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ラミア香紙工房 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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8/12

8枚目 姉を追い出したのではありません。水札の意味を家から外しただけです

 水札は、濡れてもよい。


 むしろ、濡れた時に分かるように作る。


 青壺の水札は、そういうものだと聞いていた。


 清い水。


 薬へ入れる水。


 壺を洗う水。


 触れてよい水。


 触れてはいけない水。


 飲める水。


 飲めない水。


 同じ水でも、札が違う。


 札が違えば、壺が違う。


 壺が違えば、使い道が違う。


 使い道が違えば、戻せる先も違う。


 だから、水札は大事だ。


 そう聞いていた。


 けれど、その日、青壺の家から来た使いが最初に見たのは、水札ではなかった。


 人の顔だった。


     *


「青壺の家からです」


 下働きがそう言った時、乾燥場の空気が少し硬くなった。


 白香の家からの使いは、もう何度か来ている。


 神殿からの書き付けも来た。


 薬師組からも来た。


 ローデン商隊も来た。


 そのたびに、紙束が分けられた。


 札が増えた。


 控えが増えた。


 黒い点が増えた。


 それだけでも、乾燥場は十分重かった。


 そこへ、青壺の家である。


 青壺の使いは二人だった。


 一人は年嵩の女。


 もう一人は若い男。


 どちらも青い縁のある布を身につけている。


 壺は持っていない。


 水袋もない。


 薬草箱もない。


 持っているのは、書き付けの筒だけだった。


 水を見に来たのではない。


 言葉を持ってきたのだと思った。


 その方が、たぶん面倒だった。


 女主人が二人を奥へ通さず、乾燥場の端で受けた。


 紙束が見える場所。


 札が見える場所。


 黒い点が見える場所。


 青壺の使いは、それを見て少し眉を寄せた。


「まだ、これほど札を」


 年嵩の女が言った。


「戻った紙です」


 女主人が答える。


「神殿、薬師組、白香確認戻し、青壺口布日。分けています」


「青壺口布日」


 若い男が、少し嫌そうに繰り返した。


 わたしは、控え帳を抱え直した。


 青壺口布日。


 白花下風あり。


 南庭水湿りあり。


 婚礼不可。


 神殿不可。


 薬師不可。


 旅袋外包み試し可。


 そう書いた札のことだ。


 その日は、青壺の香水口布が問題になった。


 しかし、青壺だけの問題ではない。


 白香の壺。


 南庭水。


 白花下風。


 眠り草の戻り。


 見本紙。


 結び直し。


 言い換え。


 全部が少しずつ動いた結果だった。


 でも、名前に「青壺」が入ると、青壺の家はそれを見る。


 それも、風の一つだ。


     *


 年嵩の女は、リリア様の名を出した。


「リリア様は、今回の件を大変心配されています」


 柔らかい言い方だった。


 リリア様本人ではないのに、声の角が丸い。


 青壺の家では、そういう言い方を覚えるのだろうか。


「セレナ様が、ローデン商隊の者としてこちらへ来たと聞きました」


 女主人は答えない。


「その場で、白香の紙と青壺の口布について、強い判断をされたとも」


「強いかどうかは知らない」


 女主人は言った。


「水を見た」


「ですが、青壺の家の長女です」


「今はローデン商隊の者だと言っていた」


 年嵩の女の顔が、少し硬くなった。


「そう名乗ったとしても、血は青壺のものです」


 血。


 水ではない。


 壺でもない。


 血。


 乾燥場の床が、少し遠くなった気がした。


 青壺の家の話は、わたしには分からない。


 家。


 血。


 姉。


 妹。


 婚礼。


 白香。


 青壺。


 そこへ、紙と風が挟まっている。


 挟まった紙は、たいてい傷む。


「セレナ様は、以前から少し強い判断をなさる方でした」


 年嵩の女は続けた。


「分ける。止める。黒くする。戻す。そういう言葉が多い」


 わたしは、思わず顔を上げた。


 それは悪いことなのだろうか。


 分ける。


 止める。


 黒くする。


 戻す。


 わたしの仕事にも近い。


 青壺の使いは、わたしの方を見た。


「あなたが、ナディさんですね」


「はい」


「風抜き番」


「はい」


「セレナ様から、黒い点の札を写したと聞きました」


「はい」


「青壺の家では、あまり好ましく思っていません」


「なぜですか」


 聞いてしまった。


 女主人が、少しだけこちらを見た。


 でも、止めなかった。


 年嵩の女は、困ったように笑った。


「家の内側の手順が、外の商隊へ持ち出されるのは、軽いことではありません」


「黒い点は、青壺の手順ではありません」


「でも、セレナ様が持ち帰った」


「ローデン商隊へ写しました」


「同じことです」


 違う。


 そう思った。


 同じではない。


 青壺の家の水札と、香紙工房の黒い点と、ローデン商隊の留め荷札は違う。


 違うけれど、家の人には、セレナ様が外へ持っていったものに見えるのだろう。


 水札の意味ではなく、家の意味を見ている。


     *


 青壺の使いは、書き付けを開いた。


 内容は長かった。


 だが、中心は一つだった。


 セレナ様の判断は、青壺の家を代表するものではない。


 ローデン商隊としての発言であっても、青壺の名に影響する。


 白香の家との婚礼香調整において、青壺側はリリア様を窓口とする。


 今後、セレナ様が青壺の水札、薬水、香水、口布、婚礼香に関する判断を行う場合、青壺家内の確認を経ること。


 要するに。


 セレナ様の水札を、家の外へ出すな。


 いや。


 少し違う。


 セレナ様を、青壺の家の水札から外す。


 そういう書き付けだった。


 わたしは、言葉をうまくまとめられなかった。


 ただ、乾燥場の床が冷たく感じた。


「工房としては、戻った紙と戻った香りを分ける」


 女主人が言った。


「青壺の家内のことは知らない」


「しかし、控え帳に青壺の名が」


「原因候補にある」


「消していただくことは」


「できない」


 女主人の声は短かった。


 青壺の若い男が顔を上げた。


「青壺の信用に関わります」


「紙が戻った時点で、信用には関わっている」


「だからこそ、書き方を」


「戻った紙に、青壺口布日と書く」


「青壺が悪いように見えます」


「青壺だけが悪いとは書いていない」


 年嵩の女が、少し前へ出た。


「女主人様。リリア様も、そこを心配されています。青壺、白香、香紙工房、神殿、薬師組。どこか一つを悪く見せるのではなく、全体で収める形を」


 全体で収める。


 まただ。


 柔らかい。


 広い。


 誰も傷つけないように聞こえる。


 けれど、分けたものが混ざりそうになる言葉だ。


「収める前に分ける」


 女主人は言った。


「分けずに収めると、また戻る」


 年嵩の女は黙った。


     *


 昼前、リリア様が来た。


 青壺の使いが呼んだのだろう。


 白い肩掛け。


 青い縁。


 いつもの柔らかい顔。


 しかし、今日は少し違う。


 悲しそうだった。


 悲しそうに見えるように、整えられていた。


「女主人様」


 リリア様は、丁寧に頭を下げた。


「姉のことで、ご迷惑をおかけしています」


 姉。


 セレナ様のことだ。


「迷惑とは言っていない」


 女主人が答える。


「でも、姉は少し、強くなりすぎたのかもしれません」


 リリア様は言った。


「ローデン商隊では、それでよいのでしょう。外の荷を止めるには、強い札も必要だと思います。でも、婚礼の場には、もう少し柔らかさが必要です」


 青壺の使いが頷く。


 白香の下働きも、少し安心した顔になる。


 若い香読みの一人も、目を伏せる。


 場が、リリア様の方へ寄っていく。


 いつもの風だ。


 でも、わたしは、床を見る。


 風は上だけで動くわけではない。


 足元でも動く。


 柔らかさ。


 婚礼の場。


 姉は強くなりすぎた。


 言葉は優しい。


 けれど、そこにはセレナ様の水札を家から外す流れがある。


「セレナ様は、水を見ました」


 わたしは言った。


 リリア様がこちらを見る。


「ええ。ナディさん。姉は昔から、水をよく見ます」


「紙も見ました」


「そうですね」


「包み布も見ました」


「ええ」


「それで止めました」


「止めることだけが、正しさではありません」


 リリア様の声は柔らかい。


 でも、少し早い。


「止めた後に、分けました」


「分けることだけでも、場は持ちません」


「混じったままだと、紙は戻ります」


「戻った紙を、どう受け止めるかも大事です」


「はい」


 たぶん、本当だ。


 戻った紙をどう受け止めるかは大事だ。


 でも、受け止めるためにも、どこから戻ったかを書かなければならない。


「セレナ様の水見を、控えから外すのですか」


 わたしは聞いた。


 リリア様の笑みが、ほんの少し止まった。


「外すのではありません」


「では」


「青壺の家として確認してから扱う、ということです」


「確認するまで、セレナ様の判断は留め札ですか」


 言ってから、自分で変な言い方だと思った。


 人に留め札。


 でも、そう感じた。


 セレナ様の判断が、青壺の家の確認棚に置かれた。


 黒札扱いを外されるのかもしれない。


 確認札へ変えられるのかもしれない。


 水見済が、青壺家内調整済へ変わるのかもしれない。


 リリア様は、少し困ったように笑った。


「ナディさんは、人にも札をつけるのですね」


「つけません」


「でも、今はそう聞こえました」


「すみません」


「謝らなくてよいのです」


 リリア様は、優しく言った。


「あなたは、正直ですから」


 その言葉は、もう以前ほど軽く聞こえなかった。


     *


 リリア様は、女主人へ向き直った。


「姉の水見をすべて否定したいわけではありません。ただ、青壺の家には青壺の順があります」


「順はあるだろう」


「はい」


「だが、戻った紙は待たない」


「それは」


「紙は、青壺の家の順が整うまで、悪くならずに待ってはくれない」


 リリア様は黙った。


 女主人は続けた。


「水も待たない。香りも待たない。湿った口布も待たない。見本紙も待たない。戻る時は戻る」


「だからこそ、場を荒らさずに」


「荒れた後だ」


 女主人の言葉は、強かった。


「戻ってきた時点で、場は荒れている。荒れていないふりをする方が危ない」


 リリア様の目が、少しだけ細くなった。


 すぐに戻る。


「女主人様は、姉の判断を正しいとお考えですか」


「全部は知らない」


「では」


「だが、あの日、水を見た者が必要だった」


 乾燥場が静かになった。


 青壺の使いも黙る。


 白香の下働きも黙る。


 わたしも黙った。


 水を見た者が必要だった。


 その一言で、セレナ様の位置が少し戻った気がした。


 青壺の家の長女。


 ローデン商隊の者。


 強すぎる姉。


 婚礼を冷やす女。


 そういう言葉の前に。


 水を見た者。


 その役が戻った。


     *


 午後、青壺の使いは、工房の控えから「青壺口布日」という言葉を変えられないか、もう一度求めた。


 女主人は断った。


 ただし、補記を入れることになった。


 青壺口布日。


 白香確認戻し。


 南庭水湿り。


 白花下風。


 見本紙戻し。


 水見、セレナ確認。


 風見、ナディ確認。


 布紐、サナ確認。


 荷、ローデン確認。


 原因は単独にあらず。


 長い。


 また長い。


 でも、前より分けられている。


 青壺だけではない。


 白香だけでもない。


 工房だけでもない。


 リリア様だけでもない。


 サイード様だけでもない。


 セレナ様だけでもない。


 全部が少しずつ動いた。


 それを、全部書く。


 青壺の年嵩の女は、苦い顔をした。


「これでは、ますます大事に見えます」


 女主人が言う。


「実際、大事だ」


「青壺と白香の婚礼に響きます」


「戻った紙は、もう響いている」


「リリア様は、どうにか収めようと」


「収める前に、広げて乾かす」


 乾かす。


 その言葉は、工房らしかった。


 濡れた布を丸めたままにすると、臭う。


 湿った紙を重ねたままにすると、反る。


 混じった香りを、きれいな言葉で包むと、後で戻る。


 だから、広げて乾かす。


 嫌でも。


 見栄えが悪くても。


 乾くまで。


     *


 リリア様は、その補記を見ていた。


 長い札。


 長い控え。


 青壺の名。


 白香の名。


 セレナ様の名。


 ナディの名。


 サナの名。


 ローデンの名。


 全部が並んでいる。


 リリア様の名前も、別の行にある。


 リリア様、合わせ香として評価。


 リリア様、場を和らげる。


 リリア様、小声。


 背景モブ。


 意味不明。


 侮りの気配。


 その最後の行は、わたしの控えにだけある。


 奥帳にはない。


 でも、残っている。


 リリア様は、控え帳を見ていないはずだ。


 でも、何かを感じているのかもしれない。


「ナディさん」


「はい」


「姉の名前と、あなたの名前が並ぶのですね」


「はい」


「ローデン様やサナさんの名前も」


「はい」


「工房の帳に」


「控えです」


「それでも」


 リリア様は微笑んだ。


「ずいぶん、たくさんの人が並ぶようになりました」


「はい」


「少し前まで、あなたは乾燥場の下働きだったのに」


「今も乾燥場の者です」


「風抜き番でしょう」


「はい」


「立派ですね」


 言葉は褒めていた。


 でも、風は少し冷えた。


 わたしは、答えに困った。


 立派かどうかは分からない。


 ただ、札が増えただけだ。


 戻る紙も増えた。


 見るものも増えた。


 叱られることも増えた。


 立派というより、面倒だ。


「立派ではありません」


 わたしは言った。


「戻ってきた紙を分けているだけです」


「そういうところです」


 リリア様は、微笑んだまま言った。


「そういうところが、あなたらしい」


 あなたらしい。


 その言葉も、柔らかかった。


 でも、わたしには、少しだけ札の紐が締まる音に聞こえた。


     *


 青壺の使いが帰る支度を始めた。


 リリア様も、白香の下働きと話している。


 女主人は奥へ入った。


 若い香読みたちは、戻り紙の棚替えに出ている。


 乾燥場には、紙束を包む音と、壺の蓋を閉じる音がした。


 その時だった。


「……悪役令嬢は、退場したはずなのに」


 小さな声だった。


 また、紙束の音に紛れて落ちた。


 誰の声かは、分かった。


 リリア様。


 今度も、たぶん、わたしだけが拾った。


 悪役。


 令嬢。


 退場。


 背景モブと同じ種類の言葉だった。


 第五文化圏の香りの名ではない。


 青壺の水札でもない。


 白香の婚礼語でもない。


 神殿の祈祷語でもない。


 薬師組の薬草名でもない。


 そして今度は、わたしを指す形ではなかった。


 姉。


 セレナ様。


 たぶん、そちらへ向いていた。


 わたしは手を止めた。


 リリア様は、もうこちらを見ていない。


 青壺の使いに、柔らかく微笑んでいる。


 その横顔は、いつものリリア様だった。


 白香の下働きも、青壺の使いも、気づいていない。


 女主人も、奥にいる。


 やはり、わたしだけだ。


 わたしは、控え帳を開いた。


 書くか。


 迷った。


 背景モブの時も迷った。


 意味が分からない。


 証もない。


 聞き間違いかもしれない。


 でも、風に入っていた。


 だから、書いた。


 ――リリア様、小声。


 ――悪役令嬢、退場。


 ――意味、不明。


 ――対象、セレナ様か。


 ――侮り、および物語視の気配あり。


 物語視。


 その言葉は、自分で書いてから少し迷った。


 物語。


 なぜそう書いたのか分からない。


 でも、リリア様の言葉には、現場の水や紙ではなく、誰かが決めた役を見ている気配があった。


 悪役。


 令嬢。


 退場。


 人を、役として見ている。


 そんな気配だった。


 分からない。


 だから、消さなかった。


     *


 夕方、女主人が控え帳を見た。


 新しい行に目を止める。


 背景モブの時より、長く黙った。


「また聞いたのか」


「はい」


「意味は」


「分かりません」


「対象、セレナ様か、と書いた理由は」


「姉の話の後だったので」


「物語視とは何だ」


「分かりません」


 女主人が、わたしを見た。


「分からない言葉を書くな」


「はい」


「だが、分からない気配は書け」


「はい」


「なら、こう直せ」


 女主人は、わたしの控えの横に小さく書いた。


 ――意味不明語。


 ――人を役に置く気配。


 ――現場手順と無関係。


 わたしは、それを見た。


 人を役に置く気配。


 それなら、少し分かる。


 リリア様は、人を見ている。


 誰が怒っているか。


 誰が怖がっているか。


 誰が褒められたいか。


 誰が黙っていてほしいか。


 それを見て、言葉を置く。


 それは本物だ。


 でも、その見方が、人を役に置くことと近いなら、怖い。


 悪役。


 令嬢。


 退場。


 背景。


 モブ。


 分からない言葉なのに、役だけは分かる。


 下。


 外。


 邪魔。


 消えてよいもの。


 そういう風がある。


「奥帳には写さない」


 女主人が言った。


「はい」


「だが、控えから消すな」


「はい」


「セレナが次に来たら、見せるかはその時決める」


「はい」


 セレナ様。


 水を見る人。


 青壺の家では強すぎる姉。


 ローデン商隊では荷の水を見る者。


 リリア様の小声では、悪役令嬢。


 たくさんの札がつく。


 でも、本人がどの札を選ぶかは、まだ分からない。


     *


 翌朝、青壺の家から小さな壺が届いた。


 抗議ではなかった。


 確認用の水だった。


 青壺家内で、セレナ様の水見とは別に確認したいという。


 白い紙に青い印が押されている。


 リリア様の名もある。


 青壺確認水。


 婚礼香再調整用。


 白香家へ回す前に、香紙工房にて薄香紙との相性を見ること。


 わたしは、壺を見た。


 水は透明だった。


 蓋布は乾いている。


 紐は新しい。


 青い札もある。


 見た目はよい。


 でも、壺の底に、少しだけ冷えがある。


 床へ置くと、風が回るかもしれない。


「下棚には置けません」


 わたしは言った。


 若い下働きがため息をつく。


「またですか」


「また」


「青壺の確認水ですよ」


「はい」


「確認済みでは」


「水は確認済みです」


「では」


「風は未確認です」


 若い下働きは、少し考えた。


 そして、自分で札を取った。


 黒い点を打つ。


 その下に書く。


 水確認済。


 風未見。


 下棚不可。


 中棚仮置き。


 女主人確認。


 わたしは、それを見た。


「うまいですか」


 下働きが聞く。


「昨日より、かなり」


「かなり」


「はい」


 若い下働きは少し笑った。


「リリア様みたいに柔らかくは書けません」


「わたしも」


「でも、戻るよりましですね」


「はい」


 わたしは、花弁を落とした。


 花弁は壺の下へ向かわず、中棚の方へ少し滑った。


 下棚不可。


 中棚仮置き。


 正しい。


 少しだけ、札が働いた。


     *


 その日の奥帳には、青壺確認水の項目が増えた。


 青壺確認水。


 水確認済。


 風未見。


 下棚不可。


 中棚仮置き。


 香紙工房確認後、白香家へ回す。


 セレナ確認ではなく、青壺家確認。


 ローデン商隊確認ではない。


 この違いを書く。


 女主人は、そこを強く言った。


「青壺家確認と、セレナ確認は同じではない」


「はい」


「同じ水でも、誰が見たかを書く」


「はい」


「人を悪く書くためではない」


「はい」


「戻った時に、どの目で見たか分けるためだ」


「はい」


 どの目で見たか。


 水を見た目。


 家を見た目。


 香りを見た目。


 顔を見た目。


 風を見た目。


 全部違う。


 同じ水でも、見る目が違えば、札が変わる。


 それを、今日知った。


     *


 今でも、わたしは魔法を使えない。


 香りを留める秘術も知らない。


 青壺の家の内側も分からない。


 姉妹のことも分からない。


 婚礼の場に必要な柔らかさも、たぶんよく分からない。


 でも、水札の意味が、家の言葉で薄くなることは少し分かった。


 水を見る者がいた。


 その人は、セレナ様だった。


 けれど、青壺の家は、その水見を家の確認棚へ戻そうとした。


 姉を追い出したのではありません。


 水札の意味を家から外しただけです。


 そう書くと、角が立つ。


 だから、奥帳にはこう書いた。


 青壺家確認。


 セレナ確認と同一視しない。


 誰が見た水かを書く。


 それで十分だと思う。


 十分ではないかもしれない。


 また、柔らかい言葉で別の棚へ動かされるかもしれない。


 また、意味不明の言葉が戻るかもしれない。


 背景モブ。


 悪役令嬢。


 退場。


 意味は分からない。


 でも、人を役に置く気配はある。


 だから、消さない。


 紙も、水も、言葉も。


 分からないものを、分からないまま控える。


 そのために、今日も花弁を落とす。


 花弁は、中棚の前で止まった。


 青壺の壺は、そこに仮置きされた。


 水は透明だった。


 でも、透明だから安全とは限らない。


 柔らかいから正しいとも限らない。


 姉だから家のものとも限らない。


 妹だから優しいとも限らない。


 見えないものは、見える形にしておく。


 風抜き番の仕事は、また少し増えた。

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