1話
「ブラアァァァァボゥゥゥ!! ブラアァァァァボゥゥゥ!! ......はあぁぁ~、素敵よぉ、素敵ねぇ、素敵だわぁ。醜い醜いスラムの子、ミカエラちゃん」
フンス、フンスとマダムの荒い鼻息が強すぎる香水を乗せて、少年、ミカエラに振りかかる。
顔から首に、首から胴に、胴から下へ。
マダムのねっとりとした視線が、ミカエラへと注がれる。
そこは、とても綺麗でシンプルな部屋。
大きなベッドが真ん中に佇み、ランタンの薄暗い光が部屋全体を照らしている。
そんな場所にいるのは、四十を過ぎたマダムと十五になったばかりの少年だ。
ベッドに腰掛けるでっぷりとした体躯のマダムは、そばに少年を立たせ、油ぎった手で必要に触れる。
「純白の髪、金色の眼、少女のような綺麗な顔立ち。......綺麗よぉ、綺麗ねぇ、綺麗だわぁ」
「......ありがとうございます。マダム」
ミカエラは思わず歪みそうになる口角を抑え込む。
それでも、興奮しているマダムとは裏腹に、ミカエラはされるがままに応えるばかり。
マダムの触れる手など、まるで気付いていないかのように真っ直ぐと、遠くを見つめていた。
そんなミカエラの眼を、マダムはジロリと覗き込む。
「いい? ミカエラちゃん。あなたはただ私に身を委ねればいいの。あなたは可愛いお人形、立てと言えば立ち、座れと言えば座る。すべてが私の思うまま。......そうすれば、あなたを醜い醜いスラムから連れ出して、《《人間》》にしてあげる。分かった?」
「......はい、マダム」
「いい子ねぇ、いい子よぉ、いい子だわぁ。ミカエラちゃん」
マダムは満足そうに頷き、ミカエラに触れていた手を離す。そして、今度はゆっくりと衣服を脱ぎだした。
「ミカエラちゃん、あなたもその身ずぼらしいものを脱ぎなさい。お楽しみの時間よぉ」
満面の笑みを浮かべるマダムに、無言で頷きを返す。
そして、躊躇うことなく、自分の衣服に手を掛けた。
衣服と言っても、ミカエラが纏っているそれは、到底衣服と呼べるものではない。
煤だらけの穴の開いた上着と、裾がぼろぼろに破けた、血の滲んだズボン。
ミカエラはマダムの指示通り、まずは上着をその場に脱ぎ捨てる。
その身体は、ふくよかで血色のいいマダムとは対照的に、白く瘦せ細った身体だった。
それを見たマダムの嚥下音が大きく部屋中に響く。しかし、近くにいるミカエラの耳には、その音は届かない。
マダムの嚥下音よりもさらに大きく、ミカエラの鼓動が脈を打っていたからだ。
「ミカエラちゃん、はやくしてぇぇ! もう、もうもうもうッ!! ......待てないわぁぁ」
「......」
鼓動に呼応するように、ミカエラの額にうっすらと汗が浮かぶ。
しかし、そんなミカエラの様子には一切気付かず、マダムはミカエラの身体をうっとりと見つめるばかりだ。
マダムには決してバレないよう、上から下へ。
ミカエラは、ズボンの内側に手をかけ、布をしっかりと掴んだ。
仕込んだナイフと一緒に。
遠くを見ていたミカエラの視線が、少しずつマダムの首元へと注がれる。
「マダム、俺ももう......我慢できません」
「ええ......ええ、ええ、ええ! 早く、一つになりましょう?」
獲物が動かないよう、ミカエラは柔和な笑みとともに、白く細い指を優しくマダムに添えた。
ミカエラの眼がゆっくりとマダムを捉え始めると、徐々に二人の距離が縮まっていく。
その距離は、わずか数センチ。
マダムの荒い鼻息が、壊れた扇風機のように轟音を奏でる。
ミカエラは、笑みを崩れないよう表情を保ち、右手に握るナイフの感覚を確かめた。
ゆっくり、ゆっくりと視界には、絶対に入らないようその手をマダムの背後へと回す。
視界から外れたナイフは、やがてマダム越しにミカエラの視界へと収まる。
そして、ナイフの切っ先がマダムの首元へと向けられた。
あと......あと少し。
そのとき——————————、
「もうッ!! 我慢できないわぁぁ!!!」
「くッ......!!」
恍惚と表情を歪めたマダムが、ミカエラへと手を伸ばす。
すかさずミカエラは、マダムの頬に置いていた手を首元へと移動し、押さえつけた。
マダムの太い首に、ミカエラの手が埋まる。
豊富な首回りの肉が、千切れてしまいそうになるほど握りしめ、力の限り押し返すと、マダムの動きが一瞬だけ止まった。
ミカエラは、生まれた隙を突き、
「くたばれ、クソ野郎......ッ!!」
「がぁ......ッッッ!??」
マダムの首元に、背後からナイフを突き立てる。
そして、突き刺さったナイフを九十度捻り、さらに押し込んだ。
部屋中に響くマダムの悲鳴に反応するように、血が飛び散っていく。
「どうだよ、醜い醜いスラムのガキに殺される気持ちはよぉ......!!」
さらに大きくなっていく鼓動に、今度はミカエラが興奮を覚えつつ、溜めていた気持ちを声に乗せる。
だがしかし、ミカエラがマダムに与えたキズは即死させられるものではなかった。
マダムがミカエラにもたれ掛かるように倒れ込み、それを支え切れなかったミカエラが下敷きになる。
一変して、マダムは赤く滲む眼でミカエラを睨み、体重を乗せて首を絞めた。
「くっ......かはっ!!」
ミカエラの白い肌が、青白く変化する。
浅くなる呼吸と、握力。
マダムに突き刺さったナイフを持つミカエラの手が、徐々に力を失っていく。
「スラムの......ゴミィィィ!!!!」
「俺は人間だァァァ............!!!!!」
ナイフから手を離し、マダムの顔に掴みかかる。
そして、ミカエラの親指がマダムの眼球を捉えた。
「ギャ......ガァァァァァ............!!!!!!!!」
下敷きになったミカエラがマダムの血で染まる。
それでも、決して勢いは緩めない。
それどころか、ミカエラは押し込んだ親指をさらに押し付けた。
マダムが先か、ミカエラが先か。
答えが出るのはすぐ先。
首筋に加えて、ミカエラが押し込んだ眼球からふき出た大量の血がマダムの意識を攫い、力を奪ったのだ。
そうして、首を絞めつける手が緩んだ隙に、ミカエラはするりと抜け出し、マダムの背後に回り込む。
そして、急激に酸素を取り込もうとする肺をアドレナリンで押さえつけ、突き刺さるナイフを両手で掴んだ。
「アアアアアアアア―———————!!!!!!!!!!!」
酸素が足りない。
それでも、残る気力と少しばかりの二酸化炭素を吐き出して、ミカエラは叫ぶ。
そうして、押し込んだナイフの柄がマダムの首に到達する頃には、マダムは動きを止めていた。
喧騒が鳴りを潜め、ミカエラの荒い呼吸音と、血の臭いが薄暗い部屋を包んだ。
「......お前ら、もう出てきていいぞ」
誰もいなくなった部屋で、ミカエラが呼びかけると、十人ほどの少年少女が扉から現れた。
歳は、ミカエラと同じ十五歳程度の少年少女が六人。それから、十歳程度の子どもが四人。
そして、その誰もがぼろぼろの衣服を真っ赤な血に染め、ナイフを握っていた。
「外の奴らは、もう殺したのか?」
「ああ、一応.......な」
ミカエラの問いかけに、赤いくせ毛を後ろで括っている少年、シャンドリアが言い淀みながら答える。
その態度にミカエラが不思議そうに首を傾げると、今度は短い髪を鬱陶しそうにかきあげる馬面の少年、デブリが鼻を鳴らし、前へ出た。
「護衛の連中は片付けたぜ。リンとラム、二人の仲間の犠牲を払ってな」
「なっ......死んだのか」
ミカエラの表情が苦悶に歪む。
「今月だけで何人死んだ?」
ミカエラの問いかけに全員が押し黙る。
それは、ミカエラも含め、誰も答えが分からないというわけではない。
知っていても、答えを口に出すことで仲間を失ったという実感を得ることが怖いのだ。
「おいおい、何をそんなに悲しそうにしてやがんだ? スラムじゃ人の生き死になんか日常じゃあねえか。それともなんだ? お前、聖人にでもなったつもりか? ミカ」
漂う沈黙の中、そんなミカエラの問いかけに、デブリが挑発で答えるとミカエラはデブリに掴みかかった。
「あ? デブリ、お前今なんつった? 仲間の死を悲しむのが、そんなにおかしいことだってのかよ?」
「いいや、おかしいことじゃねぇさ。俺だって、仲間が死んでいくのは辛いさ。......でもなぁ、物事には順序があんだよ」
「順序? お前何言って―——」
「死んだ仲間を弔うなんざ、後でも出来るつってんだよ! それよりも、早くそこに転がってる首を《《あの人》》の所に持っていかねえと、俺らもみんな殺されちまうだろうが!!」
ミカエラの怒気に怯むことなく、しかし『あの人』という言葉に、デブリはどこか怯えを滲ませて、ミカエラを掴み返す。
そんなデブリの態度に、ミカエラはさらに強く怒りを含ませ、デブリを見上げた。
「そんなにあいつが怖えかよ? テメェはいつから、あいつの奴隷になったんだ? デブリ!!」
「なっ! ......テメェ、さっきから調子に乗りやがって!!」
一触即発。
さらに強く掴みかかるミカエラに、デブリは空いている拳を振り上げる。
それを見てもなお、ミカエラは一歩も引かず、デブリに避難の眼を向けた。
「ちょっと待ってくれ、二人とも! 今はそんなことで揉めている場合じゃないよ!」
そこで、二人を取り持つように間に入ったのは、金髪の気弱ような少年、ランデルだった。
ランデルは一歩前へ出て、デブリの振り上げた拳に抱きつく。
「離せランデル! こいつは自分の立場ってやつが分かってねぇのさ! 俺たちは所詮、金も後ろ盾もねぇスラムの孤児だ。言われたことをやって、できれば明日も生き残れる、出来なきゃ殺される。単純明快、弱肉強食の圧倒的な弱者!! それが俺たちだ、違うか!?」
「ああ、デブリ! お前の言ってることは間違ってねぇよ。でもなぁ、弱者が弱さに甘えちまったら、一生弱いままだろうが......!!」
ミカエラの手が強い意志を伴って、デブリをいっそう強く締め上げる。
デブリから苦痛の声を漏れ出るも、両者は一歩も引く気配がなかった。
「もう離して、ミカ。デブリが死んじゃうわ」
そんなミカエラを、優しい声音でいさめたのはミカエラと同い年の少女、リミアだった。
「でも、デブリが......!」
「てめぇ! まじでぶん殴ってやる!」
「二人とも! やめなさいって言ってんでしょうがっ!!」
睨み合う二人を中心に険悪な雰囲気が流れる中、そんな空気を引き裂くように、ミカエラとデブリの脳天にゲンコツが飛ぶ。
「いってえ......!! 何すんだ、シャミィ!!」
「うっさいバカミカ! いつまであんたたちの喧嘩に、子どもたちを付き合わせる気なのよ?」
シャミィと呼ばれたつり目が特徴的な少女は、痛がりながらも反抗をやめないミカエラに子どもたちを見ろと指を差す。
それにつられて、ミカエラとデブリが見やると、そこには血塗られたナイフを握りしめながら震えている子どもたちが立っていた。
漂う血、解けない緊張。
異様な空間に、年端もいかない子どもたちが立たされているのだ。
子どもたちが震えてしまうのも無理はないだろう。
ミカエラは自分自身の短慮な行動と子どもたちを慮り、深呼吸を繰り返す。
そして、それはデブリも同様で、どこか腹立たしそうに舌打ちを一つ。
「ごめんな、アリ、エイター、ウッディ、エリンギ」
「......くそ、悪かったよ」
ミカエラとデブリが子どもたちに近付き、ナイフをそっと取り上げる。
そして、ミカエラは安心させるように笑顔を向けると、デブリの誘導のもと子どもたちを家に帰すように促した。
「ミカエラ......」
「分かってるよ。マダムの首をあいつの下へ届ける。そんで今回の仕事は終了だ」
声を掛けるランデルに、ミカエラは心配するなと笑いかける。
そして、ゆっくりとした足取りでマダムへ近付き、手に握ったナイフで頭と胴を引き離し始めた。
滲み出る血と零れ出る肉。
それは、物心ついたときからスラムで生活しているミカエラたちにとって、物珍しい光景ではなかったが、何度見ても見慣れるものではない。
マダムの宝石やら香水やらで、装った外見からは想像のできないその中身に、ランデルは思わず嗚咽し、眼を背けた。
「辛いなら外に出ていろ。これは見ていて、気分の良いものじゃないからな」
シャンドリアがそっとランデルの背中を摩るが、ランデルは優しくその手を振りほどき、口元を拭う。
そうして、黙々と作業をこなすミカエラは真っ直ぐに見つめた。
「いいや、ボクも最後まで見るよ。これは、ボクたちがやったことだ」




