第9話 瓦斯灯の影
七月に入ったばかりの夜。
蒸し暑い風が路地を抜け、青葉堂の雨戸がわずかに揺れる。
父・茂と祖母・菊乃の寝息が座敷から聞こえ、店内は静まり返っていた。
葵は一人、縁側に座り、膝の上の三毛猫・みーちゃんを撫でていた。
「……来たわね」
葵の声は低く、抑揚がない。
みーちゃんが急に毛を逆立て、喉の奥から低い唸りを漏らす。
耳がピンと立ち、尻尾が太く膨らむ。
葵は静かに立ち上がり、みーちゃんを座敷の隅に置いて店先へ出る。
暖簾をくぐり、路地に足を踏み入れる。
瓦斯灯の炎が、ぱちぱちと音を立てて揺れる。
その下から、影が地面を這うように這い上がる。
黒い霧のような体に、無数の細い手足が蠢き、顔のない口が大きく裂けて息を吐く。
口の縁から、黒ずんだ粘液が滴り落ち、石畳に落ちるとジュウジュウと溶ける音がする。
「瓦斯灯の影……灯影鬼」
葵の表情はすでに無。
瞳だけが金色に淡く輝き、唇の端がわずかに上がった冷たい微笑みになる。
影が一気に加速し、無数の手が葵を掴もうと伸びる。
触れた瓦斯灯の炎が、次々と消え、路地が暗闇に沈む。
葵は右手を軽く上げ、指先で空中に印を切る。
「……決壊」
空間が歪む。
空気が重く沈み、音が消え、色が抜け落ちる。
路地は外の世界から完全に隔絶され、決壊の内側だけが異界と化す。
影の手が葵の腕に絡みつく。
冷たくぬめった感触が皮膚を這い、肉に食い込む。
だが葵は動かない。
静かに呪文を紡ぐ。
「光針穿刺……浄界七曜陣」
指先から、無数の光の針が放射状に放たれる。
針は影の体を一斉に貫通し、七つの光の輪が回転しながら締め上げる。
影の体が内側から膨張し、皮膚のような霧の膜が裂ける。
黒い粘液と膿が噴射し、決壊の地面にべっとりと広がる。
裂け目から、腐った肉の塊が飛び出し、地面に落ちて痙攣する。
無数の手足が一本ずつ千切れ、切断面から黒い血が噴き出しながら溶け落ちる。
「ぐ……あぁぁぁ……」
影の口が最大限に裂け、内部の暗い穴から、ねじれた舌のようなものが飛び出す。
舌は血管が浮き上がり、脈打つ。
光の輪が締め付けるたび、舌がねじり切られ、血泡を吹きながら地面に落ちる。
葵は無表情で呪文を続ける。
「……穿刺、深く」
光の針が影の核に向かって集中する。
核が露出し、黒い心臓のような塊が脈打つ。
針が心臓を貫き、内側から爆発的に膨張。
心臓の表面が破裂し、黒い血と肉片が放射状に飛び散る。
肉片の一つ一つが地面に落ちて蠢き、ゆっくり腐敗しながら溶けていく。
腐敗臭が決壊の空間を満たし、息苦しいほどの濃度になる。
影の体が層状に剥がれ落ち、内臓のような黒い塊が次々と露出。
腸のような管がねじりながら飛び出し、地面にべちゃりと落ちて痙攣。
管の内側から黄緑色の膿が溢れ、決壊の空気に混じって悪臭を放つ。
葵の瞳は冷たく、声は静か。
「……浄化」
七曜陣が最大回転。
光が爆発的に広がり、影の残骸を焼き尽くす。
肉がジュウジュウと煮え、骨のような細い影が砕け散り、粉末となって舞う。
最後に核が完全に弾け、黒い血飛沫が決壊の空間全体に飛び散る。
血は地面に落ちる前に気化し、残ったのは強烈な腐敗臭と、黒ずんだ肉の残渣だけ。
すべてが静かになる。
決壊がゆっくり解除され、路地の音と光が戻る。
瓦斯灯の炎が、再び穏やかに揺れる。
葵は深呼吸をし、瞳の輝きを収める。
表情がゆっくりと柔らかくなる。
「……ふぅ」
みーちゃんを抱き上げ、座敷に戻る。
父と祖母の寝息が聞こえる。
葵は縁側に座り、みーちゃんを膝に乗せる。
「びっくりしたね、にゃんちゃん。もう大丈夫よ」
みーちゃんはゴロゴロと喉を鳴らし、葵の手に頭を擦りつける。
葵は空を見上げる。
月が雲から顔を出し、淡く照らす。
「まだ……小さなものだけど」
声は優しいが、瞳の奥に、冷たい決意が宿っていた。
「お母さんが言っていた、空気の重さ……
これから、もっと来るわね」
葵はみーちゃんを抱きしめ、静かに呟く。
「でも、この街の笑顔は……私が守る」
青葉堂の灯りが、夜の路地に優しく灯り続ける。
瓦斯灯の影は、もうそこにはなかった。




