第9話「帰還の決意」
横浜の港、夜の海風が冷たく頰を撫でる。
波止場の古い倉庫街、潮の匂いと鉄の錆びた臭いが混じる一角。
菫は、ひとりで桟橋の端に立っていた。
黒いコートの裾が風に揺れ、
短刀の鞘が、腰で小さく音を立てる。
手には、菊乃から届いたばかりの電報。
短い文面。
葵の血が限界に近づいている。
家に封じ込めているが、持たぬ。
来い。
菫の指が、電報を強く握りしめる。
紙が、くしゃりと音を立てる。
「……葵」
名前を呟く声は、風に消えそうに小さかった。
だが、その瞳には、揺るぎない光があった。
菫は目を閉じる。
記憶が、蘇る。
数年前、渡辺清隆の最期の夜。
横浜の古い屋敷で、清隆は血を吐きながら、菫に言った。
「紅の娘が目覚めれば、闇は目覚める。
だが、抑えきれなければ……東京は終わる。
菫、お前が……守れ」
清隆の目は、すでに光を失っていた。
菫は、その手を握り、
「約束します」とだけ答えた。
今、娘の血が、同じ疼きを始めている。
菫は目を開く。
遠く、東京の方角の空。
夜空に、薄い黒い靄が広がっているのが、見える。
いや、見える気がする。
地鳴りが、微かに響く。
波の音に紛れて、
だが、確かに、胸に届く。
菫はコートのポケットから、
最後の手紙の原稿を取り出す。
筆を走らせ、
短く、しかし力強く書く。
葵へ。
もう、待てない。
私が帰る。
お前の血を、
私が封じる。
たとえ、それが……
私の命と引き換えになっても。
母として、
退魔師として。
封を閉じ、
菫はそれを、近くの郵便箱へ投函する。
最後の手紙は、
葵の元へ届くはずだ。
菫は振り返る。
倉庫街の奥、
闇が蠢いている。
異界の使者が、また現れようとしている気配。
だが、菫はもう、構わない。
「来るなら、来なさい」
声は低く、冷たい。
金色の瞳が、瞬時に現れる。
薄い微笑み。
菫は短刀を抜く。
刃に、紅い光が宿る。
使者が三体、
黒い靄を纏って現れる。
仮面の目元から、赤黒い光。
「……母よ……
娘の血は……すでに……」
菫は一歩踏み出す。
「沸魂業湯・紅蓮浄化」
紅い炎が、菫を中心に爆発する。
使者たちの体が、内側から煮えたぎる。
肉が溶ける音、骨が砕ける音、
悲鳴が夜の港に響く。
菫は動かない。
炎がすべてを焼き尽くすまで、
ただ見据える。
三体が、黒い靄となって散る。
戦闘は、十秒ほど。
菫の瞳が、青に戻る。
息一つ乱れていない。
「……これで、最後じゃないわね」
菫は短刀を収め、
コートの襟を直す。
東京へ向かう列車は、
夜明け前に出る。
菫は桟橋を歩き出す。
背中で、
海が静かに波打つ。
胸の奥で、
脈動が、
娘と同じリズムで響いている。
もう、
引き返せない。




