表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/79

第10話 あおいの日和

梅雨明けの空は青く澄み渡り、蝉の声が遠く近くに響き渡っていた。

青葉堂の店先では、朝顔が満開に咲き乱れ、柔らかな陽光が暖簾を優しく照らしている。

葵はいつものようにエプロンを腰に巻き、店を開ける準備をしていた。

昨日夜の瓦斯灯の影を祓った後、葵の体にはわずかな疲れが残っていたが、顔には一切出さない。

笑顔だけは、変わらず明るい。

「おはよう、あおいちゃん!」

近所の子供たちが、今日も一番に駆け込んでくる。

太郎、次郎、花子、そして昨日団子作りに参加した子たちも加わり、店内が一気に賑やかになる。

「今日は何作るの?」

「桜餅、まだある?」

葵はえくぼを深くして応じる。

「ふふっ、今日は夏向きの水羊羹よ。涼しくて、ぷるぷるしてるの。みんなで味見してね」

子供たちは目を輝かせ、作業台の周りに輪になる。

葵は小さな皿に水羊羹を盛り、順番に手渡す。

子供たちの笑い声が、店内に満ちる。

「おいしー!」

「あおいちゃんの水羊羹、世界一!」

葵は子供たちの頭を順番に撫で、優しく微笑む。

「みんな、今日も元気でいてね。また明日も来て」

子供たちが満足げに去っていくと、店は再び静かになる。

父・茂が座敷から顔を出し、新聞を手にしながら言う。

「あおいちゃん、今日も子供たちに囲まれてたか。賑やかだな」

「ええ、みんな可愛くて、癒されるわ。お父さんも一緒に食べたかった?」

茂は苦笑しながら頷く。

「いや、俺はいいよ。あおいちゃんの笑顔を見てるだけで、十分だ」

葵は少し胸が温かくなる。

父の無垢な優しさが、葵の心を支えている。

この日常を守るためなら——どんな穢れも、許さない。

午後になると、近所の女学生・小雪たちがやってくる。

昨日と同じ三人組で、新しいレコードの話をしながら、ミルク羊羹を頰張る。

「あおいさん、昨日のお礼に! これ、みんなで作った押し花の栞よ」

小雪が小さな包みを差し出す。

中には、野花の押し花が丁寧に挟まれた栞が数枚。

母・菫が送ってくれた押し花を思い出し、葵の瞳が少し潤む。

「ありがとう……大切にするわ」

女学生たちが去った後、葵は栞を髪に挿してみる。

鏡に映る自分は、いつも通り優しい笑顔。

だが、鏡の奥で、路地の影がまだ薄く残っている気がした。

夕方、祖母・菊乃が座敷で羊羹を切りながら、ぽつりと呟く。

「あおい、昨夜のことは……よくやったね」

葵は作業の手を止め、静かに祖母を見る。

「おばあちゃん……気づいてたの?」

菊乃は穏やかに微笑む。

「この家に生まれた娘なら、気づかないわけがないよ。

でも、まだ序の口だ。これからもっと、大きなものが来る」

葵は深く息を吸い、吐く。

「……わかってるわ。お母さんが言っていた、空気の重さ。

私、守る。みんなの笑顔を、この街を」

菊乃は孫の瞳をまっすぐ見つめ、ゆっくり頷く。

「あおい、お前は優しい子だ。

でも、優しさだけじゃ守れないものもある。

その時は……冷たくなるんだよ」

葵は静かに頷く。

瞳の奥に、冷たい光が一瞬宿る。

「……はい。おばあちゃん」

夜、店を閉めた後。

葵は縁側に座り、みーちゃんを抱いて空を見上げる。

夏の夜空に、星が瞬いている。

路地の瓦斯灯は穏やかに灯り、影は今夜は静かだ。

「お母さん……もう少し待っててね。

この街を、みんなの日常を、私が守るから」

葵はみーちゃんの頭を撫で、静かに呟く。

「ふふっ、今日もいい日だったわね」

笑顔は優しく、穏やか。

だが、その笑顔の裏側に、冷徹な決意が静かに息づいている。

青葉堂の灯りが、路地に優しく灯り続ける。

大正の下町は、まだ穏やかだった。

しかし、空気の底で、何かがゆっくりと目覚め始めていた。

あおいの日和は、これからも続く。

優しさと冷酷さを、両方を抱えて。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ