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茶色いどんぐり

大金持ちの客が望んだ特注品の家具を載せた船が、海に沈んでしまった。パニックで放心した父と家計を助けるため、うら若き女の子がのったとんでもない契約とはー。


裁縫、お琴、割烹、すべて不得意。大正時代には生きにくいそんな女の子が、誰にも言えない秘密を抱え、二足のわらじ生活を送ります。

「それではシェービングの準備をしていきます。まずはお腕から専用のシェービングクリームを失礼いたします。」


 梅原のその言葉に、茉由子は「きた!」と気持ちを引き締めた。


梅原が持っているのは薔薇の彫刻が施してあるたいそうなガラスの大瓶だ。そこに柄の長い金色のさじを差し込み、掬い取ったクリームを茉由子の腕に載せて伸ばし始めた。


「不思議な感触のクリームですね」


茉由子が話を振ると、梅原は待ってましたとばかりに語り始めた。


「こちら、当サロンの所有者である坂東道子が開発した特別のシェイビングクリームでございます。


剃刀の刃がするするとよく滑り、剃り終えた後のお肌はしっとりする自慢のクリームです」


「ここでしか体験できないんですね!お肌が弱い紅さんでも大丈夫なのかしら?」


茉由子が首をかしげながら尋ねると、梅原は


「主治医の方がお試しになり、お墨付きをいただきましたので芝山様も今別室でご体験されております。

これまで200人以上ご体験され、お一人とてご帰宅後に肌荒れされませんでしたので、芝山様に関しても自信をもっておすすめできます」


と胸を張りながら言った。


 クリームを試す耕介の様子を見たかったな、と思いながら茉由子は梅原を質問攻めにした。

梅原は話しながら桜桃一粒くらいの量のクリームを掬い取り、手のひらでくるくると円を描きながら茉由子の腕に伸ばす。


「お客様がご希望されるのであればブラシなどで伸ばしても良いのか、と研修で聞いた者がいたんですけれど、私たちの手のひらで伸ばすことが大切だと坂東は申しておりました。


お陰で私の手はいつでもしっとりしております」


梅原が見せた手の甲は確かに、水仕事をしない者が大半の女学校でもなかなか匹敵する者がいない程につやつやとしている。


「シェービングの時以外でも使いたいっておっしゃるお客様もいるのではないですか?」


「そうですね、石鹸成分も少し入っているらしいので塗ってそのままにするクリームとしては使えないのですが、お問い合わせはいただきます。


坂東の意向で販売はしていないのですが、残念だという方も多くて」


「私も欲しくなるかもしれないわ」


一言一句聞き漏らすまい、と神経を尖らせながら何気なさを装って茉由子がコメントすると、


「お売りできる程の量がないんですよ」


と梅原は言う。


 剃刀が茉由子の腕の上を滑り始めた。刃が肌に当たるとなると若干緊張してしまうものだろうと思うが、梅原が握る剃刀はなめらかにツルツルとうごき、むしろ心地よさすら感じる。


「このクリームは坂東とその娘で週に一度、手作りをしているんです。だから販売する程の量が出来ないし、そもそもそのクリームの量で賄える分だけしかお客様の予約をお取りしないんです。


佐藤様と芝山様のご予約は、ちょうど明日新しいスタッフの研修が予定されていたので運よく前日に入れることができたのですが、普段は遅くとも前週にはご予約をいただいております」


坂東道子はもう60近い年齢のはずだ。

そんな彼女が娘と二人で手ずから毎週作っているとは、成分や製法を秘伝のものとして取り扱っているのだろうか。

老舗鰻屋のたれのように。


茉由子がそう聞くと、梅原は眉を上げながら


「ええ、文書化したものは銀行の金庫に預けてあるそうです。私たちも詳しいことは誰も知りません」


と答えた。


「その、さっき話していた結納の前にここに来た紅さんのお友だちがあんまり勧めるもんだから、皆がどんなクリームなんだろうって色々想像して話しておられるんですって」


茉由子はそう言いながら、あと一押しだけしてみることにした。


「皆さん、やれ椿油か馬油か、いやロウソクの蝋なんじゃないかと議論なさっているとか」


梅原はそれを聞いて、面白そうに


「失礼とは存じますが、ご令嬢の皆様を身近に感じてしまいますね」


と微笑みながら言った。そして何かを思い出したように一瞬目線を宙へ向けると、


「そういえば坂東の娘が以前体調を崩した時に、別のスタッフが原材料の受け取りだけ立ち会ったことがありましてね。


なんだか良く分からないけれど、茶色いどんぐりみたいな種か実らしきものを、英国船から大量に積み出していたとか言っていました」


「えぇ?こんなに真っ白なクリームなのに茶色い種なんて何か間違いじゃないかしら」


茉由子がわざと馬鹿っぽく否定してみると、梅原は


「受け取った種を坂東の作業場に運び入れたと申しておりましたから、入っているんだと思いますよ」


と少しむきになったように返してきた。


 これ以上追及しても何も出てこないな、と判断した茉由子は適当にこの話を切り上げることにし、坂東道子秘伝のクリームの感触や剃刀の滑り具合を記憶することに専念することにした。


 腕と脇、そして顔が丁寧に剃られ、特製クリームが拭きとられたあとで、顔にだけ更に別のクリームが施され、茉由子の施術は終了した。

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