表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第5章「闇の脈動」
50/79

第10話「紅の限界」


夜の浅草は、異様な静けさに包まれていた。

いつもなら、提灯の灯りと人々の笑い声が混じり合う路地裏が、今夜は息を潜めている。

瓦斯灯の炎が、風もないのに激しく揺らぎ、影が不自然に長く伸びていた。

青葉葵は、菊乃の制止を振り切って家を出ていた。

護符はすでに黒く焦げ、胸の紅い線は鎖骨を越え、首筋を這い上がっていた。

銘仙の着物は、汗で張り付き、裾が泥で汚れている。

それでも、葵は歩みを止めなかった。

「……もう、抑えきれない」

声は小さく、しかし確かだった。

金色の瞳が、夜の闇の中で冷たく光る。

浅草寺の裏手、古い祠のさらに奥。

かつて菊乃が「最後の砦」と呼んだ場所の地下へ続く、隠された石段。

葵はそこを降りていく。

足音が、湿った石に反響する。

地下へ続く階段の先は、

古い封印の間だった。

天井から垂れる鎖が、かすかに揺れている。

中央に、巨大な五芒星の刻印。

その刻印の中心で、

黒い靄が渦を巻いていた。

靄はゆっくりと形を成す。

人の形ではない。

巨大な、歪んだ影。

体は無数の赤黒い触手で構成され、

中心に浮かぶ仮面のような核。

仮面の目元から、無数の赤い瞳が葵を捉える。

異界悪魔の使者――ではない。

それより遥かに上位の存在。

東京の闇を這う、根源的な一部。

ボス級の魔物、「脈動の核」。

「……紅の……娘……

血脈の……灯火……

ようやく……目覚めたか……」

声は複数重なり、地下全体を震わせる。

地面が、低く唸る。

地鳴りが、胸の脈動と完全に同期し始めた。

葵は静かに立つ。

金色の瞳が、底知れぬ冷たさを宿す。

薄い、冷たい微笑み。

「…………来なさい」

宣告。

魔物が動く。

無数の触手が、一斉に葵に向かって伸びる。

触手の先端は、鋭い棘のように尖り、

空気を切り裂く音を立てる。

葵は九字を切る。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」

光針穿刺。

数十本の光の針が、触手を貫く。

じゅう……と肉の焼ける音が連続する。

触手が何本か、黒い血を撒き散らしながら落ちる。

だが、すぐに再生する。

切れた触手の断面から、新たな触手が無数に生え、

倍の速さで葵を襲う。

葵は跳ぶ。

銘仙の裾が翻り、

空中で体を捻る。

圧縮封魔・五芒星崩壊。

五芒星の光が魔物の核を包む。

光が収縮し、

骨の砕けるような音が響く。

魔物の体が、内側から引き裂かれる。

「ぐ……ぁぁぁ……!」

悲鳴が、地下を震わせる。

だが、核はまだ砕けない。

仮面の表面に、ひびが入るだけ。

魔物が反撃する。

地面から、紅い触手が無数に噴き出す。

それは、葵の血脈と同じ紅。

葵の血を模倣し、

彼女の術を逆手に取ったもの。

触手が葵の足を絡め取る。

棘が、ふくらはぎを貫く。

「……っ」

葵の顔が、初めて歪む。

血が滴り、畳……ではなく石床を濡らす。

紅い線が、葵の体を覆い尽くす。

額から、頰から、首から、

全身を這い回る。

決壊が、完全になる。

金色の瞳が、燃えるように輝く。

無表情の冷たい微笑み。

「…………全部、

焼き尽くす」

葵の両手が広がる。

沸魂業湯・紅蓮浄化・極。

紅い炎が、地下全体を埋め尽くす。

炎は触手を内側から煮えたぎらせ、

黒い肉が溶け落ち、

骨のような芯が砕け散る。

魔物の悲鳴が、絶え間なく響く。

「紅の……業火……!

だが……お前も……同じ……血を……!」

魔物の核が、仮面を完全に砕く。

中から、現れるのは巨大な赤黒い眼球。

無数の瞳が、葵を睨む。

眼球から、黒い光線が放たれる。

光線は、葵の体を直撃する。

葵の左肩が、抉られる。

肉が焼け、骨が露出する。

血が噴き出し、

葵の体がよろめく。

「……まだ……」

葵は倒れない。

右手を伸ばし、

魔物の眼球を掴むように虚空を握る。

浄界七曜陣・極。

七つの光の星が、眼球を中心に回転する。

星が加速し、

眼球を締め上げる。

「ぐ……ぁぁぁぁ……!

紅の……娘……!

お前は……我らと……同じ……!」

魔物の声が、絶叫に変わる。

眼球の表面が、ひび割れ、

黒い血が噴き出す。

葵の体も、限界を迎えていた。

紅い線が、血管を破裂させ、

全身から血が滲み出す。

左腕は、感覚がほとんどない。

右足は、骨が折れている。

息が、荒い。

それでも、葵は微笑む。

「…………違う。

私は……葵よ」

最後の力で、

葵は短刀を抜く。

刃に、紅い光が宿る。

短刀を、眼球の中心に突き刺す。

紅い炎が、短刀から爆発的に広がる。

眼球が、内側から煮えたぎり、

核が完全に崩壊する。

「………………終わり」

低く、宣告する声。

魔物の体が、黒い靄となって散り、

地下に静寂が戻る。

戦闘は、約四分。

死闘だった。

葵の体が、がくりと膝をつく。

短刀が、手から落ちる。

金色の瞳が、ゆっくりと青に戻る。

紅い線は、ほとんど消えていない。

全身が血に染まり、

左肩の傷からは、まだ血が流れ続けている。

息が、途切れ途切れ。

「……ふふっ……

終わった……わね……」

葵は小さく笑う。

だが、声はほとんど出ない。

石段の上から、

菊乃の足音が駆け下りてくる。

「葵!」

菊乃が葵を抱きかかえる。

葵の体は、熱く、

同時に冷たい。

「おばあちゃん……

ごめん……なさい……

約束……守れなくて……」

葵の目から、涙が一筋、落ちる。

菊乃は葵を強く抱きしめる。

「馬鹿者……

よく、よく耐えた……」

菊乃の声が、初めて震える。

地下の空気が、微かに揺れる。

地鳴りが、まだ止まっていない。

だが、今は少し、遠くなった。

葵の意識が、薄れていく。

「……お母さん……

来て……くれる……よね……」

最後に呟き、

葵は目を閉じる。

菊乃は葵を抱き上げ、

石段を登る。

遠く、東京の地下で、

脈動はまだ響いている。

だが、

今夜は、

紅の娘が、

闇の一片を、

確かに焼き払った。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ