◆第十ニ話『すべての想いを連れて』
魔法が込められているのではないか。
そう思うほど階段を上がるたびに気持ちが昂ぶっていた。
ついにこのときが来た。
そんな思いが、どんどん湧きあがってくるのだ。
やがて階段に終わりが訪れると、視界に雄大な空が飛びこんできた。白の塔の100階――頂に辿りついたのだ。
「ここに上がるのは3度目か」
「1度目はあなたが床を舐めたときですね」
そう返してきたのはアイリスだ。
彼女は頂の中央でひとり静かに佇んでいる。
今回は戦闘を目的としていないからか。
その身は普段どおりの給仕服に包まれている。
「2度目は俺がアイリスに勝ったときだ」
勝ち気な笑みとともに、そう返した。
アイリスが少しだけ面白くなさそうな顔を向けてくる。
「準備はできたのですか」
「ああ、ばっちりだ」
装備はアイティエル側がすべて用意してくれた。
ゆえに、この質問は心の準備について言っているのだろう。
アッシュは空を眺めつつ、アイリスとの距離を詰めていく。
「ずっと考えてた。余計なことなんて考えずに昇りたい。ただ魔物に向かって走って、剣を振って……そして辿りついた先で神に勝ちたい。勝って自分の力を証明したい。正直、俺はそんな思いだけでこの島にきた。ただ、なかなか思いどおりにいかなくてな」
ライアッド王国を巻き込んだクララと、《ルミノックス》との抗争に発展したルナとの出会い。そんな2人の大きな騒動から、いまや親友となったレオの過去との清算や、ラピスとの再会は、ジュラル島でのもっとも印象的な出来事だ。
ただ、印象的だったのはそうした仲間たちとの出会いだけではない。三大ギルドを中心に起きた大きな問題。ほかにも数えきれないほどの事件が記憶に深く刻まれている。
「わずらわしいと思ったことは少なくなかった。ただ塔を昇らせてくれりゃいいのにな。けどま、そういう寄り道を経てるうちに、気づけば俺もこの島と、この島に住んでる奴らが気に入っちまったみたいでな。それは挑戦者だけじゃない。もちろん、ミルマのみんなも含まれてる」
アッシュは歩みを止め、アイリスの前に立った。
いまも背景に広がる青空のような、澄んだ瞳に向かって告げる。
「だから、気に入った奴が困ってるってんなら、その困らせてるものをぶっ潰したいって思うのは当然だよな」
「……アッシュ・ブレイブ」
「べつに俺は誰かの想いを背負ったからって重圧を感じるなんてことはない。だから、ついでだ。俺が――俺と俺の仲間がすべてを終わらせてやる」
彼女にとってはなによりも重い問題だ。戦闘を楽しむついでに、なんてことは許されないかもしれない。だが、これは性分だ。神との戦いを心の底からずっと楽しみにしてきたこの気持ちには嘘をつきたくはない。
「本当にあなたは変わりませんね」
仕方のない人ですね、と。
そう言いたげにアイリスはまなじりを下げながら、くすりと笑みをこぼした。
「どこまでも愚直で、子どものように真っ直ぐで……ですが、だからこそアイティエル様はあなたに希望を託したのでしょう。そして、わたしも」
どうやらついに認めてもらえたようだ。
諦めてくれたというのが正しいかもしれないが。
それでも彼女の自然な笑みを見られたことがなにより嬉しく思えた。
ふいに雷鳴が轟いた。
次いで、きぃんという耳鳴りが聞こえてくる。
青空は気づけば真っ黒に染まり、この世の終焉を感じるような寒気も襲ってきた。だが、それらはすぐさま消え去り、元の穏やかな青空だけが満ちた光景が戻ってくる。
驚く間もないほどに一瞬の出来事だった。
アイリスが平然とした様子で告げてくる。
「準備が整ったようです」
「前のときと違ってえらく静かだな」
前回、雷鳴は一度だけでなく耳が痛くなるほど幾度も聞こえていたし、地震も執拗なほどに続いていた。それが今回にいたっては一瞬にして収まった。それどころか、黒い雲に満たされた前回とは違い、青空が戻っている。
「前回は予測を遥かに超えていたがゆえに起きたことです。それに今回はあなた方が負に満ちた領域でも戦えるように、力を行使してくださっていますから」
「てっきり瘴気まみれの中で戦うのかと思ったぜ」
「ただ、以前にも話したとおりこれは諸刃の手段でもあります」
境界を近づけることはアイティエルに大きな負担がかかると言っていた。つまり、あまり悠長にはしている時間はないということだ。
「それではあちら側へお送りします。両手を出してくれますか」
アイリスが胸前に構えた両の掌をこちらに向けてきた。
とても真面目な顔で。
「それってミルマの挨拶だよな」
ウルの話では気に入った相手にだけするという話だった。こちらとしては断る理由はないが、あまりにも意外だったので思わず目を瞬いてしまった。と、アイリスがいきなり顔を真っ赤にする。
「か、勘違いしないでくださいっ。境界を越えるにはあなたと深く繋がる必要があるのです。本来は、このときのために用意された儀式だったのですが、いつの間にかそう捉えられるようになって――」
「本当か?」
「本当ですっ」
怒鳴り気味に言い切るアイリス。ただ、すべてが嘘というわけでもないように感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
アイリスが顔をそらしたのち、少しだけ怯えたように話しはじめる。
「散々悪態をついてきましたから。あなたはわたしのことを嫌っているでしょうけど……我慢してください」
「べつに嫌ってなんかいないぜ。理不尽だと思ったことは何度かあったけどな」
自覚はあったのだろう。
アイリスがばつの悪そうな顔をしていた。
「けどまあ、そんだけアイティエルのことが好きなんだろうなって思ってたしな。だって単純に言えば嫉妬だぜ。可愛いもんだろ」
意地の悪いことを言っているのはわかる。
これまでがこれまでなだけに、いまのしおらしい姿はより新鮮だった。神を倒したあとにもこの姿を見られるかもしれないと思うと、〝ついで〟の楽しみが増えるばかりだ。
「それに本当は優しいってことも知ってたしな。ことあるごとに警告や助言をくれてただろ」
「……もしあなたがいなくなればアイティエル様が傷心されるかもしれないと思っただけです」
「そういうことにしとくか」
いまやすっかり縮こまってしまったアイリスの手に、そっと自身の手を添えた。細くて、長い指。それに滑らかな肌。人間の女性とどこも変わらない、温もりに満ちた手だ。
彼女の指がすっと曲げられ、ぎゅっと手を握られた。
あわせて不安に揺れた瞳が向けられる。
「お願いします……どうか、どうかアイティエル様をお救いください」
「おう。任せとけ」
自身の欲望。
そして彼女の願いに応じて、アッシュはぐっと握りかえした。
「――それでは行きます」
これにて第一章終了。
次回から最終決戦となる第二章が始まります。
どうぞお楽しみに……!





