第8話「抑えきれぬ疼き」
青葉家の座敷は、昼下がりの静けさに包まれていた。
障子から漏れる陽光が、畳に細長い影を落とす。
葵は布団に横たわったまま、目を閉じていた。
菊乃が置いた護符が、胸の上にそっと乗せられている。
息は穏やか。
だが、額に浮かぶ汗は、止まらない。
胸の奥で、脈動が鳴り続けている。
紅い線は、護符の下で、ゆっくりと広がっていた。
鎖骨から、首筋へ。
首筋から、耳の後ろへ。
「……っ」
葵の指先が、ぴくりと動く。
瞼が震え、
金色の光が一瞬、隙間から漏れる。
護符が、微かに熱を帯びる。
菊乃の古い術が、まだ抑え込んでいる。
だが、その力は、
少しずつ、削られていた。
父・茂は店先で客と話している。
みーちゃんは葵の足元で丸くなり、
時折、不安げに「にゃあ」と鳴く。
葵は目を細めて、
小さく呟く。
「ふふっ……みーちゃん、ごめんね。
今日は、遊んであげられないわ……」
声はいつも通り柔らかく、
だが、途中で途切れる。
体が、熱い。
まるで、内側から煮えたぎっているようだ。
護符が、ぱちりと小さな音を立てる。
紅い線が、護符の縁を越えて這い出す。
「……あらあら……
もう、だめかしら」
葵はゆっくりと上体を起こす。
布団から降り、
座敷の中央に正座する。
両手を膝に置き、
深呼吸を繰り返す。
「抑えなきゃ……
まだ、抑えなきゃ……」
九字を切ろうとする。
だが、手が震えて、
途中で止まる。
金色の瞳が、完全に現れる。
無表情に近い、冷たい微笑み。
「……抑えきれないなら、
吐き出してしまえばいい」
葵の体から、紅い光が漏れ出す。
座敷の空気が、重くなる。
畳の端が、じゅう……と湿った音を立てる。
紅い触手のような影が、
葵の周囲に湧き上がる。
それは、異界の脈動が、
葵の血脈を通じて、
家の中にまで侵入してきた証。
触手が、葵の腕を絡め取ろうとする。
葵は動かない。
ただ、低く宣告する。
「沸魂業湯・紅蓮浄化」
紅い炎が、座敷全体を包む。
触手が内側から沸騰し、
黒い肉が溶け、
骨のような芯が砕ける。
「ぐ……ぁぁ……
紅の……血……!」
悲鳴が、座敷に響く。
だが、声は外へ漏れない。
菊乃の結界が、まだ家を守っている。
炎が収まる。
触手はすべて消え、
静寂が戻る。
葵の体が、がくりと前に倒れる。
金色の瞳が、青に戻る。
紅い線は、首筋まで残ったまま。
護符は、黒く焦げていた。
息が荒い。
額から、汗が滴り落ちる。
「……ふふっ……
少し、楽になったかも」
葵は弱々しく笑う。
だが、その笑顔は、
いつもより儚い。
障子の向こうから、
菊乃の足音が近づく。
葵は慌てて護符を胸に押し当て、
布団に戻る。
菊乃が座敷に入る。
焦げた護符を見て、
眉を寄せる。
「……また、決壊したな」
葵は小さく頷く。
「おばあちゃん……
ごめんなさい。
でも、外には出ていませんよ。
約束、守りました」
菊乃は葵の傍らに座り、
新しい護符を取り出す。
「これで、もう一度抑える。
だが……限界は近い」
菊乃の手が、葵の額に触れる。
古い術が、再び発動する。
葵は目を閉じる。
「えへへ……ありがとう、おばあちゃん。
まだ、もう少し……がんばります」
だが、胸の脈動は、
護符の下で、
さらに速く、
深く、
響き続けていた。
遠く、東京の地下で、
地鳴りが、
今までで一番、長く続いた。




