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酩酊した父

 その夜、玄関扉が開く音がした時にはもう十一時を回っていた。


 総一郎はほとんど進まなかった論文の原稿を机の脇によけ、階下の音に耳を澄ませた。足音は廊下を通り過ぎ、台所へと向かったようだ。


 帰宅した人物が動く気配がないのを確認し、総一郎は階段を降りていった。


「お父様」


 小さなランプ一つしかついていない中で、一之介の背中がびくっと動いた。コップを片手に振り向いた顔は、薄暗い中でも分かるほどに赤い。


「なんだ、総一郎か」


「随分飲まれたんですね」


「ああ、ワインだ。小川原は山梨のワイン醸造所を持っている」


「そうですか」


 一之介はコップの中身を一気に飲み干した。どうやら水らしい。

 飲み終えたコップを調理台に置き、少しふらつきながら食堂へ歩み始めた一之介の背後から、総一郎は言った。


「紅の腕は打撲、佐一さんは肩を深く斬られました」


「ああ。聞いた」


 一之介は振り返ることなく答えた。


「紅が心配ではなかったのですか」


「何が言いたい」


 総一郎は、声が震えそうになるのを懸命におさえて言った。


「紅はあなたが病院に駆け付けてくれると思っていた」


「真紀子が行っただろう。命に別状はないと報告を受けているんだから、何の問題があるんだ」


「襲われたんですよ。ただの事故じゃない」


「分かっている。結局無事で、犯人も捕まったんだろう」


 一之介は面倒そうに返事をした。総一郎はたまらず、低い声で畳みかけた。


「あなたも分かっているでしょう。林の差し金の可能性が高いって。


 実行犯が捕まっても意味がない」


「だからどうなんだ。紅には忠告をしておいたし、実際無事だった。


 私が病院に行ったからと言って、林が捕まるわけでもない」


「合理的な判断をされたわけですね。ご自身が買った恨みで娘が襲われても、どこまでも理性で決めた、と」


 総一郎に終始背を向けていた一之介は初めて振り返り、充血した目を向けた。


「お前は、私のやり方に文句があるんだな。


 目の前の商機より、情を優先しろと言いたいわけだ。行ったところで私が医療行為ができるわけでもないのに」


「お父様、あなたにとって僕たち家族は何ですか」


「質問の意図が分からない」


「紅が見る『光』と僕が見る『夢』。

 僕たちはそのためだけに存在している家族ですか」


 一之介はふん、と鼻息を出してうっすらと笑った。


「私が大きくした会社を継がせてやると言っているのに、まるで利用されているだけのような口ぶりだな」


 総一郎は怒りで頭が真っ白になるのを感じた。

 煙に巻くような答えばかり繰り返し、挙句の果てには嘲笑してくる。これが、父親のすることだろうか。


「はっきり言ってやろう。

 お前は、どこまでも甘い。脇が甘いし、己にも、身内にも甘い。

 経営は孤独なものだ。全ての判断の責任を自分で負って、結果を一人で受け止めなければいけない。


 信じられるのは自分だけで、自分がやると決めた事を阻むものは、すべてが雑音だ」


「娘が襲撃されたことも雑音だ、と」


「ああ雑音だ。今、紅は昨晩と同じように二階で寝ているだろう。


 その夜、眠りにつく場所にすら影響しないような出来事は、雑音の中でも取るに足らない雑音だ」


「…あなたとは、分かり合えない」


 総一郎が絞り出した言葉に、一之介は頷いた。


「それだけは同感だ。

 だがお前に会社を継がせると決めた以上、お前には変わってもらう必要がある。


 その甘さは命取りだ。お前の代で会社を潰すようなことがあってはならない」


「あなたの操り人形にはならない」


「いっそ人形なら楽なんだが、妙な自我がある」


 一之介はまた総一郎に背を向け、食堂に入った。総一郎はその後ろからはっきりとした声で宣言した。


「僕には、会社を継がない選択肢だってある」


 言い終えた総一郎は一之介の反応を見ることなく踵を返し、台所を通って自室へと戻っていった。紅の部屋の扉が、小さな軋音を立てて閉まった。

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