第三章 第一話 志信、高校一年生
さらに数年がたちました。
「そうして聖心愛は僕の前から去っていった……か」
西城学園高校まんが研究会次期部長、二年生の狩谷智代が、黙って読んでいたノートから、ようやく目を離して言った。
「オチとしては弱いんじゃないかな。盛り上がりはよかったし、このママのキャラはいいんだけど。……でもね」
「はい……」
志信は神妙な面持ちで頷いた。
「児ポ法って知ってる?小学生を陵辱してどうしようっていうの、あなたは。しかも高校のまんが研究会で」
「そこはそれ、ちゃんとR―15になる程度でおさえてあります。性器描写はしてないし」
「学校の自主規制はもっと厳しいの。あたし個人は嫌いじゃないけどさあ……。とにかく、このままじゃ先生には見せられません。エロ描写を抜いてください」
「えっ、ヌいていいんですか?」
「ん?もちろん抜かなきゃだめよ」
「でも先輩の前でヌいていいんですか?」
「家ででもいいけど?」
「オカズは先輩で?」
「なんのこと?」
「志信、そこまでにしとけや。先輩わかってねえから」
部室にいたもう一人の部員が志信を止める。この部員、志信と同じ一年生なのに妙に態度がでかい。名前は仲本功という。志信とはクラスも同じだ。
「でもね、起きる事件とか生々しくて好きだな。オチを何とかして、エロを抜いて……」
「えっ、ヌいていいんですか」
「それさっきやっただろ」
志信のしつこいセクハラを功がまた止める。
「俺ならなあ、それ、時間進めるかな。結婚した二人がその後、子どもを虐待するループエンドってどう?ねえ、先輩、どうっすか」
「仲本くんそれ、救いようなさすぎ。物語はハッピーエンドじゃなきゃだめ」
「出た、先輩のハッピーエンド主義!」
「ハッピーエンドで何が悪いかなあ」
智代はノートの著者である志信に、それを返しながら言った。
「現実は辛い。あまりに辛すぎる。その艱難辛苦を乗り越えても幸せが来るとは限らない。だからあたしたち表現者は、フィクションくらいは幸せを与えたいの。わかる?志信くん」
「は、はい……わかります。女の悦びって必要ですよね」
「なんでそうエロ方面なのよあなたは!」
「けど、離婚したママに親権を取られたらこうなるしかないと思うんです。さすがに法律にはこどもは勝てないっていうメッセージで……」
「その法律だけどさあ、どうなのよ」
功が横から割り込んできた。
「俺、法律はあんま詳しくないんだけど、泥棒が親権とれるとかおかしくねえ?いくらすげえ弁護士いたとしてもさあ」
「それはその……」
「まさか身近にそういうサンプルがあったとか?」
「えっ……」
「聖心愛ちゃんにモデルがいたんじゃねえ?くぅー。聖心愛ちゃんがいるなら、会ってみてえ!」
「それ、最高の褒め言葉じゃない?会ってみたいと思うくらい魅力的なヒロインが描けてたってことでしょう?」
「いえ、俺二次元ヒロインなら誰でもいいっす」
「わりとサイテーね。ああ、もう。志村くんといい仲本くんといい……どうして今年の一年生はこんなのばかりなのかなあ……」
智代は頭を抱えた。しかしすぐ気を取り直して、志信に言う。
「でも本当に、聖心愛とそのママはよく出来てるわね。直したら、ぜひ読ませてちょうだい」
「はい」
「さっきはああ言ったけど、まんが研究会でこんな長編、下書きだけとは言え、描くひと、めったに居ないわよ。たいていは応募用の十六ページものだもの。内容も一定水準をこえてると思う」
「全くだぜ。読む方のことも考えろよ」
そう茶化す功も、ちゃんと最後まで読んでくれたのだから、志信には嬉しい。
「はい、ありがとうございます」
「続きもあれば、楽しみにしてるよ」
智代が言った。
だが、続き……それは平々凡々としたものだ。
あれから数年。志信はもう、高校生になっていた。
視力が落ちて眼鏡をかけるようになっていたが、それ以外は健康を損ねることもなく、事故にあうこともなく、平和に平和に過ごしてきた。
そんな最中、自分と聖心愛との冒険をモデルに、まんがの下書きをしてみたのだ。もちろんまんが研究会に所属してるのだから、他の部員たちにも見てもらった。
回し読みしてもらったノートを、次期部長の手から返してもらったのが、さっきの出来事。書評が最後のページに挟み込まれている。
だから、まだ描かれていないそのまんがの続きは、延々と平凡な日常が続くだけの退屈なシナリオになっている。
高校に入ってしばらくしたころ祖父が他界したけど、それは別にまんがになるような話ではない。あのマンションを引き払って、近所に二世帯住宅を建て、祖母と暮らすようになったのも大したことじゃない。
祖母とも上手くやってるのだ。まんがになるような事件や悩みはなにもない。
まんがのモデルがないことが、目下の悩みか……。
「ま、それより弁当にしようぜ。ほれ、志信。これやるよ」
そう言いながら、功が赤い液体で満たされたビンを差し出した。
「なんだいこれ」
「メキシコの珍しいソースさ。肉料理に合うからちょっと使ってみ」
「ふうん、女の子のおしっこより珍しいソースがあるなら使ってみようかな」
「おまえ、メシ食いながらよくそういうこと言えるよなあ……」
志信は功に言われるまま、そのソースを使ってみた。そしてハンバーグを一口。
辛いな。うん、ぴりっとしていて……うわああああああああっ!
「辛っ!なにこれ、辛っ!」
志信は慌てて水筒のお茶を飲むが、それは魔法瓶の熱々のお茶。
「ああああああああああっ!」
辛味が痛みに変わって、しばし志信は悶絶する。
そんな志信を見て、功はニンマリと笑う。
「な、辛くてウマいだろ?デスソースっていうんだけど、ハバネロより辛いらしいぜ」
「そっ、それを先に言ってよ。辛っ。何しても辛っ」
卵や野菜など、他のおかずをかき込んで少しでも和らげようとするも、デスソースの痛みはおさまらない。唇が三杯くらいに腫れ上がったかのような錯覚すら覚えた。
「たくさん買ったから、一本やるよ」
「いらないよ、こんなの。これ食べて口でしたらとんでもないことになっちゃうよ」
「まあ、まあ。いいからとっとけって」
そういって、志信はデスソースを押し付けられてしまった。
この悪友。聖心愛ほど面白くはないが、それでも小さなこういう刺激はくれるのである。