第九章 夢
第九章 夢
2034年4月
1
「領事館って確か、治外法権だか領事特権だかで、公的機関でも手出しできないんですよね?」
ロサンゼルス市のとある一角。
茶髪に虹色のカチューシャを付けた少女――雲林院葉月は隣に立つ先輩にそう問いかけた。
「ああ。警察もここには強引に入ることができない」
問われた先輩――月原紅音は視線を上に向けながら後輩の質問にそう答える。
葉月は紅音の視線を追い、紅音と同じように見上げる。
そこには、二十メートルほどある白いビルが立っていた。
領事特権により、現地の法から免除された駐L.A.ロシア領事館である。
「……ペット用鵺ビジネスの黒幕のアーダルベルトってここに隠れてるんですよね?ペルソナ・ノン・グラータって使えないんですか?」
葉月は視線を紅音に戻して、思ったまま質問をする。
「……免除特権剥奪なんて、よく知ってるな、葉月」
紅音は意外感を覚えながら、葉月の方に顔を向けて視線を合わせる。
「よく読むミステリー小説シリーズで出て来ました!」
「なるほど。確かに面白いよな、推理小説って。……それで質問の答えだが、免除特権剥奪は個人に対して行うもので、場所に対して行えるものじゃない。そして、このロシア領事館に連絡して『アーダルベルトという「札付き」を出せ』と言ったところで、その主張自体は正当なものだとしても、向こうに『そんな人物知りません』と突っぱねられてしまったら、こちらからの通常の介入は出来なくなる」
「あー……。確かに、そうでしたね……」
葉月は自分の考えがダメだったことで軽くしょんぼりする。
「それで、これからどうするんですか?」
「ん?」
「ここまで来たということは、何か考えがあるってことなんですよね?」
「……」
……警察だろうが介入できず、免除特権剥奪だって効果は無い。
にも関わらず、葉月は、紅音の言動から『何か方法があるんだろう』と思った。
そんな後輩少女を見て紅音は『葉月って、結構頭の回転良いよな』と感心する。
「葉月の言う通り、確かに策はある。ただ、アーダルベルトが『犯罪者アーベント』だという公的な認定連絡を待ってからになるけどな」
「策って、どんなのなんですか?」
葉月は首をパタリと傾げながら尋ねる。
だから、紅音は、
「いつどんな場所だろうと使える……いや、正確には起こり得る唯一の例外がある。今回はそれを使う」
白い女は喋りながら、ポケットから携帯端末を引き抜く。
彼女のたった一人の上司から、ある連絡が来たからだ。
それは、『必要な手続きは全て終わった』という、作戦開始の合図。
携帯端末に表示されたメッセージを見ながら先輩は、後輩の質問に答えるため口を開く。
「その唯一の例外というのは――」
2
アーダルベルト=シュルツ、という男がいる。
彼は今でこそARSSロシア本部長という肩書きだが、元々は欧州本部ドイツ支部に所属していた。
ドイツ支部における彼の活躍は凄まじく、二十三歳という若さでドイツ支部長に就任するばかりか、欧州本部におけるトップ七人の中級集団『美徳の七枝』に選ばれるほどだった。
そして、『美徳の七枝』の中でも抜きん出た実力を発揮した彼に、長らく空位だったロシア本部長の座に推薦する声が上がったのは、ある意味当然のことだったのかもしれない。
しかし、ほとんどの人がわかっていなかった。
彼は鵺から人を守るつもりなど、これっぽっちもなかったということに。
『世の中の人間なんて、クズしかいない』
それが彼の考え方だった。
――彼の祖国、ドイツでは秘密裏にとある一つのプロジェクトが行われていた。
その名も、『人造超人計画』。
内容は、超人……つまりはアーベントを人の手によって作ろうとした計画だ。
その計画に特別な理由など無かった。
もしかしたら、その計画のスポンサーには特別な思惑があったのかもしれないが、プロジェクト立ち上げた研究者本人としてみれば『作れてみたら面白そう』という興味本位だけのものだった。
手順はそこまで複雑ではなかった。
まず『霧』から感染した通常のアーベントを一人用意した。
そして、そのアーベントから影胞子を取り出し、アーベントではない普通の人間に影胞子を摂取させ、その被験者をアーベントにしようとしたのだ。
……この計画は、非常に難航した。
下手したら鵺にもしかねない人体実験など、ARSSも法も認めるわけがなく、そもそもの影胞子の源とする素体のアーベントは最低限の力しか持ってない流れの『札付き』しか用意できなかったこともあり、一日で抽出できる影胞子が微々たるものだったのだ。
その影胞子を何週間、下手したら一ヶ月以上与えてようやく被験者は侵食度レベル3に辿り着くのだが、レベル3の中でも特殊能力者アーベントになる確率は1%を遥かに下回っているため、ほとんどがアーベントではないレベル3……つまりは狂乱した鵺一歩手前『失敗作』となった。
実際、計画がスタートしてから成功例は片手で数えられるほどしか出なかった。
その最後の成功例となるのが、アーダルベルト=シュルツだ。
彼はアーベントになったのと同時、プロジェクトの中で最大の影胞子を内包する最も優秀なアーベントとなった。
しかし、彼はあまりにも優秀で、そして何より暴力の徒だった。
今までのアーベントは銃火器程度で抑えられたのだが、アーダルベルトの影胞子操作能力は凄まじく、アーベント共通の影胞子による身体強化のみで研究所の職員を皆殺しにした。
別に、彼らに恨みがあったわけではない。
そもそも被験者になったのだって、無理矢理ではなくアーダルベルト自身の希望だ。
ただそれでも殺したのは、実験を経てアーダルベルトは『自分は世界で最も優秀な超人』になったと考えるようになり、その自分に対してある意味創造主とも言えるモノが存在するのが、耐えられなかっただけだ。
アーダルベルトにとっては幸運なことに、『人造超人計画』は秘密裏に行われていたため、彼の殺戮が表に出る事はなく、彼は通常のアーベントのようにARSSに身を置くこととなった。
しかし、アーダルベルトの性格は変わるわけではなく、一度戦闘になれば敵も味方もまとめて殺す狂気のアーベントとなっていた。
普通なら懲戒免職どころか処刑されてもおかしくない有り様なのだが、彼の『固有能力』は証拠を簡単に揉み消すことができるものだった。
ただ、どうしてもアーベントの死亡記録は残るため、『アーダルベルトが出動したら、敵も味方もみんな死ぬ』という結果のみ残り、それ故に彼は上級に昇格したときに、『鏖殺卿』という称号を得るのことになったのだ。
そんな『鏖殺卿』の行動原理はたった一つ。
『自分だけが特別な人間で、その他の存在に大きい顔をさせないこと』
だから、彼は鵺を殺した。
人を殺し、まるで食物連鎖の頂点のような面をしている鵺を許せなかった。
だから、彼はアーベントを殺した。
本当の超人は自分の意志でアーベントになった自分だけなのに、まるでヒーローのように気取っているアーベントを許せなかった。
だから、彼は人を殺した。
ただの人など、超人の自分に比べたら、クズ以下のゴミでしかなかった。
……とは言っても、世界は彼を中心に回っていない。
そんなこと、彼自身わかっていた。
超人たる自分が本来のあるべき形――世界の中心になるには、三つのものが必要だと彼は考えていた。
暴力、権力、そして金。
一つ目は超人の自分は既に持っており、二つ目もARSSロシア本部長になった時点である程度手に入れられたと考えた彼は、三つ目の『金』を強く求めるようになった。
そのため彼は『鉄鋼』ことキーラ=アソチャコフと手を組み、ペット用鵺ビジネスに手を出したのだ。
本来ならリスクが非常に高いそのビジネスも、彼の固有能力を使えばハードルは多少低くなるため、着実に大金を得ており、そしてこれからも更なる大金が懐に入る。
そのはずだった。
「一体何が起きた……?」
ロシア領事館内の豪勢な一室の中で、アーダルベルトは思わずといったふうに呟く。
暴力、権力、金。
それら全てを手中に収めかけていた彼の順風満帆な人生は、つい数分前から崩れ去り始めていた。
「僕が、この僕が、『札付き』だと?」
アーダルベルトは八つ当たりで目の前の机を蹴り砕くが、そんなことしたところで事実は変わらない。
ARSSトップ十二人の本部長の座から罷免され、犯罪アーベントになった事実は、何も変わらない。
……ほんの三十分前、U.S.A.本部長リリア=ウォーカーの要請により、緊急の夜明議会が開催された。
――夜明議会とはARSSのトップである上級十二人とその更に上の階級二人によって開かれる議会だ。
本来は一年に一回で直接対面で行われるのだが、緊急を要する事態に限り、臨時開催も許されている。
緊急の臨時ゆえに『可能な限りの参加』かつリモートでの開催となっていて、それがつい先程行われたのだ。
議題の内容は、『ロシア本部長アーダルベルト=シュルツの重大な背信行為について』。
アーダルベルトは勿論参加し、異を唱えるつもりだった。
しかし、開会された直後からリリア=ウォーカーは、アーダルベルトがペット用鵺ビジネスに関わっていた強力な証拠――監視カメラ映像やキーラからの証言だ――を提示し、しかも一体どんな手を使ったのか、過去の取引相手からも証言を引っ張り出してきた。
上級序列第一位の議長から形ばかりの反論を求められたが、どう取り繕っても否定できない状況で、アーダルベルトは何も反論することはできず、『僕はそんなことしていない』と無意味な時間稼ぎをするしかなかった。
とはいっても、所詮は臨時の議会。
参加者である上級同士での話し合い及び合意が必要であることから、無理矢理でもなんとか時間を稼ぎ次回に持ち越せればそれで良いと思っていた。
しかし、話し合いなんて一切なかった。
なぜなら、参加者の内――今回の臨時議会の参加者は上級七名のみだ――、序列トップスリーがすぐさまリリアの提案に賛同したからだ。
とっくのとうに、根回しされていたのだ。
そうでもなければ、自分が支配するロシア本部に、他本部からの監査が閉会直後すぐに始まるわけない。
議会でのアーダルベルトは明らかに劣勢で、古巣の上司である欧州本部長も彼に『罪人』の判を押し、アーダルベルト以外の出席者全員の合意により、彼のロシア本部長の罷免と札付き認定が決定した。
(もう、ARSSに僕の居場所は無い……)
もし、事前にリリアの動きを掴んでいれば、やりようなどいくらでもあったのだが、もう既に完璧なチェックメイトをかけられてしまった。
せめて自分がARSSロシア本部に居れば証拠の隠滅などし放題だったが、今自分はロサンゼルスにおり、もうロシア本部からも自宅からも追加の証拠は押さえられているだろう。
(キーラのバカが余計な欲を出さなきゃ、僕が尻拭いでこんなとこまで来る必要は無かったというのに……。せめてもの救いは、ロシア領事館に居座っていたことぐらいか)
治外法権のロシア領事館を利用していたのは念のため以上の意味は無かったが、まさか役に立つとは思わなかった。
(いくらリリア=ウォーカーでも、ロシア政府までは手が回らなかったか……)
だが、安心するのも早計だろう。
先日直接会った最下位のあの上級が、ここまで自分を追い詰めてくるなど、夢にも思っていなかったのだから。
(ここで立て篭っていても所詮時間稼ぎにしかならない。ならいっそ、アングラな組織に身を堕とした方が賢明かな)
札付きによるテロ組織『黒き眠りの森』に、影胞子を信奉する新興宗教『ウルエ教』。
様々な暗部組織が、アーダルベルトの頭をよぎる。
(キーラの奴は元々『黒き眠りの森』に所属していた。ならそこに……。いや、ダメだ。キーラはARSSに身柄を押さえられた『失敗者』だ。あのイカれた『黒き眠りの森』は失敗者を許さない。だから、このパイプは使えないどころか、むしろ僕まで粛清対象に加えられている可能性だってある)
ならば、
(『ウルエ教』か……。宗教法人は隠れ蓑としていいし、何より影胞子を重要視しているところが僕と相性が良い。宗教という性質上、テロ組織と違って、門戸はかなり開けてるだろうし、何よりトップを直接見る機会だってあるだろう。なら、僕の『固有能力』で乗っ取ることも簡単か)
……これからの方針は決まった。
ならまずは、ARSSの連中に悟られず、このロシア領事館から脱出する方法を――。
ブ イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛!!!!!!!
ロシア領事館中に響き渡るけたましいブザー音が、アーダルベルトの思考を遮る。
直後、
『BM濃度が20を越えました。エリアコールを発令します。住民の方々は避難してください。繰り返します。BM濃度が20を――』
そんな放送が、繰り返し流れた。
……BMとは、『黒い霧(Black Mist)』の略だ。
つまり、この放送の意味とは、
「影胞子の『霧』が発生したか……」
アーダルベルトは溜息混じりで呟く。
そのまま視線をドアの方に向けると、ドタバタと動く足音が聞こえ、黒い影胞子がドアの隙間から侵入し始めていた。
「面倒な」
ここの職員に死なれると、後々困る。
いつもだったら誰が何人死のうが気にしないのだが、今の自分の立場だと、無駄に手札を減らすわけにはいかない。
「チッ」
アーダルベルトは舌打ちしながら、豪勢な部屋から外に出る。
……『道具』になんとかさせることも考えたが、超人である自分が直接事態を把握する方が一番効率が良い。
(ARSSを辞めらせられた直後に、ARSS所属アーベントのメイン業務をやる羽目になるとはね)
アーダルベルトは皮肉げに笑って、影胞子で満たされた廊下に出たのだが、
(この影胞子、なんだ……?)
影胞子の異常により、足を止めざるを得なかった。
――アーベントは影胞子を宿し、影胞子を操る能力者だ。
場合によっては、外気に漂う影胞子を追加のエネルギー源として自身の体に取り込むことだってある。
そして、そんなアーベントの中でもトップクラスとされていたのが、元上級のアーダルベルトだ。
ゆえに、気付いた。
この影胞子は、何かがおかしい。
(僕の目の前で浮き、僕の皮膚に触れている黒い霧は間違いなく影胞子だ。だが、この影胞子は、普通の影胞子とは何かが違う)
何かが、違う。
それだけは感覚的に理解できるのだが、具体的に何がどう『違う』のかまでは理解できなかった。
(一体、何が違う……?)
アーダルベルトは周囲に目を配り、辺りを満たす影胞子にあれこれ思案を巡らす――――ことができなかった。
理由はその視線の先。
周囲を見渡す過程で、アーダルベルトの視線と思考がある一点に固定されてしまったからだ。
「なぜだ……」
アーダルベルトは思わずといった風に呟く。
なぜなら、
「なぜ君がここに居る、月原紅音!!」
広い廊下の先に、ロシア領事館に居るはずのない白い死神が、茶髪の少女を携え、佇んでいたのだから。
「君、ここに侵入することの意味が……」
アーダルベルトはロシア領事館に勝手に侵入した紅音を糾弾しようとするが、途中で気付いた。
たった今に限り、紅音は……いやU.S.A.のアーベントはこの場に居てはいけないどころか、むしろ居なければならないということに。
(『霧』が生じたら、アーベントにはパトロール義務が発生する!その義務に治外法権の土地だろうが関係ない、どんな条約よりも上だと国際法で保障されている……!)
そして、あくまで領事特権で守られているのはロシア領事館のみで、アーダルベルトには領事特権が与えられていない……むしろ、犯罪アーベントだ。
『札付き』は特権どころか人権すらなく、処分は基本的にその場に居合わせたアーベントに委ねられる。
つまり、ロシア領事館内で月原紅音がアーダルベルトを斬り殺しても、法的に何一つ問題は無いのだ。
「ッ!!」
状況を理解したアーダルベルトの行動は早かった。
彼は無言で長い廊下を駆けるが、それは逃げるためでも月原紅音と戦うためでもない。
月原紅音のやや斜め後ろに居る少女――雲林院葉月に触れるため。
触れることこそが、アーダルベルトの固有能力の対象条件だからだ。
ゆえに彼は叫ぶ。
彼の罪を隠し、彼を『鏖殺卿』たらしめた脅威の能力名を。
「狂気解放――『天の支配』!!」
アーダルベルトの固有能力、『天の支配』。
その効果は――触れたアーベントを、彼の意志には逆らえない絶対服従の奴隷にすること。
……二日前、U.S.A.本部に寄ったとき、アーダルベルトはこの固有能力を月原紅音に気まぐれでかけようと思っていた。
だが、月原紅音の身体操作能力と自分の服従能力がせめぎ合った場合、紅音の身体操作能力の方に分が上がるということに、紅音を一目見た時点で気付いたため、二日前も今も紅音には不用意に能力を掛けようとはしなかった。
不発した結果、己の能力がバレるだけで終わる可能性だってあるからだ。
しかし、月原紅音の後ろに居た雲林院葉月には、触れれば問題なく支配下におけるだろうということもわかっていた。
だから、今ここで、紅音ではなく葉月を自分の奴隷にしようと考えたのだ。
(そしたら雑魚を気にする月原紅音相手に対しても勝ったも同然!雲林院葉月の尊厳と命を使えば、月原紅音に対して強力なカードとなり得る!)
勝利を確信したアーダルベルトはほくそ笑む。
雑魚はこうやって使うのだと、口角を大きく歪める。
しかし。
(届けッ!)
雲林院葉月の前に立つ彼女が、後輩に向けられたその害意を見逃すわけがなかった。
「狂気解放――『血躯操作』」
雲林院葉月の前に立つ白い女――月原紅音がボソリとそう囁くと、彼女の両手に赤い血刀が生まれる。
そして、彼女の両手が一瞬ブレた。
直後、
葉月に触れようと向けられていたアーダルベルトの両手が、綺麗にストンと切り落とされた。
トントンと、軽快な音が二回鳴る。
それは、切断されたアーダルベルトの両手が、床のカーペットとぶつかることによって生じたものだった。
「ぐっがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
アーダルベルトは両手首から鮮血を撒き散らしながら、苦悶の叫び声を上げる。
痛みでつい足を止めてしまった彼は、叫びながらも紅音と葉月から勢いよく距離を取る。
「……ッ!!」
アーダルベルトは血を流す自身の両手首を、まるで何かの仇であるかのように睨みつける。
すると、
「……ハァッ!」
断面の皮膚が急に伸び、彼の両手首の流血を抑え込んだ。
手首の皮膚はもう完璧に繋がっており、数秒前に切断された手首とは思えない見た目になっていた。
上級まで駆け上がれた実力を持ってすれば、影胞子操作の能力を応用するだけで、こんなこともできる。
影胞子は肉体を変異させるため、影胞子を操り間接的に自然治癒力を加速させることもできるからだ。
しかし、
(僕が持ってる影胞子の半分近く持って行かれたか……!)
影胞子はアーベントにとってのエネルギー源。
それを大量に消費してしまっては、戦闘に大きく支障をきたしてしまう。
……いや、それ以前の問題か。
傷口を塞いだだけで、アーダルベルトの固有能力『天の支配』の対象条件に必須な両手が失われたことに変わりはないのだから。
「――取引しよう」
劣勢になったアーダルベルトは、頭の中で取引材料になり得そう情報を次々と思い浮かべる。
本当なら嘘でもいいが、嘘を看破される可能性を考えると、真実を口にした方がいいだろう。
「僕のことをほんの少しだけ目を瞑ってくれるのなら、なんでも教えてあげるよ。何が知りたい?あぁ、そうだ、『黒き眠りの森』の――」
「私が受け入れる取引は、一つだけだ」
紅音は小さいがしっかりと通る声で、アーダルベルトの言葉を遮り、そして告げる。
「能力を解除し、投降しろ。そうすれば、『この場での』命は保障する」
単純明快な、降伏勧告を。
「……君は、いや貴様は何もわかってない」
アーダルベルト=シュルツの声色が、急に変わる。
彼を纏う雰囲気も、尊大なものから乱暴でやなものへと一変する。
「俺はこの世でたった一人の超人だぞ。その俺が、劣等種の人間をどう利用としたところで、世の理には何一つ反しちゃいない」
口調も雰囲気も何もかも違う。
そんなアーダルベルトの様子を見て紅音は、アーダルベルトには『二重人格の疑い』が有ったことを思い出していた。
とはいえそんなこと、自分には関係のないことだ。
アーダルベルトの主張も精神状態も、どちらも一切興味はない。
ただ、
「元ARSSロシア本部長アーダルベルト=シュルツ。お前には主に二つの容疑が掛かっている」
告げなけれはならない、いくつかの事柄があるだけだ。
「一つは、私欲のために無辜の人々を鵺に変え、売買したこと。もう一つは、アーベントの死亡記録を偽装し、そのアーベントで人身売買を行ったことだ」
……『鏖殺卿』アーダルベルトと『鉄鋼』キーラは、何も鵺だけを売っていたわけではない。
ARSSのアーベントも奴隷として売っていた。
鵺を求めるような好事家はアーベントも欲する場合が多く、何より鵺の『調教師』が必要なため、死亡記録をでっち上げたアーベントと鵺を合わせて売っていたのだ。
奴隷から抵抗されることはない。
『鏖殺卿』には、アーベントを物言わぬ道具にする固有能力があるからだ。
だから、彼は人を鵺に変え、アーベントと共に命を売っていた。
ただ、金という力を手に入れたいがために。
「……他にも、いくつか容疑はあるが……今言った二つで、お前の首は十分飛ぶ。何人もの命、もしくは命と同等のものを奪ったんだから、当然の報いだろう」
紅音はある種の死刑宣告を無表情のまま口にする。
ただ、その言葉の節々に生じた鋭利さが、彼女の感情を如実に表していた。
「……俺の話を聞いてなかったのか、女?」
アーダルベルトが忌々しそうに舌打ちをする。
「俺と他の連中とじゃ価値が違う。人の法でどう定められていようが、それを俺が守る方が道理に合わな――」
アーダルベルトは自身に陶酔した語りを始めようとするも途中で口の動きをピタリと止め、紅音の後方――雲林院葉月を睨みつけて目を大きく開く。
「なんだ、その眼は」
自分を見る葉月の瞳の色に何を思ったのか、『鏖殺卿』のこめかみに青筋が浮かぶ。
「貴様みたいな低能が、俺をそんな風に見るな」
アーダルベルトは硬い革靴で床を蹴り、床は柔らかいカーペットにも関わらず、ゴンと鈍い音が鳴る。
「月原紅音の後ろに隠れなきゃ、俺の前に立つことすらできない無能が、そんな目で俺を見るな。貴様程度の雑魚、俺が少しその気になれば、一瞬で縊り殺せるんだぞ」
「……」
紅音は目を細めながら言葉を発しようと口を開きかける。
だが、その前に、
「確かに、そうかもしれません」
微妙に、葉月が口を動かす方が早かった。
その葉月の口調は、彼女の強い意思を感じさせるものだった。
ゆえに紅音は口を閉し、彼女の言葉に耳を傾ける。
強い口調のまま葉月は、
「でも、あなたよりは何倍もマシです」
はっきりと、そう断言した。
「……?」
アーダルベルトは首を斜めに傾ける。
「貴様が、俺よりもマシ?」
彼の表情には怒りはなく、純粋に葉月の言葉が理解できなかったようだ。
だから、葉月はそのまま話し続け、
「あなたは強い。私なんかよりずっと、ずっと。そして、確かに私は紅音さんの後ろを付いていくので精一杯です」
彼女は己の信じる正しさを誇れるように、こう告げた。
「でも、私は人を殺したりはしない。あなたみたいに大した理由もなく人を殺すなんてことは、決してしない」
『だから、自分はあなたより全然マシ』と、続きの言葉は口にせず、茶髪の少女は目だけで語った。
葉月が何を伝えたくて、何を言いたかったのか。それを遅まきながら理解したアーダルベルトはあまりの怒りで絶句し、一方紅音はどこか嬉しそうに微笑んだ。
紅音は、葉月の頑張りを知っている。
葉月はいつも懸命で、実際数時間前には、体力を回復させる固有能力『生命奔流』でスポット内に放り出された人達を助けた。
もし、葉月が居なければ、被害はもっと大きかっただろう。
つまり、彼女はアーベントとしての役割を立派に果たせている。
そんな葉月がアーダルベルト相手に引け目を感じる理由なんて、どこにもなかった。
「……ッ!!」
アーダルベルトは歯を砕かんばかりに顎に力を入れる。
弱いくせに自分と対等以上だと言わんばかりに睨みつけてくる茶髪の少女も。
自分のことなんか眼中にないと微笑む白い女も。
今目の前にある全てが、自分を苛つかせる。
「貴様らは、いや君達は一つ思い違いをしている」
感情の昂りがスイッチになるのか、アーダルベルトは乱暴な口調から元の尊大な口調に戻る。
「霧が発生し、君達はこのロシア領事館に侵入する大義名分を得た。だけど、この霧は超人である僕の味方をするということを忘れてるんじゃないかな?」
アーダルベルトはまるで祝福を受けたかのように両腕を広げる。
そして、
「『キメラフレーム』という言葉を知っているか?」
――キメラフレーム。
それは、ほんの一握りのアーベントのみが辿り着ける、固有能力の極致のことだ。
簡単に言えば『固有能力の進化』なのだが、キメラフレームと通常の固有能力との差は凄まじく、内容も規模も段違いに強力になっている。
『キメラフレームは一つの世界を作る』とも言われており、発動したら最後、元の能力にもよるが辺り一面の敵はほぼ確実に死を迎えるため、キメラフレームはアーベントの最終奥義とされている。
しかし、使える者は二十万のアーベントを抱えるARSSでも二十人を下回り、そして何より発動するには一つ条件がある。
それは、
「『キメラフレーム』は、『狂気解放』とは比べものにならないほど、激しく影胞子を消費する。いくら上級といっても、この身に宿る影胞子を全て使っても足りないほどにね」
アーダルベルトはまるで何か演説するよう、胸に腕の先を当て、高らかに語る。
「だから、『キメラフレーム』を発動するには辺りが影胞子の霧に包まれている必要がある。そう、今のように」
アーダルベルトはわざとらしくグルリと周りを見渡す。
紅音達とアーダルベルトが立つ広い廊下は、依然として黒い霧が漂っていた。
「つまり、僕はいつだって『キメラフレーム』を発動できる。そのことを、理解して平伏せ」
……つい先程口八丁で切り抜けようとしたのは、キメラフレーム発動後は影胞子の枯渇でかなり弱体化するからだ。
逆に言うと、後のことを考えなかったら、いつでも殺すことはできる。
そういう意味を込めて、先程の台詞を放ったのだ。
しかし、
「使うのなら、さっさと発動すればいい」
脅しのように放たれたアーダルベルトのその『演説』を、紅音はまるでどうでもいいことかのように流す。
そして、無表情のまま紅音は、
「ただ、一つ言っておく。キメラフレームを使えば、お前は死ぬ。それは覚悟しておけ」
淡々と、逆に脅し返した。
「……ハッ」
アーダルベルトは紅音の脅しを鼻で笑う。
(むしろ、安心材料が増えた)
脅してくるということは、自分の『キメラフレーム』を恐れているということなのだから。
「……」
「……」
紅音は無言でアーダルベルトを見つめ、左右の刀を構え直す。
それに対し、アーダルベルトは呆れたように苦笑いをうかべながら、首を横に振った。
直後、彼は、
「殺せ!!!!!!」
大きな声でそう叫んだ。
すると、紅音達を囲う廊下の壁が崩れ去り、様々な攻撃が彼女達に襲い掛かった。
炎や氷、または閃光など多種多様は攻撃を放つのは、何かしらの武器ではなく、年端も行かぬ少年少女達の掌だった。
(このロシア領事館に、アーベントは僕一人だと言った覚えはないぞ、月原紅音!!)
――アーダルベルトは両手を失ったため、もう二度と新しい奴隷を増やすことはできない。
だが、アーダルベルトの能力『天の支配』そのものが失われたわけではない。
つまり、アーダルベルトが既に奴隷とした者達は未だに彼の支配下にある。
ゆえにアーダルベルトは壁の向こう側に『商品』及び『召使い』として連れてきていたアーベント達を配備し、月原紅音への攻撃を仕掛けさせたのだ。
数にして三十ほどで、彼らのほとんどが下級とはいえ、中級も三人ほど混じっていた。
そんな彼らから一斉放火を向けられたら、中級アーベントだろうとまず助からないだろう。
しかし、それは、攻撃を向けられたのが『普通の中級』だったらの話だ。
「……」
紅音は無言で宙を駆け、両手の血刀を神速で振るうことで、ありとあらゆる攻撃を一瞬にして掻き消す。
それらの攻撃の中には、紅音と同じ階級の中級アーベントの攻撃も複数含まれていたにも関わらずだ。
……月原紅音の階級は確かに中級だが、彼女の経歴があまりにも特殊ゆえに出世していないだけであり、彼女の階級と実力には激しい乖離がある。
実際、数時間前に紅音がスポット内で討伐した何百もの鵺達の中には、通常の中級どころか、上級ですら倒せるかどうかという強さの鵺が何体も混ざっていた。
そんな鵺の集団を軽々しく殲滅してきた月原紅音が、下級と中級による集中放火程度、対処できないわけがない。
――そして、そんなことぐらいアーダルベルトも重々承知だった。
(こんなのは単なる時間稼ぎ。だけど、確実に時間は稼げるはず)
アーダルベルトはそう確信する。
なぜなら、鵺を『確実に殺す』ことと、人を『生かしたまま倒す』ことは別の話だからだ。
(月原紅音は強いが甘い。そんな彼女が『僕に操られている奴隷の兵』を殺せるわけがないし、なんなら後遺症すらも気にするかもしれない)
アーダルベルトは、三十の奴隷達が月原紅音に有効打を与えることなど最初から期待していない。
月原紅音に無辜の人達を向けることで、剣速を僅かでも遅れさせようとしたのだ。
とはいえ、いくら遅くなったとはいえ、紅音の剣速が凄まじいことには変わりなく、瞬く間にアーベント達を峰打ちで気絶させ回っている。
稼げた時間はたった二秒。
しかし、それだけで充分だった。
なぜなら、
(これで僕の方が早く『キメラフレーム』を発動できる!)
――キメラフレームの発動条件は影胞子の霧が発生していること。
それは、キメラフレーム発動するのに本人の持つ影胞子だけでは足らないからであり、外部から別途影胞子を追加で取り込み使用する必要があるからだ。
つまり、キメラフレーム発動直後は、その場から影胞子の霧が一定範囲消滅することを意味する。
(月原紅音が『キメラフレーム』を使えるという話は聞いたことないが、戦歴から考えるに使えないわけがない。だけど、僕が月原紅音のよりも早く『キメラフレーム』を発動すれば、月原紅音は『キメラフレーム』を使えない!)
ゆえに、時間を稼ぐ必要があったのだ。
紅音よりキメラフレームを早く発動すれば、先手を打てるというだけではなく、自分だけキメラフレームを使用できるという圧倒的なアドバンテージを手にすることができる。
だから、
「ハハッ」
勝利を確信し、『鏖殺卿』は優雅に嗤う。
そして、発動する。
超人の彼にのみ許された、変幻自在なキメラフレームを。
「狂気顕現――『支配された小世界』!!」
――キメラフレーム『支配された小世界』。
その内容は、『「天の支配」で奴隷にしたアーベントの固有能力を自身に取り込み、その固有能力をキメラフレームと化すこと』である。
つまり、アーダルベルトには奴隷の数だけ最終奥義の選択肢があるということであり、今回選んだのはその中でもとっておき。
手持ちでは最強の、吹雪を自在に作り出せる奴隷のものであり、キメラフレームへと進化させることで、周囲一キロに渡り、ありとあらゆる水分を一瞬にして氷へ変化させるという氷神の如き能力と化す。
無論。
人体の水分も、例外ではない。
「ハッ!」
氷による死の世界を想像し、アーダルベルトはもう一度嘲笑う。
そして、辺り一面を氷漬けに――
「……?」
アーダルベルトは首をグルリと回し、周囲を見渡す。
有るはずの凍氷はどこにもなく、壁が崩壊した広い廊下が変わらず存在していた。
「――は?」
アーダルベルトは理解できず、思考が空白になる。
だが、頭が真っ白になろうとも、何も変化が無いという事実には変わりない。
つまりは、不発。
彼はキメラフレームの発動に失敗したのだ。
(キメラフレームの発動条件は満たしてたはずだ!なのになぜ……ッ!?)
問題なく周囲の影胞子を取り込み、キメラフレームに必要な量の影胞子は確かに揃っていたはず。
一体、何が……。
「?は?」
アーダルベルトの思考が再び中断される。
なぜなら、彼の全身が急に動かなくなったからだ。
「は?」
アーダルベルトは辛うじてそう声を出すが、彼に出来ることはそれだけだった。
もう二本の足で立つことすらできない。
彼は頭から床のカーペットに勢いよく落ちる。
頭を含めた全身に、衝突による痛みが生じるが、それでも身じろぎ一つ取れない。
(全身の力が入らないってだけじゃない。それより大事な『何か』が壊された!)
何か自分にとって重要なものが、喪失した。
しかし、その肝心な『大事なもの』が何なのかがわからない。
(一体、何が……)
「私は」
トン、と。
アーダルベルトに何者かが近付く足音が、地に横たわる彼の耳に届く。
「相手の心理と行動の全てを読み切るなんて芸当、とてもじゃないができない。そういうのはあくまでリリアの得意分野だ」
その何者かは、身動き取れないアーダルベルトの元に辿り着き足を止める。
「だが、それでも、『キメラフレームを使えば、お前は死ぬ』と言えば、お前は絶対にキメラフレームを使うだろうってことぐらいは予想できる」
一人の女の影が、アーダルベルトを覆う。
そして、その女は――月原紅音はアーダルベルトに向かって手を翳す。
すると、アーダルベルトの全身から『黒い霧』が、まるでスモークグレネードが破裂したかのように一気に噴き出した。
「返してもらうぞ」
紅音はボソリとそう呟くと、辺り一面に広がった『黒い霧』全てが紅音の手の中に集まり…….そして、消え去った。
それと同時にアーダルベルトの意識はプツリと消滅し、その様子を紅音は目視で確認してする。
死んではいない。
今までの悪行を全て明らかにするためには、生かしたままリリアに引き渡す必要がある。
「……」
紅音は調子を確かるかのように手の平を開け閉めすると、気絶したアーダルベルトに背を向ける。
もうこの男に用など無い。
紅音は葉月の方に視線を向ける。
すると、予想通りというか何というか、頭に疑問符でも浮かべているかのごとく首を傾げる後輩少女が居た。
態度があまりにもわかりやす過ぎて、紅音はつい苦笑のようなものを浮かべる。
「……まぁ、何が起きたのかわからなくても無理はない。説明している最中に、ロシア領事館に突撃したからな」
――紅音は今回、ある策を持っていた。
その説明をロシア領事館の前で葉月にしていたのだが、その最中に『突撃許可』が下りたため、説明を中断していたのだ。
「……少し長くなるが、聞きたいか?」
「はい!!!!」
後輩少女はハテナ顔から一転、すごく大きな声で返事をする。
正直、このままだと何が起きたのかすら理解できず消化不良なため、説明が欲しいと思っていたところだった。
返事はもはや噛み付くようで、そんな活力が溢れている葉月を見た紅音は『元気なのは良いことだ』と思いながら、承諾の意を表すためにコクリと頷く。
「なら、まず、ロシア領事館を覆った影胞子の霧のことだが……あれは、私が作り出したものだというのはもう説明したな?では、その続きから話をしよう」
紅音は手の平を上に向け、拳大サイズの影胞子の霧を作る。
「アーベントは影胞子を操る。とはいえ、アーベントの共通能力である影胞子操作では、建物を一つ覆うような霧を作り出すことなど本来不可能だ」
直後、紅音は手を握り締めると、拳大の霧は消滅し、彼女の肉体に吸収された。
「だが、私の固有能力『血躯操作』でも、己を蝕む影胞子を自在に操れる。……影胞子だって、アーベントの私から見れば、身体の一部だからな」
つまり、彼女がやったことは、
「私の『血躯操作』による影胞子操作の精度は、通常の影胞子操作よりも遥かに高い。だから、私はこの建物を影胞子で覆うことができた」
『勿論、その時人には触れないように、注意を払ったがな』と、白い女は軽々しく語る。
「この建物を『霧』で覆った理由は、領事特権で守られたこの場所に侵入する建前を作るためだ。だが、あともう一つ理由がある。それは」
紅音は、顔は葉月の方に向けながら、人差し指を床で倒れているアーダルベルトに向ける。
「そこの男に霧の影胞子を使わせるためだ。……以前何かの時に言ったが、他人の支配下に置かれた影胞子を横から奪い取ることは非常に難しい。つまり、アーダルベルトが取り込んだ霧の影胞子は、取り込まれて尚私の支配下にあったということだ」
紅音はアーダルベルトに向けていた指を下ろして、
「無論、そもそも取り込ませないこともできた。だが、敢えて取り込ませて、私の影胞子でキメラフレーム発動させた。……そうすれば、どうなると思う?」
「ゎ……」
葉月は反射的に『わかんないです!』と返事しかけたが、いくらわからなくても、質問されたのだから考えた方がいいと思い直す。
……。
「……そこの人の能力そのものを、乗っ取ることができる?」
葉月は自信無さげにそう答える。
それに対し、葉月の答えを聞いた紅音は満足そうに頷き、
「大体正解だ。ただ、実際はそこまで上手くいかない。精々、能力のオンオフの機能を制限、もしくは能力を永続的に使えなくさせるぐらいだ」
「……!」
葉月は目を見開く。
紅音が何のために何をしたのか、理解できたからだ。
「キメラフレームという大技を発動させるために、あの男は宙に浮く私の影胞子を取り込んだ。しかし、私の影胞子はアーダルベルトの支配を弾き、むしろアーダルベルトの内側から本人の影胞子と肉体に侵蝕し、機能不全に追い込んだ。だから、奴はもう二度と能力を発動できず、そこに寝転がっている。……私がやったことは以上だ」
「……はー……」
最早、それしか言えなかった。
感嘆のため息しか出ない。
……いや、一つ、気になることがあった。
「紅音さん、質問いいですか?」
「いいぞ、なんだ」
「……質問の前に確認なんですが、キメラフレームって発動するには外部から影胞子が必要で、それはどんな強いアーベントだろうと自前の影胞子では量が足りないからなんですよね?」
「そうだ。だから、アーダルベルトにキメラフレームを使わせるよう誘導する必要があった」
「じゃあ肝心の質問なんですけど……アーダルベルトは紅音さんが放出した影胞子を吸収してキメラフレームを発動しようとしたんですよね?それってつまり、紅音さんはキメラフレームを発動できる量の影胞子を普段から持っていることになりませんか?」
「あぁ、そのことか」
紅音は軽く頷き、質問の答えを口にする。
「そもそも『どのアーベントも追加で霧を取り込まないとキメラフレームを使えない』ってなっているのは、キメラフレームが使えるほどの量の影胞子を常時抱えてしまっては、確実に侵食度がレベル3からレベル4……つまり、鵺になってしまうからだ」
……そう。
影胞子に適性があるアーベントだって、鵺になる可能性はゼロではなく、ある一定以上の影胞子を抱えると鵺になってしまうため、実質的な影胞子の上限があるのだ。
そして、その上限以内の影胞子量では、キメラフレーム発動には決して届かない。
「人やアーベントが鵺になるのは、影胞子が体細胞を突然変異させるからだ。だが、私の『血躯操作』は影胞子による体細胞の変異を直接抑えることができる。……つまり、他のアーベントより多く影胞子を抱えても、鵺にならないというわけだ」
「……なるほどです」
葉月は納得したように頷く。
以前から紅音の持つ影胞子量が他の誰よりも飛び抜けて多いとは思っていたが、それはある意味当然の話だったのだ。
紅音と同じ量の影胞子を持った時点で、紅音以外のアーベントは鵺になってしまうのだから。
「さてと」
紅音は葉月に声をかけながら、携帯端末を取り出す。
上司であるリリア=ウォーカー宛てに短いメッセージを書き込むためだ。
「一先ず、ここの状況を連絡する。……運ばなきゃいけない人達が沢山いるからな」
紅音はメッセージを送信し、携帯端末から顔を上げる。
その視線の先には、アーダルベルトの奴隷『だった』アーベント達が横たわっていた。
しかし、
「……加減して打ったとはいえ、もう起き上がれたか」
一人だけ、自分の足で立っていた者がいた。
「……」
そこに立つのは、青白い髪を腰まで伸ばした華奢な少女。
紅音達の知る由ではなかったが、少女はアーダルベルトの奴隷達の中で最も強く、アーダルベルトが選択したキメラフレームの固有能力の本来の持ち主だった。
その少女はゆっくりと口を開き、
「あなた、お名前、なんて言うの?」
弱々しい声で、そう問いを投げ掛けた。
「……月原紅音」
紅音は少女を見つめ返しながら、誰何の問いに答える。
「ツキハラアカネ……」
華奢な少女は言われた名前を心に刻み込むかのように、口の中で繰り返す。
「……そっちの、あなたのお名前は?」
少女は視線を紅音から葉月の方に移し、紅音に向けたのと同じ問いを投げ掛ける。
「……雲林院葉月」
いつも元気な葉月にしては珍しく、小さい声で返事をする。
「ウンリンインハヅキ……」
先程と同じく、少女は名前を繰り返す。
そして、
「ツキハラアカネとウンリンインハヅキ。あなた達には、感謝してもしきれない」
少女はそう言って天を仰ぐ。
「あなた達のおかげで、私はあの男から――苦しくて辛い毎日から、解放された」
……紅音が手間をかけてまで、アーダルベルトの能力を使えなくしたのはこのためだ。
アーダルベルトの固有能力がアーベントを奴隷にする能力だと、事前にリリアから『解答』を受け取っており、奴隷達を彼の手から解放させるために、アーダルベルトの力を永久的に失わさせたのだ。
「……」
紅音は何と答えたらいいかわからず、無言になる。
対照的に葉月は手をパタパタと横に振りながら、
「『達』って言われても、紅音さんが色々やってくれてただけで、私は何もしてないよ?」
「そんなことない。壁越しで聞いてたけど、あなたがあの男に吐いた啖呵も中々に爽快だった」
華奢な少女は天井から葉月に視線を戻し、ニッコリと微笑む。
そして、その笑顔のまま、
「あなた達から受けた、このご恩は一生忘れません。本当に、ありがとう」
深々と頭を下げた。
紅音と葉月は二人とも目を丸くする。
直後、彼女達も笑みを浮かべて、
「「どういたしまして」」
同じ言葉を、口にした。
……。
「……今から私達は下に向かう。迎えの者がすぐに来るから、少しだけ待っていてくれ」
紅音は必要な情報を少女に伝え、
「こっちの名前は言ったけど、まだあなたの名前知らないや。名前、教えてくれる?」
葉月は気になっていたことを少女に尋ねた。
「わかった。待つ」
まず、少女は紅音の言葉に頷いて答える。
そして、
「私の名前、アンナ=ヴェルデニコフっていうの。『アンナ』って呼んでもらえると、嬉しい」
「アンナちゃんね、わかった!じゃあ、私のことも葉月って呼んでくれる?」
「……あ、日本人ってファーストネームが後に来るんだっけ。わかったわ、ハヅキ」
華奢な少女――アンナは嬉しそうに目を細める。
そして、
「では、またいつか逢いましょう。その時には、助けてくれたあなた達に誇れるくらい凄くなってみせるから」
堂々とした表情でそう宣言した。
その少女を見て、紅音は『強い奴だ』と思い、葉月は『楽しそうな子だな』と思った。
だから、
「楽しみにしてる」
「今度会った時は、ゆっくりお話ししようね?」
紅音と葉月はそう言って、その場から立ち去った。
二人に課せられた任務は、もう終わったのだから。
3
「葉月、今日はお疲れ様」
日が落ちかけ、辺りが薄っすらと暗くなった夕焼けの中で。
赤いスポーツカーから降りた雲林院葉月に向けて、月原紅音はドア越しにそう労った。
今、紅音と葉月はARSS U.S.A.本部の前に居た。
葉月は本部に併設されている寮に住んでるため、紅音はここまで彼女を送ったのだった。
「紅音さんこそ、お疲れ様です」
葉月は小さく頭を下げる。
紅音は少しだけ破顔し、
「今日、葉月は本当によくがんばった。スポットだけでも辛かっただろうに、そのあと『鉄鋼』や元ロシア本部長との戦いに付き合わせてしまった」
「……私、ほとんど見てただけですよ?」
葉月は照れ笑いを浮かべる。
「それでも、あれだけプレッシャー晒されるのはそれだけで精神的な負担になっていたはずだ。なのに、お前は今日一日一緒に居てくれた。それにあの少女……アンナも言っていたが、お前の言葉は中々力が湧いてくるし、何よりスポット内でお前は、自分の固有能力でサポートしてくれていただろ」
「……」
葉月は黙って俯く。
しかし、紅音は言葉を止めなかった。
「だから、今日は本当に助かった。ありがとう。ゆっくりと、休んでくれ」
「…………」
葉月は無言で頷く。
ただその顔は少しだけニヤついていた。
「じゃあ、また明日な」
紅音はそう言って、窓を閉めようとしたタイミングで、
「あ、あの、紅音さん」
「ん、なんだ?」
紅音は窓の開閉ボタンから手を離し、赤い瞳を葉月に向け直す。
「えっと……いきなりなんですけど、紅音さんの端末に、電話掛けたりしても良いですか?」
「……?」
紅音は首を捻る。
葉月の言ってることの意味が、よくわからなかったからだ。
「……どんなことだろうと、電話で聞いてくれて全然構わないぞ。メッセージじゃなく音声でのやり取りの方がスムーズな時もあるしな」
というより、紅音としては、端末の番号を教えた時点でそのつもりだった。
もし、『必要な時だろうが、いきなり電話したらダメな相手』だと思われていたのだとしたら、少し寂しく感じてしまう。
「あ、そういう意味じゃなくて」
茶髪の少女は慌てたように、手をワチャワチャと振る。
「仕事以外のことでも電話していいかな、って、そういう意味で聞きました。はい」
「あぁ、なるほど」
ようやく、葉月の言葉の意味を理解できた。
つまり、葉月は『仕事以外のプライベートの通話もしていいのか?』と尋ねていたのだ。
……確かに、仕事の知り合いに業務以外の連絡をするのなら、事前に確認も取りたくなるだろう。
「プライベートのことでも全然電話かけてくれて構わないぞ。食べ物や趣味の話でも、何でもな」
紅音は、慌ててる葉月に淡々とそう答える。
すると、葉月は、
「よかったぁ」
と言いながら、胸を撫で下ろしていた。
そんな葉月を微笑ましく思いながら紅音は、
「では、もうそろそろ帰る。……また明日も、よろしくな」
「はい、明日もよろしくお願いします!」
「ああ」
その言葉を最後に、紅音は車の窓を閉める。
そして、紅音を乗せた赤いスポーツカーはその場から去って行った。
「……」
葉月は普通の速度で走るスポーツカーを、角を曲がるまで見送る。
見送ったあと、葉月はなんとなく直前の会話を思い出す。
そして、
「ふふっ」
と少女は小さく笑い、自分も寮に帰るため、ゆっくりと歩き始めた。
4
「……ただいま」
ロサンゼルス郊外にあるとある一軒家にて。
その家の主――月原紅音が、自分一人しか住んでいない家に帰宅した。
「……」
玄関から入った紅音は、スポット内での土で汚れた靴をその場で脱ぎ、広い廊下をペタペタと歩いてリビングに向かう。
リビングに到達すると、着替えを含む何もかもよりも先に『あること』をするため、仕事着の黒い衣装のまま椅子の上に座り込む。
そして、一瞬天井を見上げたあと、視線を横に向ける。
視線の先にあるのは、一つの写真。
その写真には、ある男が写り込んでいた。
紅音はその写真をジッと見つめる。
「……一騎」
彼女は写真にポツリと声を掛ける。
それが、彼女のいつもの習慣だった。
「今日の朝出掛けるときにも話したけど、今日はお前の仇を取りに行っていた。ただ、途中で中止したから、そんなに進めれなかったんだけどな」
――彼女は神なんて信じていない。
だから、天国も地獄も信じていない。
だけど、なんとなく、紅音はたまにこうして彼が写っている写真に声を掛けていた。
意味が無いなんてことは重々わかっている。
それでも、やめることはできなかった。
「……お前なら、そんな危ないところ行くなって言うだろう。というか、お前なら絶対『復讐なんかより、紅音の命の方が大事だ』って言うんだろうな」
紅音は無表情でボソボソと囁く。
記憶の中の、一人の男の姿を思い出しながら。
「でも、ごめん。これは私の願望なんだ。お前が望まなくても、絶対に叶えたい、私の願望なんだ」
紅音は申し訳なさそうな顔を浮かべる。
しかし、直後に少しだけ表情を柔らかくして、
「明るい話に変えよう。この前も話題に出したが、最近できた後輩の話だ」
……記憶の中で、彼はよく笑顔で自分の話を聞いてくれていた。
どちらかというと、自分より彼の方が口数多かったけど、自分が嬉しかったり楽しかった話を彼にすると、彼も嬉しそう笑ってくれた。
……恥ずかしい話だが、好きな人の嬉しい話を聞くのは、我が事のように嬉しいということなのだろう。
気持ちはわかる。
自分も、そうだったから。
「私に付いてきてくれるアイツ――葉月には感謝しかない。だって、こう言っちゃなんだが、私はどデカい怪物を秒で細切りにする人間だぞ?鵺の大群と向き合わなきゃいけない上に先輩もそんな奴だなんて、逃げ出しても全然仕方ないし、実際怖い思いをさせてしまったと思う」
紅音は小さく笑いながら話す。
良いことの話なのだから、明るく語る。
「なのに、アイツは私に付いてきてくれた。正直、かなり嬉しかったよ。……私には勿体ないほど良い後輩だよ、葉月は」
紅音は『鉄鋼』を倒した後のことを思い出す。
あの時、葉月が『まだ後輩やめない』という意味のことを言ってくれて、本当に嬉しかった。
「そういえば、今日は鵺以外……『札付き』とも戦った。ハッキリ言って、かなり胸糞悪い奴らだった」
紅音は二人の人間と彼らがやった事を思い出し、眉を僅かに顰める。
「アイツらのせいで、多くの人が死んだ。私の前でも、何人も死んだ。あともうちょっとだったのに、助けれなかったことが、悔やまれる」
紅音はスポット内での出来事を思い出して、眉間の皺を深くする。
だけど、
「それでも、一つ、良かったことを挙げるとするならば、何人かの人達は確かに助けれたことだ。それだけは、胸を張ってもいいのかなって思う」
紅音はロシア領事館で会った華奢な少女のことを思い出す。
少女は紅音に感謝していたが、むしろその少女の言葉で、彼女の方が救われた気分になった。
自分の行動が無駄ではなかったと実感できて嬉しかった。
そう、紅音は感じていた。
だから。
「お前は、どう思う?」
『一騎だったらどう感じるのか』。
それが気になって、紅音は無表情で問いかける。
しかし、返事は来ない。
当たり前だ、ここにあるのは写真だけなのだから。
――彼女は神なんて信じていない。
だから、天国も地獄も信じておらず。
こんな行為、何も意味が無いと思っている。
「……」
『彼ならこういう反応するだろう』。
『彼ならこういう返事をするだろう』。
そういうのは、いくらでも想像できる。
でも、それだけだ。
本当に、それだけだ。
「……」
紅音は瞼を閉じる。
暗闇に中で彼女は、子どものように有り得ない望みをボソリと囁く。
「お前に会いたいよ、一騎」
彼女は神なんて信じていない。
だから、天国も地獄も信じておらず。
ゆえに、彼と再会することはあり得ない。
死後だろうが、永遠に。
――『過去に時間を戻すことはできない』
そんなの、わざわざ口に出して言う必要の無い当たり前の事。
しかし、想うことはやめれない。
だから、彼女は目を瞑るのだ。
彼との日々の記憶に浸るために。
何気なくも幸せだったあの日々を胸に、今日も彼女は微睡みの中に落ちていった。
第一部『邂逅編』
End