取り乱した母
「お兄様、ここよ」
堀井と共に「芝山様」と書かれた病室の前に立った総一郎は、背後から紅の声がしたことで飛び上がるほど驚いてしまった。
「えっ紅!?なんで」
廊下にいるんだ、の一言が出る前に、紅が院内着ではなく男性用の着物を身に着けているのを見て、総一郎はまた驚いた。
「何がどうなってるんだ、紅」
「見たままのとおりよ。私はこのままお兄様と家に帰るわ」
「入院しなくていいのか?」
「あら、堀井さんたちから聞いていないの?私、腕に痣ができている以外は無事よ」
「それは聞いたけど、一応ほら、検査とか休息とかあるだろう」
「腕をつかまれた以外は何もないもの。家の方が休めるし、帰るわ」
「あ、ああ、紅がいいならそれでいいけど、その着物は何なんだ」
「さっきまで着ていた服を着る気になれなくて、刑事さんに買ってきてもらったの。
でも情報伝達が途中でおかしくなったみたいで、これが届いたわ」
一見起こったことを気にしていないように見える紅だが、自らの着物を忌避し、間違って届いた男物の着物に袖を通すことを選ぶほど、気が動転しており傷ついているようだ。
それに気付いた総一郎は、優しい声で紅に言った。
「大変だったな。大きな怪我がなくて良かった」
「ええ、佐一さんが強かったの。帰る前に佐一さんの病室に行きたいわ。
お兄様、行きましょう」
「ああ、僕もそう思っていた。堀井さん、構わないですか?」
「はい、どうぞ。ご案内します」
堀井に連れられ、総一郎と紅は階段を降りて一般病棟に入った。
個室があてがわれていた紅とは異なり、佐一は相部屋にいる。警察の出入りがあることを加味してか、他には誰もいない四人部屋をあてがわれていたが、明日からは八人部屋に移るそうだ。
「佐一さん、脇田さん」
総一郎が声をかけると、寝台の隣に座って背を向けていた脇田が反射的に立ち上がった。
「坊ちゃま、お嬢様」
佐一が体を起こそうとするのを総一郎は制した。
「佐一さん、そのままで」
「お嬢様を守り切れず、お怪我を負わせてしまったことをお詫びいたします」
姿勢こそ寝たままであったが、佐一は苦渋の表情を浮かべ、土下座せんばかりの勢いでそう言った。
「とんでもない。佐一さんがいなければ私、今頃どうなっていたか」
「紅の言うとおりです。肩の怪我はどうですか」
口々に言う芝山兄妹の言葉に何度も申し訳なさそうに頷いた佐一は、
「このとおり、治療してもらいました。一週間ほど入院だそうで、しばらくは運転が出来ずご迷惑をおかけしてしまいます」
「いえ、ゆっくり怪我を治してください。脇田…ツネさんの方も、しばらくは病院の付き添いを優先してください」
総一郎の言葉に脇田が深くお辞儀をし、ありがとうございます、と二度繰り返したその時、ドアが勢いよく開いて真紀子が入ってきた。
「ああ、紅ちゃん…佐一さんも…」
そう言うなり、真紀子は床にへなへなと座り込んだ。
小川原邸で知らせを聞き、そのまま駆けつけたのであろう。美しい装いだが髪は乱れ、頬には涙の跡がくっきりとついていた。
「お母様、私は大丈夫よ」
紅が慌ててそばに寄ったが、真紀子は放心状態だ。総一郎は母を抱えて立たせ、空いている寝台に座らせた。
「犯人は、犯人は捕まっているのよね」
真紀子が総一郎をまっすぐ見て聞いた。
「車を襲った二名はすぐ後に捕まったみたい。詳しい話は後で」
「そう。外に何人か警察官がいるわね」
「お母様も後で事情を聞かれると思う」
総一郎の言葉に真紀子は頷いた。
「物盗りじゃないのね」
「どうやら」
真紀子は少しずつ落ち着いてきたらしく、佐一と会話し始めた。
思う所があるのだろう、個室代金を含めた医療費の全てを出すらしい。首謀者について、母も自分と同じ想定をしているのではないか、と総一郎は感じた。
「お母様、お父様もいらしているわよね?警察の方と話をされているのかしら」
紅がそう言うと、母は気まずそうに目をそらしながら答えた。
「お父様は、会場に残ってパーティに出席しているわ」
総一郎は耳を疑った。
「私と佐一さんが襲われたっていう知らせは、お母様にしか行かなかったということ?」
「いいえ、ちゃんと伝えてくれたのよ。大怪我はしなかったということだから、ご自分は残るっておっしゃってね。
大切なお客様が何人も出席されている会だから、欠席はできないみたいで」
真紀子がなるべく言葉を選んでいることは伝わったが、紅は明らかにショックを受けていた。
「そう」
うつむきながら短く答えた紅を見て、総一郎は思わず吐き捨てた。
「『あの人』らしい。こんな時でもそれか」
「総一郎さん」
真紀子が眉をひそめて鋭く言ったが、総一郎は止まらない。
「お母様は、どうも思わない?紅も佐一さんも、死んでいたかもしれないのに」
「やめてちょうだい」
懇願するように力なくそう言い、真紀子は傍らの鞄を持って立ち上がった。
「警察の方と話してくるわ。総一郎さん、紅ちゃん、先に帰っておいてちょうだいね」
頭を下げる脇田と無言で立つ兄妹に見送られ、真紀子は病室から出て行った。
「お兄様」
「わかってる。お母様に言うことじゃなかった」
総一郎はため息をつき、真紀子が座っていた寝台に両手をついた。
「お母様は板挟みよ」
「ああ。帰ったら謝る」
「そうね。けれど私、ほんとはあれで少しだけ慰められた気持ちになったわ」
紅が寝台に腰かけ、天井に目を向けた。
「さすがに来てくれるって思ってたのよ」
「ああ」
総一郎は返す言葉が見つからず、短く返事をして黙った。
「芝山さん、そろそろお帰りになりますか?警察車で前後を警護します」
再び絶妙なタイミングで扉の隙間から顔を出した堀井巡査に助けられ、総一郎は紅と共に車に乗った。
道中、二人は無言だった。




