第10話「紅の限界」
夜の浅草は、異様な静けさに包まれていた。
いつもなら、提灯の灯りと人々の笑い声が混じり合う路地裏が、今夜は息を潜めている。
瓦斯灯の炎が、風もないのに激しく揺らぎ、影が不自然に長く伸びていた。
青葉葵は、菊乃の制止を振り切って家を出ていた。
護符はすでに黒く焦げ、胸の紅い線は鎖骨を越え、首筋を這い上がっていた。
銘仙の着物は、汗で張り付き、裾が泥で汚れている。
それでも、葵は歩みを止めなかった。
「……もう、抑えきれない」
声は小さく、しかし確かだった。
金色の瞳が、夜の闇の中で冷たく光る。
浅草寺の裏手、古い祠のさらに奥。
かつて菊乃が「最後の砦」と呼んだ場所の地下へ続く、隠された石段。
葵はそこを降りていく。
足音が、湿った石に反響する。
地下へ続く階段の先は、
古い封印の間だった。
天井から垂れる鎖が、かすかに揺れている。
中央に、巨大な五芒星の刻印。
その刻印の中心で、
黒い靄が渦を巻いていた。
靄はゆっくりと形を成す。
人の形ではない。
巨大な、歪んだ影。
体は無数の赤黒い触手で構成され、
中心に浮かぶ仮面のような核。
仮面の目元から、無数の赤い瞳が葵を捉える。
異界悪魔の使者――ではない。
それより遥かに上位の存在。
東京の闇を這う、根源的な一部。
ボス級の魔物、「脈動の核」。
「……紅の……娘……
血脈の……灯火……
ようやく……目覚めたか……」
声は複数重なり、地下全体を震わせる。
地面が、低く唸る。
地鳴りが、胸の脈動と完全に同期し始めた。
葵は静かに立つ。
金色の瞳が、底知れぬ冷たさを宿す。
薄い、冷たい微笑み。
「…………来なさい」
宣告。
魔物が動く。
無数の触手が、一斉に葵に向かって伸びる。
触手の先端は、鋭い棘のように尖り、
空気を切り裂く音を立てる。
葵は九字を切る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
光針穿刺。
数十本の光の針が、触手を貫く。
じゅう……と肉の焼ける音が連続する。
触手が何本か、黒い血を撒き散らしながら落ちる。
だが、すぐに再生する。
切れた触手の断面から、新たな触手が無数に生え、
倍の速さで葵を襲う。
葵は跳ぶ。
銘仙の裾が翻り、
空中で体を捻る。
圧縮封魔・五芒星崩壊。
五芒星の光が魔物の核を包む。
光が収縮し、
骨の砕けるような音が響く。
魔物の体が、内側から引き裂かれる。
「ぐ……ぁぁぁ……!」
悲鳴が、地下を震わせる。
だが、核はまだ砕けない。
仮面の表面に、ひびが入るだけ。
魔物が反撃する。
地面から、紅い触手が無数に噴き出す。
それは、葵の血脈と同じ紅。
葵の血を模倣し、
彼女の術を逆手に取ったもの。
触手が葵の足を絡め取る。
棘が、ふくらはぎを貫く。
「……っ」
葵の顔が、初めて歪む。
血が滴り、畳……ではなく石床を濡らす。
紅い線が、葵の体を覆い尽くす。
額から、頰から、首から、
全身を這い回る。
決壊が、完全になる。
金色の瞳が、燃えるように輝く。
無表情の冷たい微笑み。
「…………全部、
焼き尽くす」
葵の両手が広がる。
沸魂業湯・紅蓮浄化・極。
紅い炎が、地下全体を埋め尽くす。
炎は触手を内側から煮えたぎらせ、
黒い肉が溶け落ち、
骨のような芯が砕け散る。
魔物の悲鳴が、絶え間なく響く。
「紅の……業火……!
だが……お前も……同じ……血を……!」
魔物の核が、仮面を完全に砕く。
中から、現れるのは巨大な赤黒い眼球。
無数の瞳が、葵を睨む。
眼球から、黒い光線が放たれる。
光線は、葵の体を直撃する。
葵の左肩が、抉られる。
肉が焼け、骨が露出する。
血が噴き出し、
葵の体がよろめく。
「……まだ……」
葵は倒れない。
右手を伸ばし、
魔物の眼球を掴むように虚空を握る。
浄界七曜陣・極。
七つの光の星が、眼球を中心に回転する。
星が加速し、
眼球を締め上げる。
「ぐ……ぁぁぁぁ……!
紅の……娘……!
お前は……我らと……同じ……!」
魔物の声が、絶叫に変わる。
眼球の表面が、ひび割れ、
黒い血が噴き出す。
葵の体も、限界を迎えていた。
紅い線が、血管を破裂させ、
全身から血が滲み出す。
左腕は、感覚がほとんどない。
右足は、骨が折れている。
息が、荒い。
それでも、葵は微笑む。
「…………違う。
私は……葵よ」
最後の力で、
葵は短刀を抜く。
刃に、紅い光が宿る。
短刀を、眼球の中心に突き刺す。
紅い炎が、短刀から爆発的に広がる。
眼球が、内側から煮えたぎり、
核が完全に崩壊する。
「………………終わり」
低く、宣告する声。
魔物の体が、黒い靄となって散り、
地下に静寂が戻る。
戦闘は、約四分。
死闘だった。
葵の体が、がくりと膝をつく。
短刀が、手から落ちる。
金色の瞳が、ゆっくりと青に戻る。
紅い線は、ほとんど消えていない。
全身が血に染まり、
左肩の傷からは、まだ血が流れ続けている。
息が、途切れ途切れ。
「……ふふっ……
終わった……わね……」
葵は小さく笑う。
だが、声はほとんど出ない。
石段の上から、
菊乃の足音が駆け下りてくる。
「葵!」
菊乃が葵を抱きかかえる。
葵の体は、熱く、
同時に冷たい。
「おばあちゃん……
ごめん……なさい……
約束……守れなくて……」
葵の目から、涙が一筋、落ちる。
菊乃は葵を強く抱きしめる。
「馬鹿者……
よく、よく耐えた……」
菊乃の声が、初めて震える。
地下の空気が、微かに揺れる。
地鳴りが、まだ止まっていない。
だが、今は少し、遠くなった。
葵の意識が、薄れていく。
「……お母さん……
来て……くれる……よね……」
最後に呟き、
葵は目を閉じる。
菊乃は葵を抱き上げ、
石段を登る。
遠く、東京の地下で、
脈動はまだ響いている。
だが、
今夜は、
紅の娘が、
闇の一片を、
確かに焼き払った。




