◆第十三話『100階の主』
薄闇に冷たい空気が漂っていた。
普段はあまり感じる機会がないからか、思った以上に体から熱を奪おうとしてくる。早朝とはまるで別物の空気だ。
しかと準備をしておいてよかった。
そう安堵しながら、アッシュは薙いだばかりの剣を鞘に収めた。
ここは中央広場の南側通り。周囲には仲間たちもいる。同じように体を動かしていたからか、各々が乱れた呼吸を落ちつかせようと息をついている。
2日前から深夜に起床できるよう時間を調整。
起き抜けの軽い運動もこなし、体を万全の状態に持ってきた。
すべてはこれから挑む塔の頂。
100階戦のためだ。
「これぐらいでいいか」
「だね。そろそろ夜明けも近いし」
レオが応じ、全員がゆっくりと集まる。
ルナもラピスもレオも、いい顔をしている。
いつでも戦いの場に迎えるといった様子だ。
ただ、クララだけは俯き気味で見るからに不安を感じているようだった。ぎゅっと杖を握ったままの彼女に、ルナが優しく声をかける。
「どうしたの? まだ眠かったり?」
「ううん、体動かしたし眠気はもうないよ。ただ……これからが心配で」
まだひとりで戦うことに不安を感じているようだ。
出会ったときは16歳だった彼女もいまはもう18歳。立派な大人といってもおかしくはないが、それでも戦士として過ごした時間は決して多いとは言えない。
そんな中で神を前にした最後の壁に、ひとりで挑むことになったのだ。いくら10等級に至ったとはいえ、不安を感じるのも無理はないかもしれない。
「クララなら魔法撃ってれば近づかれずに倒せるでしょ」
「もし近づかれても回避手段のテレポートもあるしね」
「魔力量さえ管理できれば、敵なしだよね」
ラピスに続いてルナ、レオが励ますように言った。
ただ、それでもクララはまだ自信を持てないようだった。
しかたないな、とアッシュはため息をついたのち、クララに真剣な顔で告げる。
「クララ、忘れてるかもしれないが、いまはもうお前が島で――いや、世界で1番強い魔術師なんだぞ。もっと自信を持て」
「あ、あたしがいちばん……?」
「そうだ、世界最強だ」
「そっか……世界最強か。なんか自信出てきたかも!」
クララが照れつつ、明るい笑みを浮かべた。
仲間の誰もが思ったはずだ。
やはりクララはちょろい、と。
とはいえ、この純心さが彼女の魅力だ。
なによりいまの強敵を前に緊張した空気を和らげるのに大いに役立ってくれた。
アッシュは仲間たちと顔を見合わせたのち、拳を突きだす。
「そんじゃ……全員で突破して、またここに集まろうぜ」
全員が力強く頷き、こつんと拳を合わせた。
クララは東端にそびえる青の塔へ。
ルナは南にそびえる緑の塔へ。
レオは西にそびえる赤の塔へ。
各々が挑む塔へと向かっていく。
3人の後ろ姿を少しの間見送ったのち、アッシュは残ったラピスに「行くか」と声をかけた。頷いた彼女とともに北を目指して歩きだす。
「ラピスは心配いらなさそうだな」
「……そうでもないわ」
ラピスがすっと視線を落とした。
その瞳をよく見れば、寂しげに揺れている。
「アッシュたちと合流するまではひとりでも問題ないって思ってた。けど、いまはもう誰かと一緒に戦うのが当たり前になってるから……少し心細いかも」
珍しく彼女が弱さを見せたことに思わず目を見開いてしまう。
ただ、それ以上に嬉しいと感じた。ずっとひとりで戦い続けてきた彼女にとって、仲間が大きな存在となっていたことを感じられたからだ。
密林地帯を抜け、視界に2つの塔が映り込んだ。
これから挑むことになる白と黒の塔だ。
「ねぇ、手を貸して」
ラピスが足を止め、そう言ってきた。
応じるがまま右手を差しだすと、彼女が両手で優しく握ってきた。そのまま自身の頬に当て、心地良さそうに目をつむる。
「……力をもらってるの」
「甘えたがりのラピスが出てきたな。外でいいのか?」
「こんな時間だし誰も見てないわ」
たとえ見られていたとしても止めるつもりはない。
そう言いたげに、彼女はぎゅぅと握りなおしてきた。
「ありがとう。もう大丈夫」
ラピスからそっと手が離された。
先ほどまで感じていた彼女の温もりがなくなったからか、わずかに惜しいと感じてしまった。そんな自身の感情に、アッシュは思わずふっと笑みをこぼしてしまう。
「必ず突破するから」
ラピスが力強く宣言してきた。
そこにはもう弱々しい姿の少女はいない。
いるのはすべてを貫く槍のごとく、真っ直ぐな目をした戦士だけだ。
「ああ」
アッシュは短くそう応じ、ラピスと互いの得物をかち合わせた。
◆◆◆◆◆
「お待ちしておりました。入口までご一緒させていただきます」
白の塔前に辿りつくと、管理人に迎えられた。
普段なら開口一番に軽口の応酬が始まるが、今日このときに限ってはそんな空気ではなかった。張りつめた空気の中、ともにリフトゲートを通じて100階へと昇る。
管理人が道を塞いでいた壁の前に立ち、中央に埋め込まれた丸い白の宝石に手を当てた。途端に白の宝石が強い光を発し、下にずれていく。
現れたのは階段だ。
その先には、いまだかすんだ空が映っている。
管理人が先を促すように体を横に開き、笑顔を向けてくる。
「さあ、どうぞ。この階段を上がった先が100階戦の舞台となります」
アッシュはためらうことなく階段を昇りはじめた。
さすがに塔の集大成とも言える100階だ。
わずかな緊張は胸中に生まれている。
ただ、それ以上に昂揚感が押し寄せていた。
1段1段、足をつけるごとにその気持ちはより強くなっていく。
ジュラル島を訪れてからというもの、その場所を求めて視線を上げない日はなかった。いつか必ず辿りついてみせる。そう強く意識して、幾度も死線をくぐり抜けてきた。
すでに限界を迎えたと思っていた自身の殻を破っただけではない。人として成長できたからこそ、辿りつけたのだといまならはっきりと言える。
ついに、このときがやってきたのだ。
最後の段を踏み終え、塔の頂に立った。
辺りをぐるりと見渡す。
試練の間と比べるまでもなくこちらのほうが広い。
塔の頂のすべてをそのまま舞台にしたようだ。
縁が人間と同程度の高さで囲われているものの、ほかに特別なものはない。平らな足場が広がっているだけだ。
ゆえに、中央で待ち受ける相手の姿を捉えるのは容易だった。
アッシュは思わず笑みをこぼしてしまう。
「初めて会ったときから、いつかこうなるんじゃないかって考えはあった。ただ……まさかここだとは思わなかったぜ」
言い終えたとき、ちょうど陽が顔を出した。
薄暗かった世界が一気に鮮やかな色で彩られはじめる中、アッシュは中央で待ち受ける者を見据え、言い放つ。
「――アイリス。お前が100階の主か」





