◆第十話『残る者にできること』
陽が上がって間もないこともあり、建物から落ちる影はまだ長かった。《トットのパン工房》もまだ開いておらず、列は見えない。おかげでひと気がほとんどなく、静かな時間が流れていた。
「ブランさん」
翌日の早朝。
中央広場の北側通りにて。
アッシュはベヌスの館に向かおうとしていたブランを呼び止めた。
ブランがこちらに振り返った瞬間、大きく目を見開く。
「……なんだい、これから祭りでもやろうってのかい」
クララとルナ。
現在宿泊中の挑戦者4人組。
そして《ブランの止まり木》の次期女将クゥリも来ていた。
「みんな、ブランさんを見送りにきたんだ」
顔ぶれを見た時点できっとわかっていたはずだ。
ブランが呆れたようにため息をついたのち、細めた目を向けてくる。
「あんたたちに時間は言ってなかったはずだけどね」
「教えてくれるとは思ってなかったからな。アイリスに教えてもらった」
ウルの件もあったからか。
渋々ではあったが、思ったよりすんなりと聞き出すことができた。
「……ったく、朝を選んだ意味がないじゃないか」
どうやらブランも諦めたようだ。
ベヌスの館へと半分向いていた体をこちらに向けた。
話す順番は事前に決めていた。
一番手のクララが緊張気味に前へと出る。
「えと……こういうときなんて言えばいいんだろ」
もじもじとしてなかなか話を切りだせずにいる。
そんな彼女を見かねてか、ブランが先に口を開いた。
「いまだから言うけどね。あんたがうちに初めて来たとき、近いうちに死ぬだろうって思ってたよ」
「えぇ、ひどいっ! そんなこと思ってたのっ」
「ひどいだって? 散々ボロいだの、ひもじぃだの言ってた子に言われたかないね」
「うぐっ」
見事な反撃に遭い、口を閉ざすクララ。
変わらない彼女の姿を前にしてか、ブランがふっと笑う。
「でもま、なんだかんだしぶとく生きて、いまじゃ一番のチームにいるってんだからわからないもんだね」
「これがあたしの真の実力ってやつだよっ! ……ごめん、ちょっと調子に乗っちゃったかも」
「もう、あんたはそれでいいのかもね」
ブランが呆れ気味にこぼした言葉に、アッシュはルナとともに思わずくすりと笑ってしまう。
クララが少し恥ずかしげに笑ったのち、居住まいを正した。晴れ晴れとした顔で告げる。
「ブランさん、長い間ありがとう」
「本当に長かったよ。あそこに住んでた挑戦者じゃぶっちぎりであんたが一番だ」
「……あはは。あそこがなかったら、あたしみんなと出会えてなかった。本当にブランさんのおかげだよ」
「やっと見つけた仲間だ。捨てられないようにしっかりとがんばんな」
「うんっ」
クララに贈られた言葉は普段のブランからは考えられないようなものだった。そこに〝最後〟を見てしまったからか、温かな光景とは相反してどこか寂しさを感じた。
続いてルナが前へと出てくる。
「ボクも短い間だったけど、あそこに泊まれて良かったよ」
「……大抵の言葉は嫌味に聞こえるんだけどね。あんたは世辞に聞こえないのが怖いよ」
「だって本当にそう思ってるからね。料理も温かくて美味しかったよ」
「ふんっ、わかってるじゃないか」
口調こそ荒いが、まんざらでもないことはありありと伝わってきた。
ルナは握手をしながら「ありがとう」と告げたのち、下がる。入れ替わりで次に出てきたのは現在宿泊中の男たちだ。
なにやらとても真剣な顔をしているが、いったいなにを言うつもりなのか。そんなことを思っていたときだった。
「「すんませんっした!」」
4人全員が頭を勢いよく下げた。
あまりに突然とあってブランが目を瞬かせている。
「……いきなりなんだい」
「いやその、女目当てで入ったこととか……」
「あんたたちがろくでもないことは知ってるからいまさらだよ」
その寛大な言葉で開き直ったか。
男たちが顔を見合わせたのち、意気揚々と声をあげはじめる。
「じゃあ、部屋の壁ちょっと壊しちまったのも許してもらえますかっ」
「実は俺も斧落として床を壊しちまって……いやー、ジュリー不足でなかなか言い出せなかったけど、言えて良かったぜ」
そうして清々しい顔を見せる男たちだが、すぐに全身をびくつかせた。ブランが怒ったように目を鋭くしていたのだ。ただ、その怒気が出されることはなかった。
「……ちゃんと言ったのは偉いね。その誠実さに免じて許してあげるよ」
「「ほんとっすか!?」」
「けど、弁償するかしないかはべつの話だ」
「やっぱりっすよね……」
「ま、これからは大事に使いな。あの宿だけじゃなく、なんでもね」
ブランの言葉に「はいっ」と低い声で応じる男たち。
荒くれものといった印象だった男たちだが、いまやすっかり丸くなっている。これもブランの人柄あってのものだろう。
次の番はクゥリだ。
ただ、男たちが下がっても彼女は1歩も動こうとしなかった。
「ほら、クゥリ」
そう促すと、ようやくクゥリが踏みだした。
ただブランの前に立っても俯いたままで口を開こうとしない。クララのときと同じようにブランが困ったように笑う。
「まさかあんたも来るとはね」
「来るつもりはなかったのですが、あの方々に無理矢理……」
誘ったのは事実だが、無理矢理ではない。
アッシュはにやにやと笑いながら告げる。
「そんなこと言ってるけど、意外とすんなり応じてくれたぜ」
「うっ」
クゥリは短く呻いたかと思うや、余計なことを言うなとばかりに睨んできた。ただ、やけに真っ赤な顔のせいでいつもの怖さがない。どうやらからかわれることに慣れていないようだ。
クゥリが気を取り直さんと咳払いをしたのち、早口気味に言う。
「前任者を見送るのは当然のことですから。他意はありません」
「わかってるよ」
ブランが返事をすると、クゥリがばつの悪そうな顔をした。
本音とは違うことを言ってしまう姿は、なんともブランによく似ていた。ブラン自身もそう感じたのか、困ったように笑っている。
「あたしも最初はあんな小さな宿と思ってたけどね。続けるうちに愛着が湧いちまってねえ……気づけばあんたも知ってのとおりさ。ま、長く宿を続けていくうちにあんたもきっと知ることになるよ」
――同じ道を辿る。
そう予想されたことが面白くないと感じたのか。
「わたしは、あなたとは違います」
クゥリがぴしゃりと言い放った。
ただ、そんな態度もブランにはお見通しだったようだ。
「本当にあんたは昔のあたしにそっくりだね」
また反論が飛んできかねない言葉だ。
しかし、クゥリはというと俯いていた。
両手に拳を作りながら、「でも」と話しはじめる。
「あなたのように……挑戦者が住んでよかったと思ってくれるような宿にしたい、と思っています」
あれだけブランを否定していたクゥリがまさか一部分だけでも認めるとは。ブランもひどく驚いている。ただ、最終的には嬉しさがまさったか、その口元に笑みを作っていた。
「さっきの訂正だ。あんたはあたしとは違う。あんたならもっと上手くやれるはずさ。いままでどおり自信を持って進みな」
「……はい。短い間でしたが、ありがとうございました」
粛々と礼をしたのち、クゥリは下がった。
今後、クゥリに託された《ブランの止まり木》がどのように変わっていくのか。あまり想像はできないが、いまのクゥリなら心配する必要はないだろう。
「それじゃ、行くとするかね」
「って、俺とはなしかよ」
本当に去ろうとしていたので慌てて引きとめた。
振り返ったブランがため息まじりに睨んでくる。
「あんたと話しても軽口しか言い合わないだろう」
「違いない」
ブランと顔を合わせればいつものことだった。ただ、いまはその軽口を言い合いたくて止めたわけではない。ひとつだけ謝りたいことがあったのだ。
「悪い。ウルを連れてこられなくて」
「しかたないよ。あの子は優しすぎるからね」
諦めた言葉とは裏腹にその瞳には後悔の色が残っているような気がした。
ウルならきっと来てくれる。
そう信じていたが、どうやら思っていた以上に傷は深かったらしい。
無理やり連れてきてもウルのためにならない。
そう心に決めたものの、このままでは両者ともに一生悔いが残るだけだ。信条を曲げてでも2人を引き合わせるべきか。
「なあ、いまからでも――」
ウルのところに行かないか。
そう続けようとしたときだった。
「ブランさんっ」
後ろから覚えのある声が飛んできた。
振り返ると、2つ先の路地の入口に息を乱したウルが立っていた。
彼女はきつく口を結んだのち、足早に歩み寄ってくると、そのままブランに力強く抱きついた。
「行かないでください……っ」
「無理を言うんじゃないよ。これは決められたことだ。同じミルマのあんたならわかるだろう」
「それでもっ、もっと一緒にいたかったっ! ずっとずっと一緒にいたかったっ!」
静かな中央広場にその声はよく響いた。
感情をあらわにするウルの頭を撫でながら、ブランが慈しむように笑みを浮かべる。
「あたしみたいなのに懐くなんて本当に物好きな子だよ」
「物好きなんかじゃないです。ブランさんは優しくて温かくて……ウルにとって家族も同然の人です……っ」
「家族、か。悪くない言葉だね」
ブランは心地良さそうに〝家族〟を口にしたのち、ウルのことをそっと離した。その顔を覗き込みながら優しく話しかける。
「それじゃ家族のあたしからのお願いだ。聞いてくれるかい?」
「……ウルにできることならなんでもします」
「あんたの――ウルの笑顔を見せておくれ」
ブランの願いに、そんなことでいいのかとウルの目は言いたげだ。ブランが軽く頷いたのち、静かに語りはじめる。
「ただ過ぎていくだけだった代わり映えのない日常に、あんたの笑顔が加わるだけで不思議と鮮やかになってね。あんたはあたしに救われたって思ってるようだけど、その何倍もあたしのほうが救われてるんだよ」
愛想のない対応ばかりしていたように見えたが、心の中ではそのようにウルのことを思っていたようだ。ブランは少し恥ずかしげに話を続ける。
「あたしもね、もし人間のように家族がいたら……娘はこんな風だったのかってあんたのことを考えてたときがあるんだよ。いま思うと、年齢的に孫のほうがしっくりくるんだけどね」
「……ブランさん」
「もう一度、あたしからのお願いだよ。元気な笑顔を見せておくれ。そして叶うならあたしが去ったあとも、いつものあんたでいておくれ。あたしは元気なあんたの姿が大好きなんだ」
普段は本音を口にしない彼女だが、今回ばかりは間違いなく本当の言葉だ。そう確信できるほど彼女の深くなった皺で彩られた笑顔は素敵だった。
ウルがこぼれる涙を懸命に拭いながら震える唇を動かす。
「はい……っ」
「って言ったそばから泣いてるじゃないか」
「ごめんなさい。どうしても涙が止まらなくて……っ」
「しかたのない子だね」
ブランが自らウルのことを抱きしめ、幼い子どもをあやすように頭を撫ではじめる。その姿は紛れもなく家族そのものだった。
と、ベヌスの館の扉が開けられた。
中からいつも中で階段前の門番をしているミルマが顔を出す。
「ブランさん、ベヌス様がお待ちです」
どうやら時間が来たようだ。
ブランがこちらを向くと、「あんた」と言いかけた口を閉じ、「アッシュ」と声をかけてきた。次いで、そっと離したウルを預けてくる。
「この子のことを頼むよ」
「ああ」
預けられたウルの両肩を抱きながら、アッシュはそう短く応じた。ブランが安堵したように微笑んだのち、見送りにきた全員を見回しながら言う。
「それじゃあね」
残された言葉は彼女らしい短いものだった。
ブランが背を向け、ベヌスの館へと歩きだす。
小さくて丸まったその背中からは、いつも年相応の儚さが見て取れた。ただ、いまはその儚ささえも消えていくような感覚に見舞われる。そしてその感覚はブランが1歩進むたびに強くなっていた。
と、ウルが勢いよく右腕で両目をこすった。
涙が散る中、胸を張りながら大きく声を張り上げる。
「ブランさんっ! ウルはずっと元気でいますっ! だから、ずっとウルのことを見ていてくださいっ!」
拭ってもなお流れる涙は止まらず、ウルの顔はぐしゃぐしゃに濡れている。だが、そこに浮かべられた笑みはなによりも輝いていた。
親しい者と別れるのは何度経験しても慣れるものではない。だが、そのたびに立ち止まっていてはいつまで経っても前には進めない。なにより立ち止まることを〝親しい者〟はきっと望んではいない。
去りゆく者にできることはなにか。
結局のところ答えはひとつしかないとアッシュは思っていた。
それは去りゆく者とともに過ごした時間――記憶を心に刻むことだ。
アッシュはウルの隣に並び、胸を張った。
そして――。
去りゆくブランが肩越しに残した最後の笑みを脳裏に焼きつけた。





