2023年5月、セーヌ⹀サン⹀ドニ ①
妖精は虚勢を張った。
…あなたに、時間をあげるわ。
「いいや、お前の負けだ」
いいえ、純恋はまだ苗床候補。だって、父親、いないもの。
「俺が、いる」
あなた些も父親じゃないもの。
セヴンホークは黙り込んだ。
死ぬまで純恋の父親するの。この家から、離れるのも、駄目。純恋から離れては、駄目。純恋と旅行行くなら、大目にみてあげてよ?
「忠遠、誓約書を」
「トレンチコートの残骸を使う。紋を書き入れるから、像を被せろ」
「Oui, ça va bien.」
妖精はちょっと来いと呼びつけるように指先を動かした。びりびりになったコートの残骸がゆらりと立ち上がり、妖精の前まで泳ぐようにやってくる。妖精は目の前に広げた襤褸布を指差した。布の方が動いて文字なのか紋様なのか判別のつかないものが刻まれるように描かれてゆく。
純恋が子供じゃなくなったからって、父親をやめるのも、駄目。子供じゃなくなっていたら、母親共々サテュロイに与えるから。
これ、本当に父親なら背筋が凍る程のことなんだけどな、とセヴンホークの強張った顔を見ながら思う。
妖精の前で左から右へスクロールしてゆく布切れは右で垂れるそばから不思議な変化を遂げ始めていた。緑の細い枝になり、葉が萌え、蕾がつき、花弁が開く。茎は充実して木質化してゆく。その棘を固めてゆくように。そしてうねうねと縫うように動いて輪になりながら自ら編まれてゆく。花は赤い実に、また別の蕾がついては咲き、棘が固まる。
「茨か」
「だって折角ブライアって名乗ったんだしさ」
「まあ、それでもよい」
紋は襤褸布の長さ全てに及んだ。茨は花や実をつけたまま冠となったが、できあがると同時に葉は全て黄変して落ち、花は全て実になり落ちた。葉も実も落ちてゆく間に全て消えてしまったが。鋭い棘を携えた硬い枝だけの、茨の冠となった。
セヴンホークの顔が少しだけ蒼褪めている。
「茨の冠とは、斯くも恐ろしいものなのか?」
「被ったら、痛いよ」
妖精は腕を振って冠をセヴンホークの頭に飛ばした。彼は避けようと無駄な努力を試みたが、その前に見えない力で拘束されて少しだけ頭を振っただけに終わり、すとんと冠は頭に納まった。妖精は駄目押しに手首を下向きに振ると、癖毛の上に載っていただけの冠が額までぐいと嵌め込まれた。当然棘が皮膚を刺して裂き、血があちこちで滲む。セヴンホークが痛みで顔をしかめ、屈辱的に歪む。
「なんでクローンに信仰を植えつけたんだろ」
「奴はクリスチャンなのか」
「うん、多分。痛いったって、薔薇の棘が一遍に幾つも刺さって引っ掻くぐらいのものじゃん?」
「それは相当痛いと思うが」
「あいつ傭兵なんだってば。もっと痛い思いなんかざらさぁ。けど茨の冠に忌避を覚えるって、うん。そこだけは敬虔だなあ?」
「ああ。キリストが磔刑になったときに兵士らに茨の冠を被せられた…」
「図象的なレトリックだと思うんだけど…当時悪戯でそういうことした下っ端がいたのかな?いずれにせよ茨の冠は難しい暗喩を取り除くと、詰まるところ、呪いなんだ」
「それはキリスト教的な?」
「勿論。でも段々拡大解釈してくだろ。この冠はセヴンホーク専用誓約書なのだし?」
「誓約という呪いだ、と」
「勘がいい」
「早く呪ってしまえ」
「はいよ〜ん」
妖精は忌々しそうに言う。ちょっとぉ、勝手に外そうとしないでくれる?あなたが父親を放棄したら純恋はもらうから。
冠がぼわっと一気に炎に包まれ、灰になる。灰はまるで皮膚に溶けるようにすべて吸収された。
「飲ませるかと思った」
冠以外はなにも炎の影響はなく、焦げすら無かった。
「口から入れると、どうしても口に残った感があるだろう?口を漱いで多少でも吐き出すと」
「効果減っちゃう?」
「いや、呪いが軽減されたように、安心感を与えてしまう」
「忠遠ってねちこいなあ」
残ったのは、セヴンホークの額とそこから続く頭皮の傷、糸が切れたように眠る純恋、放心しかけている美智、一ヶ所に寄せられた荷物、そしてウノ。何枚かはまだあちこちに刺さっている。
妖精は不満そうに踵を返し、そして消えた。セヴンホークと美智は緊張が解けて虚脱する。
「妖精は回収した方がいいのかな?」
「無論。大掃除でもされて本体が見つかってみろ、洒落にならぬ」
「物議を醸すだろうねぇ。それはそれで面白い気がするけど。セヴンホークにつけた制約ってどの程度?」
「家から離れるなと、そういうものだったが?」
「や、あの家屋から離れたらアカンってやつ?それとも家族から離れたらいけないって?」
「常識的に、後者だがな。まあ、家屋から離れたらアウトと捉えていたら傑作だ」
メイアンはぶぶ、と小さく吹き出した。
「やりそう〰︎。一ヶ月後ぶくぶく肥ったセヴンホークが見れるかも、楽しみだ」
忠遠も想像してみたらしく、ふっと口許を崩した。そして拳を差し出した。拳は下向き。メイアンは同じように拳を出して突き合わせた。所謂グータッチ、フィスト・バンプ。
「お疲れさん」
忠遠の拳の重さが心地よい。
「ははっ、お疲れさま〜した〜」
妖精が帰ってきたのは三十分程経ってからだった。表情や姿には疲れなどは見られなかったが、労わるように受け止めて折紙に戻してやると、かなりくしゃくしゃになっていた。そうだよな、とメイアンは呟く。この雨の中帰ってきたことといい、セヴンホークに握り潰されそうになったり、衣類などが吹き飛ばされて舞うなかにずっといたのだもの、と平らに戻せるところまで戻して丁寧に撫でつける。クリアフォルダに挟んで部屋に置くと、急に眠気が襲ってきた。畳んで積んであった寝具に凭れかかってつい目を閉じると、そこはいつか見たような真っ白な世界になっていた。
「待ってたんだぜ」
朱鷺がつかつかと歩み寄ってきた。
「こんなに消耗して。律儀過ぎる」
寝具から身を起こせないのに、きゅっと臍の下辺りの奥が疼いた。
「いっちゃん…」
「メイアンの時間の感覚が面妖しいのは、これだな?おまえ、全力を使い過ぎなんだよ。心配になる…」
朱鷺はしょんぼりと俯く。メイアンは緩く笑いながらそちらに手を伸ばした。
「もっとこっち来て、いっちゃん。ああ綺麗だなぁ。見てるだけでどす黒いものが流されてく」
一初はメイアンの手に擦り寄った。
「…本当に、待っていたんだ」
「いっちゃん?」
「メイアンが休める状態になったら精神世界…夢のこの場所に無理矢理にでも連れてこれるように、要は待機してたんだ。やっとこの部屋に戻ってきたから、引き摺り込んだ。メッセージの様子が面妖しかったから」
「ごめん…」
「謝られても、困る。おれ…メイアン」
「後ろめたくて、さ」
「メイアン?」
「色々滅茶苦茶にしたのは、人間なのにさ。恩着せがましく頑張ってますって、変じゃん?」
「それは違う、メイアン」
一初は遮った。
「事象の流れを誰かの責任なんて言うことはできない。頑張ってこれ以上悪くならないように尽力してくれた。いいんだ、誇って」
「ふふ、いっちゃん優しい」
「優しさで言ってない。それに…朱鷺が一度自然絶滅しなきゃ、おれは存在してなかった。メイアンの前にこうやって立つことすらできなかった。メイアン。頑張ったんだよな。一段落、したんだよな」
黙って頷く。
「今日は泣かないのか」
「泣きそうな気持ちだけど、今…いっちゃんがいっぱい降り積もってきて…力が抜ける。足らないところは足されて、突き出たところは覆われてく。雪みたい」
「泣けなくしてしまった」
「ううん、泣くばかりが解決じゃないよ。真綿に包まれて右も左も見えないくらい白いと、余計なことを考えないでいい、楽になる」
「…四条さまが守ってくださっていても、この有様だもんな。おれは無力だ」
「忠遠か。どうだか。まあ、それなり?いっちゃんには敵わない。どんどん充填されてくる。この前みたいにいっぱい黒いのつけてよ。もっと、もっと真っ黒になるまで」
すると朱鷺は一気に赤面したような気がした。
「メ、メイアンっ。おまえ今凄まじいことさらっと言った!」
「えぇ?朱鷺の生態的にそんな?」
「い、いや、あの、黒いのは自分につける為のものだから…ああもう。そりゃつけて残してってやろうって邪にやったことだよ。でも、う〰︎っ、糞っ、嘴でつけたんだよっ、察してくれぇ」
朱鷺の姿のまま悶絶する一初が可愛らしくてメイアンはそっと抱き寄せ、囁いた。
「へへっ、そっか。あれ、いっぱいキスしてくれたんだ。そっか。今キスしてって、ねだっちゃったんだ。…駄目?」
「…嘴だから、ぎりぎりセーフでいいやい」
一初は嘴を頬に当てる。回数を分けて、右にも左にも。正面からではないのがとても残念そうだと思った。真正面からでは嘴は攻撃的だもんな、と可笑しくなってくる。
「もっと」
「おれのフラストレーションが溜まる」
「へへ。ちゃんと唇でしてくれたら、腫れ上がるまでしよう」
「全く、そういう…顔中に四条さまの痕跡残してるのは態とか?」
メイアンはむすっと言った。
「悪戯されたんだ。ごめんいっちゃん、避け切らなかった」
一初はまた改めて嘴を当てた。
「胸の内がもやもやして腹が立つ。他の方法なかったのかよって張り倒したくなるけど、それでも確かにメイアンを守ってくれてたから、ぐうの音も出ない」
メイアンは朱鷺の顔周りにそっと唇を寄せる。一初がしてくれたように、右にも左にも、何度も。一初は擽ったそうにそれを受けた。
「…抱きたい」
「多義だね」
「腕で抱き締めたい。そしたらメイアン、…抱きたいんだ」
メイアンは朱鷺の首に確りと腕を回し、顔を埋めた。
「嬉しい。いっちゃん硬いのに、そういうこと言わせちゃった…」
「男の勝手な欲求だろ」
「いっちゃんに抱かれたいよ。経験少ないのに、どうして?身体が疼くし、どきどきする」
「…お…おれ、な、ないよ。で、で、でもっ、身体を許してくれそうな、なんて理由でじゃ、ないから」
メイアンは嘴の裏側のつけ根にキスをした。
「いっちゃんがそんなひとじゃないの、わかってるよ。桑川で言ってたじゃん…こんなしょぼい形のメイアンに勃つって。丸ごとほしいって言ってもらっちゃった。あげる。ううん、いっちゃんを丸ごとほしい」
「是非もない。…その…上手く、できない、と、思うけど」
「上手かったら、それはそれで怪しいんじゃない?」
「したことないから」
「過去なんか責めないよ。お初なら切り出すのだって勇気が要るのに、嬉しくて」
「つまんない約束しちゃったなって、後悔してる?」
「してるけど、してない」
「どうして?」
「欲求と衝動に制限あることに不満はあるけど、いっちゃんにやっぱ違ったわって捨てられたくないから」
「そんなことしないのになぁ」
「いっちゃんを信じてないんじゃ、ないの。強引にいっちゃんをものにしちゃったって、うじうじしそうじゃん」
「なんでだよ」
「泳ぎ方を知らないのに引き摺り込んだ、より、こっちに泳いできてくれた、ってそしたら互いの身体に溺れても、いいかなって」
「メイアンはおれに溺れる前提か」
「もう、溺れてる」
「…愛いことを言う」
「媚びようと言ったんじゃないよ。ごめん…いっちゃんにこうして逢うと不調が全部改善されるのを、当てにしてるんだ」
「お。実用的」
一初は単純に嬉しそうだ。
「そこ喜んじゃ駄目でしょ…」
「役目があるのは嬉しいぞ。な、メイアン。あの約束は、夏休み前までで、いいよな」
「えぇ?」
「長くだって待てるけど、冗長な時間は不要だ。二ヶ月でおれはちゃんと自分を見極める。それで下した判断を後々覆したりはしない」
「えと…それは…そのう…夏休みになったら、また村上に来いってこと?」
一初は一瞬だけ言い淀んだ。
「だ…抱きます宣言」
「いっちゃん?」
「来なかったら、行く。でも来てほしい。庭の皆んなが待ってる」
「のこのこ行けない雰囲気…」
「迎えに来いってか?」
「ちちち違う…いっちゃんがあまりに積極的で前のめりで尾籠な話をするものだから」
「そうだな。おれもこんな話しようなんて思ってなかったよ。でも駄目だ、メイアンは捕まえて閉じ込めとかないと働き続けて壊れる。二ヶ月は、妥協点だ。逢うだけで癒しになるなら、何度だって逢いに来る。でも約束の期間はそこまでだかんな。覚悟しとけよ」
「もう行っちゃうの」
朱鷺はしっとりと嘴を頬に当てた。
「メイアンに夕飯の迎えが来た。食わなくても死なないおれ達だけど、そういうの、疎かにしちゃ駄目だ。またな」
白かった空間が一気に色を帯び、ものの形が次々と具体的に浮かび上がる。代償のように朱鷺の姿が曖昧になり、見えなくなってしまった。
呼びに来たのは多分またアキだろう。ここにいる人員のなかで適格なのがアキだけだからというとても消極的な理由で彼女が呼びに来てくれるのだが、それでも今はアキを恨めしく思えてしまう。
「メイアン〜夕ご飯…うわ。ここ来るたびメイアンの顔真っ黒やあ。なんなん」
拭いたら行く、と苦笑いしてみる。慕情に悩むのは双方同じなのになと、つい険が立つのを抑えられないような気がしたからだった。
久我とアキを見送って風呂から上がったメイアンに忠遠は出かける準備をしておけと硬い声で言った。
「どゆこと?」
「暖海法師から連絡がきた。お前さんに、客人だ。多分そのまま出ることになるだろう」
「雨降ってるよ。出るって、どこへ…」
その問いに答えは得られなかった。庭に面した掃き出しの窓の前に見たこともない黒い大型の生物が、今将に舞い降りたのだと言わんばかりに翼をゆっくりと打ちながら現れていたからだ。大きさは馬より二回り程大きいだろうか。カンガルーのように後脚が発達しており、筋肉が顕だ。脚先は蹄。後脚の発達ぶりとは対照的に前脚は器用そうだが細く短い。顔は爬虫類のようだが、先が尖っておらず草食を思わせる。山羊のような角があり、その角は灰色だった。そして翼…それは腕ではなく、背中から生えていた。蝙蝠のように飛膜になっており、確かに大きいには大きいがどう考えてもその全体重を飛翔させ得る強度を持っているとは考え難い。
…これは龍以上に、暗喩を積みに積んだ幻獣だな。
色が黒。巨大。蹄。指のある前脚。山羊の角。蝙蝠の翼。人間の忌避するもの、畏怖するものが詰め込まれている。どこかユーモラスではあるが。
「なにあれ忠遠」
「ジャージー・デヴィル」
「はあ?ジャージー・デヴィルって、アメリカのUMA…はあ。現代のフォークロアってか。龍がいるんだもんな、ジャージー・デヴィルがいたってまあいいよ。カンピーでディズマルまで行ったもんな、ドンバスから連れてこられたもんな、ニュージャージーからUMAが飛んできたってそうだな、有りだな、驚く方が間違ってたよ。で?なんで?そいつが京都に?」
忠遠は窓の外を腕組みしたまま見据えて言った。
「あれが、お前さんの客だ」
「ジャージー・デヴィル?」
「あれは乗騎に過ぎぬ。その背に乗ってきた、魔女よ」
「魔女?」
「チェロキー族が最も畏れる渡鴉の魔女、レイヴンモッカー」




