◆第八話『夢のような日々のため』
見上げるほど大きな岩石の巨人が低い呻き声をあげた。その体のすべてに行き渡る格好で亀裂が一気に走り、ついには無数の岩塊となってがらがらと崩れゆく。
いましがた緑の塔64階に潜む中型レア種。
ベルグリシを討伐したところだった。
主催はレオのギルドの《ファミーユ》。
アッシュは仲間とともに協力者として参加した形だ。
「ほんと、最初の頃が嘘みたい」
「あのときはなかなかに厳しい戦いだったね」
「まあ、装備もあのときからかなり変わってるし」
そうして話す女性陣は誰一人として汗をかいていないどころか、息も乱れていない。100階を突破した実力と装備があるのだから当然といえば当然だが、あらためて仲間の成長をひしひしと感じられた。
「みなさん、ご協力ありがとうございます」
言いながら、《ファミーユ》副マスターのウィグナーが頭を下げてきた。
「こっちこそ誘ってくれてありがとな。久しぶりで楽しめたぜ」
「100階突破挑戦者の戦いぶりを間近で見られて、とても勉強になりました」
「それはなによりだ」
後ろから「ね、聞いた? 勉強になったって」などと調子づいたクララの声が聞こえたような気がしたが、気のせいだと思うことにした。
「でも、マルセルには悪いことをしたね」
そばに寄ってきたレオがぼそりと口にした。
マルセルとはレオと同郷の出であり、《ファミーユ》の中では新人に入る挑戦者だ。
「あ~、たしかいま3等級だったか」
「そうなんだ。だから、ひとりだけ参加できなくて」
ここは7等級の階層であり、残念ながら3等級の挑戦者は入れない。しかたのないことだが、のけ者にしたような形になったことを気にしているようだ。
「あ、あいつなら大丈夫っすよ。狩りって名のデートしてますから」
「今日も上機嫌に出てったよな。いらっとするぐらいに」
「ほんと、最初の頃の印象からがらっと変わったよなー」
《ファミーユ》のメンバーから次々に情報が飛んできた。
マルセルが特定の女性と仲良く行動している場面を幾度も見たことがある。おそらく本日もあの女性と塔の中で幸せな時間を過ごしているのだろう。
「……なんだかんだ上手くやってるみたいだな」
「僕が思っていた以上にね」
レオは困ったようにまなじりを下げていたが、それ以上に嬉しそうだった。彼にとってマルセルは苦い思い出に繋がる存在だ。だからこそ、マルセルが幸せであることは自分のことのように嬉しくなるのだろう。
「残り3日か……アッシュくん、どうだい? 挑戦前の、最後の1杯でも」
と、レオが飲みの誘いをかけてきた。
最近は忙しかったこともあり、あまり2人で行く機会がなかった。
「いいな、付き合うぜ」
◆◆◆◆◆
「ブヒィイイイイイイイイイイッ!」
示し合わせたわけでもなく訪れた《喚く大豚亭》。馴染みのある鳴き声に耳を刺激されたのち、その発生源である中年男――クデロに声をかける。
「なんか今日はやけに気合入ってんな」
「いいことでもあったのかな? たとえばあの子と上手くいってるとか」
レオが口にした〝あの子〟とは、《豚の大喚き亭》の店員のミルマだ。
クデロが慌てて立ち上がり、ぐいと顔を近づけてくる。
「な、なぜその話になるっ。それにそっちのほうは……」
「相変わらず奥手だな」
クデロが照れくさそうに、真っ赤に染まった鼻をつんと吊り上げた。
「ふんっ、ただ発破をかけてやっただけだ。神に挑むんだろう?」
「知ってたのか」
「いまじゃ島で知らない奴はおらんわ」
そうクデロが答えた直後のことだった。
「お、アッシュとレオじゃねぇか!」
「ついに神と戦うらしいな!」
「お前たちならやるって俺は信じてたぜ!」
「おら、座れよ! 今日は1杯奢られてやるぜ!」
酒場の中から次々と声が飛んできた。
行きつけの店だけあって大半が顔なじみだ。温かさと鬱陶しさ。さらにはすっぱさも入り混じった空気に、嬉しくて思わず涙が出そうだ。
クデロが「ほらな」と言ったのち、中へ入るよう促してくる。
「さっさと行ってこい。ワシはここの門番で忙しいからな」
言うやいなや、ちょうど客が入ってきた。
先ほどまでの男らしい顔を一瞬にして崩し、豚と成り果てるクデロ。よく言えば求愛行動ともとれる彼の鳴き声を背景音に、アッシュはレオとともに苦笑しながら店の中に入った。
エールを注いでもらい、いつもの隅の席に座る。
それからはもう大騒ぎも大騒ぎだった。いや、実際はいつもと変わらないかもしれない。席なんて関係なく好き勝手に動き回っては誰彼構わず絡んで酒を飲む。いつもの《喚く大豚亭》の光景だ。
「本当にここは良い雰囲気だね。……いや、ここだけじゃない。ジュラル島の多くが僕にとって最高の場所だよ」
「同感だ。たまに耳を塞ぎたくなるぐらいうるさいけどな」
「そこがまたいいんだよ」
周囲の騒がしさとは相反して、アッシュはレオと静かに会話を交わしていた。レオがエールでごくりと喉を鳴らしたのち、どこか遠い目をする。
「あまりにも幸せすぎてね。いまこのときも夢の中で生きてるんじゃないかって不安になることがあるんだ。いつか醒めるんじゃないかって……」
「現実だぜ。まあ、3日後の結果次第じゃ永遠に眠れそうだけどな」
「そ、そっちの夢だけは見たくないね」
「じゃあ、頑張っていまの夢を見続けないとな」
ふっと笑い合い、互いにエールを呑みきった。
テーブルに置かれたカップが軽い音を鳴らす。
「アッシュくん、またここに来よう」
「ああ、もちろんだ」
とても夢の中とは思えない強い意志がこめられたレオの瞳に、アッシュは負けじと力を込めてそう返した。
レオは弱さを持っているが、それをすべて包み込むほどの強さも持っている。そんな彼だからこそ、どんな強力な攻撃でも受けきれるのかもしれない。本当に頼りになる仲間だ。仲間なのだが……。
「なあ、レオ。前から言ってることなんだが……」
アッシュはため息をつきながら、片手で頭を抱えた。
「せめて真面目な話をするときぐらいは脱ぐのやめてくれ」
「それはとても難しい問題だね」
まるで改善する気のない笑顔を返してくるレオ。
もしかすると神を倒すよりも、彼の脱ぎ癖をなおすほうが難しいかもしれない。
そんなくだらないことを思いながら、追加のエールを注ぎに席を立った。





