第7話「北の玄武・水脈からの触手」
大正12年8月31日未明。
上野の山裾、谷中の古い寺の裏手。
夜露が重く、地面が湿っていた。
青葉堂では、茂さんがいつものように羊羹を蒸らし、
みーちゃんを抱いて二階の窓から外を眺めている。
遠くで、地鳴りが——今夜は水の底から響くような、低い**ゴポゴポ……**という音に変わっていた。
一方、葵・菫・菊乃の三人は、谷中の寺の裏の小さな池のほとりにいた。
北の玄武の楔を打ち込むはずの場所。
だが、池の水面が不自然に波立ち、
黒い靄が水底からゆっくりと浮上し始めていた。
葵が水辺に近づき、
「……これは、儀式を待たずに来てしまいましたわね」
指先の紅い線が、水のように滴り落ちる。
まるで血が薄まって水に溶けていくように、赤い雫が地面に落ちては消える。
突然——。
池の水面が爆ぜた。
黒い水脈が噴き上がり、
無数の触手が家族に向かって伸びてくる。
触手はぬめぬめと光り、表面に無数の小さな吸盤が蠢き、
先端は人間の指のように曲がり、爪は剥がれた皮膚のように白く血走っている。
触手が地面を這うと、**ヌチャ……ヌチャ……**という粘つく音が響く。
触手は家族を分断するように襲いかかる。
葵は一瞬で引き離され、池の反対側へ。
菫と菊乃は寺の石段に押し上げられる。
菫が叫ぶ。
「葵! 離れないで!」
だが、触手が壁のように立ち塞がり、視界を遮る。
葵は一人、池のほとりに立たされる。
触手が足元を這い、足首に絡みつく。
冷たくぬめった感触が、皮膚を這い上がり、
吸盤が肉に食い込み、**チュパ……チュパ……**と血を吸う音がする。
葵の紅い線が、水のように滴り落ちながらも、
金色の瞳が鋭く輝く。
「……離しなさい」
浄界七曜陣・極。
七つの光の輪が葵の周囲に展開し、触手を焼き払う。
ジュワァァ……
触手の表面が焦げ、肉が剥がれ落ち、
内部の黒い血管が破裂して黒い汁を噴き出す。
切断された触手が地面で痙攣し、
**ビクビク……**と跳ねながら溶けていく。
一方、菫と菊乃は石段で触手の群れと対峙。
菫が沸魂業湯を放ち、触手を蒸発させる。
グチュゥ……
触手が煮え溶け、ぬめりが泡立ち、
焼けた肉の臭いが立ち込める。
菊乃が光針穿刺で触手の根元を貫き、
ズブズブ……
黒い血が噴き出し、石段を染める。
葵は最後の触手を、
圧縮封魔・五芒星崩壊で包む。
五芒星が締め付け、
グシャァァ……パキパキ……
触手の内部が潰れ、骨のような芯が砕け散る。
最後に、池の水面が静かになり、
黒い靄が完全に消える。
葵の紅い線が、水滴のように地面に落ちきり、
金色の瞳が柔らかく戻る。
彼女は、びしょ濡れの体で膝をつき、
弱々しく笑う。
「……あらあら〜……
ずぶ濡れですわね……ふふっ」
菫と菊乃が駆け寄り、葵を抱き起こす。
三人は、濡れた着物のまま、青葉堂へ急ぐ。
店先で待つ茂さんが、
湯気の立つ桶とタオルを用意して迎える。
みーちゃんがびっくりしたように飛びつき、
濡れた葵の足にすり寄る。
茂さんは三人を家の中に招き入れ、
「……風邪を引くなよ。
湯を沸かしてある。
羊羹も、温かいままだ」
葵はタオルで髪を拭きながら、
「お父さん……ありがとうございます。
北の玄武、楔は……打ち込めましたわ」
温かい湯に浸かり、羊羹を一口。
家族は、濡れた体を温めながら、静かに座る。
外では、地鳴りが——
水の底から響くような音が、
少しずつ、大きくなっていた。
葵は湯気の中で微笑む。
「四つの楔……すべて揃いましたわね。
でも、まだ……終わっていない気がします」




