過去編 紅音の思い出9
――私は殺す。
あの場所に居る化け物全てを、この手で殺す。
そう誓いを掲げて私は、深く深く浸る。
二人の、思い出の中に。
過去編 紅音の思い出9
1977年7月
1
「なぁ、紅音。ちょっと聞きたいんだけどさ」
「ん?」
ある夏の日の、一時限目が終わったあと。
私、篠川紅音は寝坊し、一騎からありがたく一限目の数学のノートを受け取った時のことだった。
一騎は鞄から小さな紙を二枚取り出して、
「今週の日曜、予定空いてたりする?親戚から遊園地のチケットが二枚貰ったんだけど、紅音と一緒に行きたいなって」
目の前の彼は、観覧車がプリントされた小さい紙をヒラヒラとさせる。
しかし、私は眉を顰めて、
「あー……すまない。その日は予定がある。来週でも大丈夫か?」
「あ、来週でも全然大丈夫」
「そっか、よかった」
私はホッと小さく息を吐く。
日にち限定、とかじゃなくて良かった。
「じゃあ、問題なく行ける。遊園地、楽しみだ」
私は笑みを浮かべて、一騎の誘いに承諾の意を示す。
一騎も嬉しそうに笑みを強くして、
「あぁ、俺も楽しみ。……ほい、チケット」
「ん。ありがとう」
私は一騎からチケットを一枚受け取る。
……それを見ていたら、顔が思いっきりニヤつきそうになったので、私はなるべく澄ました顔を取り繕いながらチケットを鞄の中に仕舞う。
「あ、そういやその遊園地、プールもあるんだよ。紅音、プールは大丈夫?」
「大丈夫だぞ」
『一騎と水遊びするのも楽しそうだ』なんてことを考えながら即答する。
「良かった。じゃあ、当日は水着の用意もよろしく」
「……ああ」
今度の返答は、少しばかり遅れてしまった。
……水着か。
水着かぁ。
「じゃ、またあとで」
一騎はそう言うと、自分の席から離れてどっか行った。
……。
(そういえば、水着、学校指定のスクール水着しか持ってない気がする)
……水泳とか、ここんとこ学校の授業でしかしてなかったからな……。
そんなことを考えていた時、
「ねぇ、さっきプールがあるとこでデートするって聞こえたんだけど、問題無さそう?ってか紅音、水着持ってる?」
山崎ひかりが一騎の席に座り、そう声をかけてきた。
「……いや、デートなんかじゃ…………」
『デートなんかじゃない』と私は言いかけたが、途中で止める。
ひかりの視線が、段々アホの子を見る目へと変化していったからだ。
「……デートだ。文句あるか」
なので、私は開き直ることにした。
自棄になったとも言う。
そんな私に対しひかりは苦笑を浮かべ、
「最初からそう素直に言ってたら文句ありません。んで話戻すけど、紅音ってちゃんとした水着持ってるの?」
「いや、学校指定のしか持ってない」
「あー、もしかしたらそうなんじゃないかと思った。紅音、あんまそういうとこに遊びに行かなそうだし」
ひかりはウンウンと頷く。
……地味に失礼なことを言われた気がしたが、ひかりの予想は全くもって正しかったので、ぐぅの音も出ない。
「よし、じゃあ土曜の放課後にでも水着買いに行こう。私も自分のそろそろ新調したいなと思ってたし」
私を放置してひかりはどんどん話を進めるが、私としても誰かに相談したかったので助かった。
「遊びに行くならオシャレしたいよね。好きな人の前では余計にさ」
「……」
私は何も言わない。
でも、小さく頷いた。
そんな私を見たひかりはニヤリと笑って、
「じゃ、土曜の放課後、そのまま駅前直行ねー」
「あぁ、わかった」
私がコクリと頷くと、ひかりは軽い足取りで自分の先に戻っていった。
……。
デート、か。
「紅音、どうかしたか?」
「!」
私は勢いよく振り返る。
そこには、どこかから戻ってきた一騎が立っていた。
「紅音、思いっきり上の空だったけど、なんかあった?」
「……いや、なんでもない」
私は頭を横に振りながらボソリと呟く。
「?そっか」
一騎は少し不思議そうな顔をしたが、そのまま席に座って次の授業の準備を始めていた。
私の誤魔化しは、何とか通用したようだった。
……本当は、『一騎とデートすることを考えてボンヤリとしていた』が正しい答えだったのだが、そう答えるには私に素直さが足りなかった。
2
遊園地に遊びに行く当日の朝。
私は駅の改札口の前で、誘ってくれた相手である一騎を待っていた。
駅で待ち合わせして、一緒に遊園地に向かうことになっていたのだ。
……それにしても。
(早く来てしまった)
約束の時間は午前十時。
そして、今の時間は九時半を少し過ぎたばかりだった。
(……張り切り過ぎたかもしれない)
そんなことを考える。
一騎とはもう何度も遊んでいるが、待ち合わせ場所に一騎よりも早く着いたのは初めてだった。
(……緊張する)
今の自分の格好がいつもと違うこともあって、なんとなく落ち着かない。
(一騎、早く来ないかな)
自分が勝手に早く来たのにも関わらず、そんなことを考えながら辺りをキョロキョロと見渡す。
すると、いつの間にか着いていたらしい月原一騎と目が合った。
彼はニコリと笑って、
「紅音、お待たせ。……もしかして、結構待たせちゃった?」
「いや、全然待ってない。私もついさっき来たところだ」
そう言葉を交わすと、私と一騎は無言で見つめ合った。
……。
……目の前に居る一騎の格好は、上は白のシャツを羽織った灰色のTシャツ、下は紺色のジーンズというシンプルな服装で、いつも通りのカッコいい一騎だ。
そんな彼は今、まるで時が止まったように体を固めている。
だから、
「……私の格好、変かな」
不安を隠し切れず、そう呟いた。
――私の服装は、短く言うと、腰の部分に飾りのベルトが巻かれた白いワンピースだ。
ワンピースは首周りがやや開かれてるデザインで、鎖骨から首元までの肌が日の下に晒されている。
腰に巻かれた飾りのベルトは真っ黒で、白いワンピースのアクセントとなっていた。
そして、そんな私の頭上には、小さい麦わら帽子が被せられていた。
……。
……自分で言うのもなんだが、結構可愛い格好になったんじゃないかと思う。
でも、なんと言えばいいのだろうか、女の子女の子し過ぎて、違和感がすごい。
スカート自体は好んで穿くのだが、こんな『どこのお嬢様?』みたいな格好したことがない。
……先日、ひかりと一緒に居る時に買ったのだが、店で悩んでいた時に横からひかりに『可愛い可愛い行ける行けるむしろ行け』と言われ、『たまにはこういのも……』と思い、今日着てきたのだが、一騎に『あざと過ぎて嫌』とか思われたらどうしよう。
そんな不安が大きく膨れあがる、正にその瞬間、
「……ううん。全然変じゃない」
目の前の少年は首を横に振って、私の言葉を否定する。
そして、
「いきなり黙ってごめん。紅音がすごく可愛いくて、ちょっと見惚れちゃってた。言い損ねちゃってたけど、めちゃくちゃ似合ってる」
明るい笑顔で、そう言ってくれた。
……。
どうしよう。
すごく嬉しい。
少し不安になっていたところにそんなこと言われたから、私の心に思いっきり響いてしまった。
麦わら帽子で陽射しを遮っているにも関わらず、顔が一瞬で熱くなるのを感じる。
「……あ、ありがとう」
私は辛うじてそう答える。
でも、顔の熱は全く引いていなかった。
「……紅音、かわいい」
今度は優しげな笑みを浮かべてそう呟くものだから、心臓の音が目の前の男にまで聞こえてしまうんじゃないかと思ってしまうほど煩く響いてしまう。
「あまり揶揄うな……」
もうそんなことしか言えない。
「思ったまんまを言っただけ」
一騎はクスクスと笑って、
「そろそろ行こっか」
右手人差し指を駅の改札口に向けた。
……確かに、ここはただの待ち合わせ場所だった。
「……」
私は無言でコクコクと頷いて、一騎の隣に並び立つ。
そしてそのまま、駅のホームに向かって二人同じ速度で歩き始めた。
……なんとなく、一騎の左手に自分の右手を伸ばしかけていたが、私は途中で手を止め引っ込める。
今更躊躇ったとか、そういうのじゃない。
ただ、手を繋ぐのは、遊園地まで取っておきたいと思っただけの話だ。
――移動中の電車内にて――
「あ、そういや、割と激しめのアトラクションもあると思うんだけど、スカート大丈夫?」
「下にスパッツ穿いてるから問題ない」
3
「考えてみれば、私、遊園地に来たの五年以上ぶりだ」
お昼の遊園地。
家族連れが多いその場所で、私は一騎とジェットコースターの列に並んでいた。
「へー、そうなんだ。……そういや、俺もそんぐらいかなぁ」
一騎は隣でしみじみと呟く。
「久し振りのジェットコースター、すごい速さで怖かったらどうしよう」
隣の少年はクスクスと笑いながら、そう言う。
かくいう私も、一騎と同じ気持ちだった。
怖いけど楽しみといったような、そんな不思議な感覚。
「……そうだな」
だから、私も小さく笑って一騎の言葉に同意する。
その直後、
「次の方どうぞー」
スタッフの間延びした声が辺りに響く。
私達は周りの人達と前へ進み、上の部分が露出した赤い列車の座席に座ると、安全バーが上半身を覆うように下ろされる。
そして、
「安全確認!出発進行ー!」
スタッフの大きな声と共に、赤い鋼鉄の列車が前に進んだ。
列車は斜めになっているレールをゆっくりと登り、地面からドンドン遠ざかる。
列に並んでいた時には横からしか見れなかった数々のアトラクションを真上から見下ろせ、水平に視線を向けると建物が何もない空色の風景になっていた。
私はそんな開けた景色に目を向けながらボソリと、
「なぁ、一騎」
「なんだ、紅音」
「正直、この登ってる時間が一番怖い」
「それ、めっちゃわかる」
数分後。
「ちょっと怖かったけど、思ったより楽しかった」
一騎は子供っぽくテンションを上げて、笑いながらそう言う。
「うん、そうだな」
そんな一騎に対して私は普段のトーンで返事をするが、内心は一騎と同じくちょっと興奮していた。
…….遊園地なんて滅多に来てなかったけど、たまには良いかもしれない。
「次、どこ行きたいとかある?」
一騎は遊園地のマップを広げてそう尋ねてくるから、私は覗き込むようにしてそのマップを見る。
……。
「こことか、どうだ?」
私はマップのある一点を指さす。
そこには、鏡の壁による迷路……つまりはミラーハウスがある場所だった。
「良いね。そこにしよっか」
一騎はそう言うと、遊園地のマップをしまって私と手を繋ぐ。
そして、私と一騎は並んで歩き出した。
4
あれから、色々回った。
具体的に言うと、ミラーハウス、空中ブランコ、フリーフォールなどに乗って楽しんだ。
そして、時計の針が正午を回った頃一旦アトラクション巡りを切り上げて、二人で遊園地内のレストランでハンバーガーを食べた。
少し割高だったが、味は結構美味しかった。
食事を済ましたあと、私達はプールに向かった。
私と一騎は入口の更衣室で別れ、水着に着替えてプール内で対面した。
……私の水着はフリルがあしらわれた赤いビキニで、一緒に選んだひかりには『セクシーで可愛いくて似合ってる。行ける』と言われていたものの、結構露出度が高いものだったので、一騎の前に出るのは結構恥ずかしかった。
ただ、一つ失念していたのは、自分が見られることばかり考えていてたが、私も一騎の水着姿を見ることになるのだ。
……実際、一騎の水着姿はドキリとするもので、私は体を硬くしてしまっていた。
しかし、それは一騎も同じだったらしく、お互い誤魔化すように照れ笑いを浮かべ、そのまま流れるプールに入り適当にビニールボールを投げ合って楽しく遊んだ。
問題が起きたのは、その後だ。
「……」
一旦休憩のためプールから上がった私は、一人でプールサイドの端っこに立ち、視線を下に向ける。
そこに、涙目になってる四歳程度の女の子が居た。
泣いている理由は恐らく……周りに大人が一人も居ないことを考えると、親と逸れたからだう。
「……」
近付いてみたはいいものの、何と声を掛けたら良いのかがわからない。
(……高いところから話しかけられても怖いだろうし、とりあえず目線を合わるか)
私はしゃがんで女の子の顔を覗き込む。
すると、女の子は驚いたのか、涙が止まる。
その隙に私は、
「こんなところで泣いてどうした?あなたのお名前は?」
僅かでも怖がらせないようにと、普段より口調を柔らかくさせる。
女の子は再び顔を歪めてポツリと、
「わたし、いちかっていうの。ママとパパ、どっかいっちゃったの」
「そうか、いちかちゃんって言うのか」
私は安心してもらえるよう、笑みを浮かべる。
「私の名前は紅音だ。……お父さんとお母さん、私が一緒に探そうか?」
「いい」
女の子……いちかちゃんは首を振りながらそうハッキリと断るものだから、私の体がピキリと固まる。
直後、いちかちゃんは申し訳なさそうに、
「しらないひとに、ついていっちゃいけないってママにいわれてるから」
「そ、そうか……。しっかりしてるんだな、いちかちゃんは。偉いぞ」
「うん!」
いちかちゃんは褒められて嬉しいのか、元気に頷く。
気も紛れたのか、涙は引っ込んでいた。
それにしても
(どうしたものか……)
私は首を捻って考える。
そんな時、後ろから、
「お待たせ、意外とドリンクの列並んでて……って、その子どうしたの?」
ジュースのカップを二つ持った一騎が、首を傾げながらそう声を掛けてきた。
「この子、いちかちゃんって名前なんだけど、両親と逸れてしまったらしいんだ」
「……迷子か」
短く事情を聞いた一騎も、ちょっと悩んだ顔をする。
「あ、とりあえず、これ紅音の分」
一騎は私にジュースのカップを渡してくるので、私は「ありがとう」と言いながら受け取る。
一方、いちかちゃんは、一騎が持つもう一つのカップをジーっと見つめていた。
小さな女の子の視線に気付いた一騎は、ニッコリと笑みを浮かべて、
「欲しい?中身、オレンジジュースだけど」
「ほしい!」
いちかちゃんは、先程まで泣いていたとは思えないほど大きな声を出しながら頷く。
一騎は笑いながら、いちかちゃんにジュースのカップを渡し、小さな迷子は受け取るや否やストローからジュースをゴクゴク飲む。
「……それにしても、どうしたものか」
私は顎に手を当てながら、一騎に意見を求める。
「うーん……。とりあえず、係員に連絡するのは?というか、そもそもこの子の親が――」
『ピンポンパーン。迷子のお知らせです。壱花ちゃんという四歳ぐらいの女の子をお母さまが探しています。ピンクのワンピース型の水着を着ています。お気づきのお客様がいらっしゃいましたら、近くの係員までご連絡くださいませ』
「……探してるだろし、っていうか探してるみたいだな」
場内のアナウンスを聞いた一騎は、『よし』と頷きながら周りを見渡し、
「近くには係員居ないようだから、入り口の事務所っぽいところまで行ってくる。そんな遠くないし」
そう言って、やや駆け足でプールエリアの入り口まで走って行った。
残った私はチラリと壱花ちゃんの顔を盗み見る。
視線の先に居る女の子は「おいしー」って言いながらジュースを飲んでいた。
五分後。
「ほんっっっっと、ウチの壱花がお世話になりました!」
私と一騎は、壱花ちゃんのご両親から頭を下げられていた。
一騎が事務所に行くと、そこに壱花ちゃんのご両親が居たらしく、事情を説明してそのまま来てもらったとのことだった。
「いえ、大したことしてないので」
私はフルフルと首と手を横に振る。
すると、壱花ちゃんの母は、
「そんなことです、本当助かりました……。ほら、壱花もお礼を言いなさい」
「おねえちゃん、おにいちゃん、ありがとー」
母に促された壱花ちゃんはペコリとお辞儀する。
その動きがなんとも可愛らしく、なんとなく微笑ましい気持ちになる。
「では、失礼します。……ほら、壱花行くわよ」
「うん!……おねえちゃん、バイバイー」
そう言って、親子はこの場から去って行った。
その際、壱花ちゃんは手を振ってきたので、私も手を振り返す。
……。
「一騎、付き合わせて悪かったな」
「全然悪くないよ。紅音のそういうところ、俺好きだし」
一騎はサラリとそう言うと、十メートルほど先にあるテーブルを指さして、
「あそこでちょっと休まなない?折角ジュースも買ったしな」
「あ、あぁ、そうだな……。……というか、一騎が買ってきてくれたのに、一騎の分が無いじゃないか。これ、お前が飲め」
私は一騎に向かってジュースのカップを突き出す。
「それは紅音の分だから、紅音が飲んで。んで、少しだけくれたらありがたい」
「……わかった」
私はコクリと頷き、手を引っ込める。
「じゃあ、座ろっか」
一騎のその言葉で私達は近くのテーブルに座る。
そうして、その場でジュースを回し飲みしながら適当に雑談して過ごした。
……間接キスになっていたことには気付いていたけれど、意識したら負けなような気がしたから、結局一言も触れなかった。
5
プールで色々遊んだあと、元の服装に着替えた私達は、最後のアトラクションとして観覧車に乗っていた。
一つの小さいゴンドラの中で私達は向かい合って座り、無言で窓の外の夕陽を眺めていた。
世界は橙色に染まり、私達が居るこの狭い空間も優しい色で染まり上がる。
(今日は楽しかった)
一日中、一騎と一緒に遊んで、本当に楽しかった。
ドキドキしたし、ワクワクした。
そして、今は観覧車の中で二人きり。
ムードとしては、満点だろう。
だけど、『もしかしたら』なんてことは思わない。
私達は、付き合ってないのだから。
「……」
私は一度、一騎の告白を断った。
いや、正確には断ったわけではない。
『断った』と受け取られてもおかしくない言動をしただけで、私は何も答えていなかった。
そして、彼はそれから決定的な言葉を口に出していない。
『好き』とは言ってくれるけど、『だからどうしたい』って言葉は言ってこない。
だが、それも当然の話だろう。
だって、告白を断った奴に――、いや、答えることすらしなかった奴に、もう一度告白するなんてこと、すごく勇気がいるのは明らかで。
そして何より、彼は『紅音という人間は今の関係の持続を望んでいる』と考えているだろうから。
私がした『返事』は、そういうものだった。
「……」
だから、私から言わなきゃいけない。
自分の気持ちを、一メートル先に居る彼に言わなきゃいけないんだ。
彼との関係性を進めたいのなら。
彼ともっと一緒に居たいなら。
言わなきゃいけない。
そんなことはわかっているのに。
私は。
「…………」
言えない。
どうしても、言えない。
『それ』を言葉にしようとすると、心の中が緊張と不安でグチャグチャになる。
――もし、彼がもう恋仲になることを望んでいなくて、関係が途切れてしまったら?
――仮に、恋仲になれたとして、それで今まで以上に自分という人間を知られ、結果それが理由で嫌われてしまったら?
そんな恐怖が、私の心を蝕んで。
想像しただけで心臓の鼓動が早くなって、今すぐこの場から逃げ出したくなる。
……そんなことしたところで意味なんて無いのに、そんな風に考えてしまう自分が情けなくて、自己嫌悪の嵐に襲われる。
だから、私は――
「……紅音?」
一言だけ、言葉が聞こえた。
それは私の名前で。
その言葉を発しているのは、目の前に居る男だった。
「紅音、大丈夫か?顔色、良くないけど」
一騎は心配した声色で尋ねてくれる。
なのに私は、
「……大丈夫だ。問題ない」
素っ気なくそう言って、顔を横に逸らした。
……少しぶっきらぼうになってしまったが、嘘はついてない。
ただ、激しい自己嫌悪に襲われているだけだ。
今の、自分の反応のことも含めて。
……。
ゴトッ。
私達が乗っているゴンドラが音を立てて、ぐらりと揺れる。
それは、一騎が私の隣に移動した振動によるものだった。
私は驚きで目を見開く。
直後、彼がしたことは。
「……なんだ、この手は」
何故か、私の頭を撫でていた。
まるで不安がっている子供にするかのような、そんな動き。
「なんとなく、こうしたくなっただけ」
一騎は答えになっていない答えを口にする。
「そうか」
私は一言そう呟いて、再び窓の外を見る。
そんな私に対し、彼は後ろからこう尋ねてきた。
「……嫌だった?」
少しだけ申し訳なさそうな、小さな声。
だから、私は。
「……嫌じゃ、ない」
途切れ途切れだったけれど、ハッキリとそう答えた。
……別に、自己嫌悪が消えたわけじゃない。
根本的な問題は、何も解決していない。
それでも彼に頭を撫でられたら、なんとなく安心できたから。
嫌なわけが、なかった。
「そっか。良かった」
一騎はそう言って私の頭から手を離す。
その直後、私は無言で彼のその手を掴み、絡み合うように握り締めた。
もっと、一騎と――私の好きな人と、触れ合っていたかったから。
――結局、ゴンドラが地上に降りるまで、私達はずっと手を繋いでいた。