人が、絞り出すように口を開く。


「おい、今何をした」


ジンは炎で自分の顔を下から照らしながら、琥珀色の猫目をギラつかせて言葉を吐いた。


「あの紐がヤバいドル箱だってことは、あんた達だってわかってるだろ。だけどさ」


ジンはわざと不敵な笑みを消し、じっと幹部たちの顔を見回した。 相手の焦りを煽る、意図的な静寂だ。


「我がセンセイの高度なプラ……んー、プラントがないと、今すぐ一万本なんて出せない」

「……」

「でも、その量産を待ってる間――あんたたちは毎日、どれだけの労働コストをドブに捨ててる?」


炎の灯りに照らされたジンの顔から、道化じみた笑みが消えた。


「職人が毎朝、火を起こすためだけにカチカチやってる無駄な時間。大工房全体のロスを合わせたら、毎日何千シリング分? 火を起こすための時間と人件費は、あんたたちのギルド経営をじわじわ蝕んでる。大損してるよね?」


沈黙が落ちた。誰も、その計算をしたことがなかったのだろう。


「だから、ビジネスの提案だ」


ジンはゆっくりと、机の上に小さな炎の灯る棒を置いた。


「紐一万本の要求を、今すぐ守れって脅すのはナシ。代わりに――このマッチの『独占販売権』を、あんたたちに売ってあげる」

「なに……?」

「あんたたちは新時代のインフラ利権で大儲けできる。ボクたちはその金を、魔法の紐を量産するために使わせてもらう。悪い話じゃないでしょ?」


過去に自分たちを騙した男の口から出る、あまりに整然としたロジック。目の前で灯り続ける、あり得ない速さの炎。恐怖と興奮がない交ぜになった沈黙が、しばらく部屋を支配した。


ジンは内心で冷や汗をにじませながらも、値踏みするような猫目で老人たちを観察していた。


(そうだ、じっくり悩みなよ、クソジジイども。ちっぽけな『メンツ』と、目の前にある莫大な『利』。天秤にかけるまでもない。強欲だけでここまでのし上がってきたあんたたちがどっちを掴むかなんて考えなくてもわかるさ。)


先に折れたのは、最年長の幹部だった。


「……どれだけ作れるんだ。前金は……いくら要求するつもりだ。」


(このディール、ボクの勝ちだ。)


ジンの口元に、狡賢いキツネのような、けれど不思議と魅力的な笑みが戻ってくる。


「話が早くて助かるよ」


数十分後、ジンは莫大な前金と、圧倒的に有利な独占契約の証書を懐に忍ばせ、颯爽とギルド本部を後にした。


---


一方その頃。


ヨシトシは、雨漏りのするアパートの片隅で膝を抱え、ジンが置いていったパンを齧りながら、じわじわと現代人らしい猜疑心に呑まれつつあった。


(……いや、待てよ。ワタシ、やっぱり騙されたんじゃ……)


一度浮かんだ疑念は、止まらない。


(あのマッチの製法、ジンさんに全部持っていかれて、そのままドロンされたんじゃ……。ああ、そうだ、きっとそうに違いない……。やっぱり異世界でも、ワタシはカモなんだ……また詰んだ……)


膝を抱える腕に、じわりと力がこもる。目の前のパンの味はちょっと、いやかなりしょっぱくなっていた。


――その瞬間。


アパートのドアが、ドガンと勢いよく蹴り開けられた。


「センセイ!! 見た!? ボクの啖呵、めちゃくちゃキマってたでしょ!」


ドヤ顔全開で飛び込んできたのは、ジンだった。世紀の大商談を成功させた興奮で顔を少年のように火照らせ、その琥珀色の猫目を純粋に輝かせている。懐にはパンパンに膨らんだ金貨の袋と、独占契約の証書。まさに大勝利の帰還。――だったのだが。ジンは、部屋の隅で膝を抱え、涙目でカチカチのパンを齧っているヨシトシの姿を見て固まった。


「……ん? なん……で、泣いてるの?」


「い、いや……ジンさん、ワタシのこと、騙して製法だけ持ってドロンしたんじゃ……って……」


ヨシトシは体育座りで膝を抱えたまま、大きな眼鏡の奥の丸い目をうるうると潤わせ、捨てられた小動物のような視線をジンへと向ける。齧りかけのカチカチのパンを両手でぎゅっと握りしめ、赤くなった鼻を微かにすする姿は、もはや哀愁を通り越して何かのマスコットのようだ。現代社会で擦り切れた陰キャの猜疑心が、この数時間で最悪の被害妄想の城を築城してしまったらしい。


ジンの方はというと、部屋の真ん中で金貨の袋を掲げたまま、まだフリーズしている。数秒前までのドヤ顔が綺麗に消え去り、その琥珀色の猫目が点になっている。


「するわけないでしょーが!!! ボクをどんな薄情者だと思ってんの!?」


言うなり、ジンは大慌てで、持っていた金貨の袋を机にジャラァン!! と叩きつける。


「ほら見てよ!これ全部センセイの火起こしの道具の価値!」

「え、あ、本当に……? ワタシ、捨てられたんじゃ、ない……?」

「だから捨てないって言ってるでしょ! ほら、そんな硬いパンなんか置いて、もっとマシなもの食べに行こう! ボクの奢り!」


ジンがそう言って胸を張ると、ヨシトシはしばらく目を瞬かせていたが、やがて眼鏡の奥の目を細め、本当に安心したように、ふにゃりと頼りない笑みを浮かべた。


「……ありがとうございます、ジンさん。マッチなんてあんな『ただ火をつけるだけの道具』をこんなに高く売ってきてくれるなんて……本当に、すごいです。」

「っ、~~~~~!?」


コミュ障特有の、裏表のない純度100%の賞賛だった。さっきまで大金貨の袋をジャラつかせてドヤ顔をしていたジンが、今度は言葉を失って固まっていた。ジンは慌ててそっぽを向くと、乱暴に自分の外套のフードを深く被り直した。


「……っ、うるさいなぁ! センセイがすごいの! ボクはただ、適正価格でハックしてきただけ! ほら、行くよ、ボクはまだ食べてないからお腹空いた!」

「あ、待ってください、靴が、靴が上手く履けなくて……!」


霧雨は変わらず、ロンダリアの石畳を濡らし続けている。だが、狭いアパートの片隅では、小さなマッチの炎とはまた別の、確かな熱が灯っていた。


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