第8話 母からの手紙
青葉堂の軒先には朝顔が一輪、二輪と咲き始めていた。
葵はいつものように店先で最中の皮を焼きながら、夏の風に髪を揺らしていた。
黒髪のお団子が少し緩み、首筋に汗が光る。
今日も近所の子供たちが「また明日ね〜」と去っていき、店内は穏やかな静けさに戻っていた。
午後三時を少し回った頃、郵便配達の音が路地に響いた。
自転車のベルが軽やかに鳴り、若い配達員が青葉堂の前に止まる。
「あおいさん、手紙ですよ。菫さんから!」
葵の瞳がぱっと明るくなる。
いつもより少し早い到着に、心臓が小さく跳ねた。
「ありがとうございます。お疲れ様です」
葵は丁寧に受け取り、配達員を見送った後、すぐに店内の座敷へ駆け込む。
父・茂は帳簿を広げていたが、手紙の封筒を見るとすぐに立ち上がる。
「あおい、菫さんからか?」
「ええ……今日は少し厚いわ」
封筒はいつものように丁寧な筆致で「あおいへ」と書かれ、裏には母・菫の名前。
少し厚いのは、中に小さな土産の包みが同封されているからだろう。
葵は座卓に座り、父と祖母・菊乃を呼ぶ。
「おばあちゃんも来て。お母さんからの手紙よ」
菊乃はゆっくりと座敷へ入り、三人で手紙を開く。
葵が封を切り、折りたたまれた便箋を広げる。
母の字はいつも通り、優しくて少し丸みを帯びている。
【あおいへ
元気にしてるかしら。
こちらは山間の小さな町で、毎日穏やかに過ごしています。
この前、川辺で野花を摘んだの。
同封した押し花、きれいでしょう? あおいの髪に挿してあげたいわ。
店はどう? お父さんは相変わらず帳簿とにらめっこ?
菊乃おばあちゃんは羊羹を切る手が止まらないかしら。
あおいの笑顔が、みんなの支えになっていると思うの。
いつもありがとう。
……でも、少しだけ、書いておきたいことがあるわ。
最近、この辺りの空気が重い気がするの。
古い神社で、妙な気配を感じることが多くて。
東京も、同じようなことが起きているんじゃないかしら。
あおいは優しい子だから、変なものに近づかないでね。
でも、もし何かあったら……おばあちゃんに相談して。
おばあちゃんは、昔から強い人だから。
早く帰りたいわ。
あおいを抱きしめて、一緒に桜餅を作りたい。
もう少し、もう少しだけ待っててね。
お母さんより】
便箋の最後には、小さな押し花が挟まれていた。
淡い紫の野花で、丁寧に乾燥され、色褪せずに残っている。
葵は押し花を指先でそっと撫でる。
胸の奥が温かくなり、同時に少しだけ締め付けられる。
「お母さん……元気そうでよかった」
茂は手紙を読み終え、静かに息を吐く。
「菫さん、いつも心配かけてるな……。でも、帰ってくるって言ってるじゃないか」
菊乃は無言で手紙を眺め、ゆっくりと頷く。
「あの子は、昔から勘がいいのよ。……空気が重い、か」
葵は母の言葉を繰り返し、心の中で反芻する。
「東京も、同じようなことが起きているんじゃないかしら」
最近の路地の影。
瓦斯灯の揺らめき。
蓄音機の歪んだ音。
すべてが、少しずつ繋がり始めている。
「おばあちゃん……お母さん、何か知ってるの?」
菊乃は孫の瞳をまっすぐ見つめる。
「あおい、お前はもうわかっているはずだよ。
この家は、ただの和菓子屋じゃない。
菫が旅に出たのも、穢れを追うためだ。
そして、お前が今、守っているこの日常も……同じ理由で守らなくちゃいけない」
葵は静かに頷く。
瞳に、冷たい光が一瞬宿る。
「……はい。お母さんが守ってくれている街を、私も守るわ」
茂は二人の会話を聞き、少し困惑した顔をする。
「あおい……お義母さん……何の話だ?」
葵はすぐに笑顔に戻り、父の手を握る。
「お父さん、心配しないで。
ただの家族の昔話よ」
茂は少し疑わしげだが、娘の笑顔に安心したように頷く。
「そうか……ならいいんだが」
夕方、葵は押し花を髪に挿してみる。
鏡に映る自分は、いつも通り優しい笑顔。
だが、鏡の奥で、路地の影が伸びているのが見えた気がした。
「もう少し……待っててね、お母さん」
葵は鏡に向かって小さく呟く。
声は優しいが、瞳の奥に、静かな決意が宿っていた。
青葉堂の灯りが、今日も穏やかに揺れる。
手紙の押し花が、夏の風にそっと揺れていた。




