第七章 純情
第七章 純情
2034年4月
1
「……この辺りに居たのは、全部殺せたか」
何百もの鵺を一方的に蹂躙した白い女――月原紅音はそうボソリと呟くと、両の手の中に握っていた二本の血刀を消滅させた。
本当に、一方的だった。
紅音の強さは鵺の巣という死地においてさえ圧倒的だった。
危ない瞬間ですら一度も無い。
少なくとも、雲林院葉月が認識できた範囲内では。
「葉月、頼む」
紅音は右手を葉月に向けて差し出す。
その手を無言で取りながら葉月は、
「狂気解放――『生命奔流』」
自身の固有能力を発動した。
先程の戦闘で失われた紅音の体力が、一瞬で回復する。
「助かる」
体力を全快にした紅音は礼を言いながら少女から手を離すが、その間も葉月は返事もせず無言を保った。
単純に、どう声をかけていいかわからなかったからだ。
白く美しい死神である彼女に、どう接していいのか、雲林院葉月にはわからなくなっていた。
あまりにもの、畏れ多さ故に。
(……そもそも、私って必要なのかな)
そんなことまで思ってしまう。
今だって、自分の『生命奔流』で紅音の体力を回復させたとはいえ、元々彼女に疲労があったのかどうかも甚だ怪しい。
だって彼女は、数百の鵺を息一つ乱さず殺し尽くしていたのだから。
そんな芸術品のような完璧さを持つ彼女を、葉月は自分と同じ人間だと思えなくなっていた。
だから、『月原紅音を手助けする』という形でさえ、彼女に関わることはいけないことではないのかと考えてしまう。
それほどまでの畏怖を、葉月は紅音に抱いていた。
「……」
白い女はそんな後輩の少女をジッと見つめている。
その視線に、葉月の体は固くなる。
目の前の美しい人が一体何を思って自分に視線を向けているのか、葉月は一生懸命考えるが答えは出なかった。
そんな無言の後輩を目の前して紅音は口を開き、何か言葉を発しようとしたその時、紅音の眉がピクリと動いた。
「……?」
紅音は口を閉じると、葉月とは全く別の、明後日の方向に視線を投げ掛ける。
その数秒後。
「……外道が」
ボソリと、白い女はそう呟いた。
直後、
「葉月。今からお前を抱えて運ぶから、荷物を前の方で持て」
「……え?」
紅音の変わりように、葉月は混乱する。
「早くしろ、時間がない」
「あ、はい!」
言われた通り、葉月は背負っていたリュクを前の方で抱えるように持つ。
そんな葉月を紅音は軽々しく横向きに抱える。
所謂、お姫様抱っこの形だ。
「ちょっと紅音さn」
「一応しっかり掴んでろ」
紅音は葉月の言葉を遮ると、葉月を赤い繭のようなもので包ませて――『血躯操作』で作った即席の風除けだ――、紅音はその場から音速超える速度を駆け出した。
(……!)
風除けがあるとはいえ、強力なGが葉月を襲うが、紅音には劣るとはいえ、葉月だって立派な異能者のアーベントだ。
この程度で弱音なんて吐いていられない。
葉月は、紅音の黒い装束の袖をギュッと握って耐える。
ただ、その時間も数十秒ほどの短い時間。
紅音は一瞬で速度をゼロにすると、その場で赤い繭を解き、葉月を地面に下ろす。
……葉月はスポットから外に出ている可能性も考えていたが、黒い霧で辺り一面覆われているあたり、まだスポット内のようだ。
しかし、葉月の瞳には、この森林地帯のスポットにあるばすのないものを映していた。
葉月が見た『あるはずのないもの』とは――
2
数十秒前。
月原紅音が、体を硬くしている雲林院葉月に向かって、何か声をかけようとした正にその時。
「……?」
その白い女は、己の超人的な認識能力によって、十キロほど離れた地点に何か巨大なものが投げ込まれたことに気付いた。
「……」
『何か』が投げ込まれたその地点に鵺の気配は無いため、仇の……正確には仇の可能性がある鵺を横取りされた、またはされる心配はない。
とは言っても、本来スポットは紅音以外立ち入り禁止で、スポットの外周部はリリア=ウォーカー主導の下、ARSS U.S.A.本部がスポットを厳しく管理している。
だから、『何か』が投げ込まれるのはあり得ないはずだった。
……。
「……外道が」
紅音はボソリと呟く。
何を投げ込まれたのかが……そして、何を目的に投げ込まれたのかがわかったからだ。
紅音は葉月の方に振り向いて、
「葉月。今からお前を抱えて運ぶから、荷物を前の方で持て」
「……え?」
「早くしろ、時間がない」
混乱している葉月には申し訳なかったが、今は秒単位で時間が惜しい。
紅音は葉月を抱えると、
「一応しっかり掴んでろ」
とだけ伝えて、紅音は出せる限りのスピードで黒い霧が立ち込める森を駆け抜ける。
紅音が走り出してから三十秒後。
白い女は足を止めて後輩を下ろし、二人は『ここにあるはずのないもの』に対峙する。
彼女達の目の前にあったものは、
何十人も収容できてるほどの巨大な風通しの良い鋼鉄の檻。
その檻の中で、何人もの人間が、複数の鵺に追い回されて、食い殺されていた。
「……!」
紅音は刹那の時間で作った赤い血刀で檻の上部を斬り飛ばすと、そのまま一秒もかけずに檻の中の鵺を全て切断し、絶命させる。
直後、紅音は絶叫を上げ逃げ惑っていた人々に向けて、一人一本ずつ彼女自身の血で作った針付きのロープを射出し接続する。
「私達はARSSのアーベントだ!今から応急処置行うから、ジッとしてくれ!」
紅音はパニックになっていた人達全員に届くよう大声でそう呼びかけるが、それで動きが止まったのは半分ほどで、残りの半分はパニックのままだったが、紅音は無理矢理応急処置を始める。
(もうほとんどがステージ3に行っているか……!)
紅音は血のロープを通して、檻の中に居た人達の体を侵食している影胞子を吸い上げる。
……スポット中に漂う影胞子によって既に進行してしまった彼らの浸食度を下げることはできないが、彼らの体に入る影胞子をアーベントである紅音が一瞬で奪い取ることで、これ以上の浸食を防いでいるのだ。
こうすることで、最終ステージであるステージ4への進行……つまり鵺化を対処療法的に阻止できる。
ただそれでもステージ3である彼らが、ステージ4一歩手前の状態であることに変わりはない。
「葉月は彼らの体力を回復させろ!私は傷の縫合を行う!」
葉月は紅音の大声に体をビクリと震わせると、斬られた檻の柵を飛び越えて、檻の中に居る人達の元に駆け寄った。
「助けて助けてぇ……」
「はぁはぁはぁはぁ」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
檻の中の人達は、悪夢にうなされているかのように、蹲りながらボソボソと呟いている。
……葉月は目の前の状況をほとんど理解できていない。
だが、動くことを躊躇ってはいけない状況だということはわかっていた。
葉月が片っ端から人々に触れ『生命奔流』で体力を全快にさせている最中、紅音は自身の血で糸を作ると、その糸は宙を這って一瞬の間に鵺によって傷付けられた人達に進み、その出血箇所を縫合した。
「移動する。檻の上でジッとしといてくれ」
紅音は上半分が吹っ飛んだ檻を持ち上げる。
……その時、まだ錯乱状態から抜け出さておらず、動き回っている人を紅音はロープを通じて気絶させた。
『悪いことをした』と紅音は思ったが、今は速やかかつ安全にこの『霧』の中……スポットから脱出することが最優先。
そうしなければ、更なる死者が出るかもしれない。
紅音は出せる限りのスピードで霧の中を駆けるが、いくら檻の中の人々に繋げている血のロープが命綱代わりになるからと言ったって、特殊能力者アーベントでもない彼らの体に強い負担をかけるわけにはいかなかった。
しかし、檻の人達が居た場所はスポット外周部からそこまで距離が離れていなかったため、二十秒もかからずにスポットの外に出ることに成功する。
「……」
紅音は持ち上げていた檻をゆっくりと下ろす。
その下ろされた檻の中には葉月を含め人間しか居なく、新たに鵺化した者は居ないようだった。
「紅音さん、さっきの一体なんだったんですか!?」
檻に居た人達と一緒に半壊してる檻に乗っていた葉月は、檻から勢いよく降りながら紅音にそう問い掛ける。
しかし、紅音は葉月の質問に答えず、ポケットの中から携帯端末を取り出した。
電波が届かないスポットから出たため、『彼女』に連絡を取ろうと考えたからだ。
だが、紅音が電話をかける段になって、丁度紅音の携帯端末に『彼女』からの着信が表示された。
紅音はスピーカーフォンにしながら、その電話に出る。
その電話の相手とは、
「リリア、こちら月原紅音。隣には雲林院葉月が居る。状況は察していると思う。生存者は二十三名で、応急処置は済ませてある。病院搬送のため、至急こちらに救援を向かわせてくれ」
『既に手配済みです。……十中八九そうだと思っていたのですが、本当にそうでしたか』
「一体何がですか?」
葉月は紅音とリリアの会話に入り込む。
このままだと、葉月だけが理解できないまま、事態が進行しそうだったからだ。
紅音はチラリと葉月の方に視線を向けたあと、携帯端末の方に視線を向け直す。
すると、まるで紅音の視線を感じたかのように、携帯端末のスピーカーから、
『葉月ちゃんは聞いたことない?「ペット用鵺」の噂』
「……え?」
葉月は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
いきなりの話題だったこともそうだが、そんなこと葉月の常識ではあり得ないことだったからだ。
動いてるモノをなんでも襲う怪物である鵺をペットになんてできるわけもなければ、する意味もわからなかった。
『初めて聞いたのね、なら驚くのも無理はないわ。そんなリスキーなこと普通誰もしようとしないもの。……条件を揃えば、不可能ではないとはいえね』
……。
……頭から否定したくなってしまうが、確かに考えてみると、全くの不可能というわけではない。
先程スポット内で紅音が倒したよう数百の鵺は、一匹たりとも決して生捕りに出来るようなものではなかった。
しかし、鵺化した直後で、その鵺がたまたま最弱クラスだった場合は、殺さないよう手加減しながらの捕獲・管理もできなくはないだろう。
実際、設立当初のARSSも鵺の仕組みを解明するため、鵺を捕獲したこともあったと聞く。
だが、愛玩用というのはあまりにもめちゃくちゃだ。
『だけど、その「条件」を整えるのは本来なら不可能と呼べるほど非常に難しいわ。最大の難点は、霧が発生し鵺が確認された時点で、ARSSのアーベントが派遣されること。ARSSの正式名称が『世界警備機関』ってところからもわかるけど、組織としてのARSSの規模は途轍もなく大きい。そんなARSSを出し抜いて鵺を殺す……ことより難易度が遥かに高い捕縛なんてまず無理』
「じゃあ一体どう……!?」
葉月は自身の台詞を最後まで言い切らず、途中で口を止める。
『一体どうやって、ARSSより先に鵺と接触し捕縛するのか』。
その方法に、ようやく気付いたからだ。
そしてそれは同時に、先程のあり得ない光景の答えにもなっていた。
「もしかして、霧の中にわざと人を入れて、無理矢理鵺化させる。それが、ペット用鵺の正体なんですか……?」
『ええ。他の動物でも代用できるはずだけど、同じ条件だと人間の方が鵺になりやすいわ。だから、「彼ら」は霧の中に人を放り込む。そのあと、産まれたばかりの鵺を捕獲し、売り捌くためにね』
「……」
葉月は絶句し、何も反応を示すことができない。
ただ、口を開けたとしても、『狂ってる』としか呟けなかっただろう。
それほどまでに、衝撃的だった。
『言うまでもないことだけど、人を化け物にして売買するなんて非人道的なことを私達ARSSが許すわけない。少なくとも、アメリカ合衆国では今日この時まで行われていないはずだった』
「……『鉄鋼』、か」
今まで黙っていた紅音は、険しい顔でそうボソリと呟いた。
『ええ、そうです。ここ三週間で事件性が低くない行方不明者が急増したことを、つい先程ロス市警が報告してきました。それらに三週間前からこの街に来たとされる「鉄鋼」が関わっているのは間違いないでしょう。……元々「ペットの鵺」の噂は国外の極一部で広まったもので、「鉄鋼」も国外から来た人物です。恐らく、噂の出元の国から来たのだと考えられます』
……本来ならいくらタイミングが被ったところで決めつけるのは時期尚早なのだが、相手はあのリリア=ウォーカーだ。
『完璧なる解答』を有する彼女が口に出す推測はほぼ確実に正しいことを、紅音は経験として知っていた。
「……その行方不明者のリストと、ここに居る人達を照らし合わしたら、ある程度被るんだろうな」
『でしょうね。……そこで紅音さん、質問なんですが、今は「条件」をクリアしていますでしょうか?』
「ああ、『仇討ち』は一旦切り上げたところだ。問題ない」
紅音は間髪入れずにそう答える。
だからリリアは、
『では、ARSS U.S.A.本部長リリア=ウォーカーの名において、終結指令を発令します。月原紅音、「鉄鋼」及びその黒幕を速やかに討伐し、彼らの企み……ふざけたビジネスを完全に阻止してください』
「了解した。確実に、終わらせる」
言うな否や紅音は電話を切り、目を僅かに細める。
そんな紅音を見て、葉月は今更ながらに気付く。
先程からずっと、自分に目配せする時以外、ある一点をジッと見つめ続けていたことに。
3
(やばいやばいやばいやばい!)
カリフォルニア森林地帯のスポット外周部から数キロ離れた木の陰にて、灰色の短い髪の女――『鉄鋼』ことキーラ=アソチャコフは冷や汗を流していた。
(勘が鋭過ぎだろあの女!)
思いっきり視線を感じる。
というか、さっき目が合った。
四キロ以上は離れていたのにも関わらずだ。
(ってか、あたしが投げ込んだ檻に反応するとも思わなかった。件の月原紅音の侵攻地点とは十キロは離れていた場所だから、安全だったはずなのに……!)
――スポットのような深い影胞子の霧の中では、電波が届かない。
そのことはキーラも知っていたため、月原紅音に連絡が入らないはずのこのタイミングを狙って、監視システムを力ずくで突破してまで、月原紅音の侵攻地点から離れたこの場所で安全に『養殖』を行うつもりだったが、完璧に裏目に出た。
一瞬で気付かれ、そしてたったの一、二分程度で『素材』を保護されてしまった。
そもそも紅音の侵攻地点と、キーラが檻を投げ込んだ地点では十キロ以上離れてるにも関わらずだ。
(あれじゃあ、何も回収できない。鵺に成ったのも、もう確実に殺されてる)
鵺の養殖とその回収は早々に諦めた。
今目下の問題はそこではない。
(あの女、まさかスポットから出てすぐにこっちを見てくるとは思わなかった。……あたしは、ずっと檻の様子を見張っていたから、あの女に気付くのは当然だとして、向こうがこんな何キロも離れた存在をピンポイントに気付くなんて、なんつー規格外だ)
しかも、通話をしている最中、隣の相棒に目配せしたりして、キーラから視線を外すことも何度かあった。
その理由は恐らく、
(こっちを見ていたのは、見張っていたわけじゃない。『自分はお前の居場所を知っている』ってことを伝えるためだ)
『素材』を保護した手際といい、あの女の認識能力と身体能力は常軌を逸してるいる。
恐らく、キーラが一目散に逃げ出しても、確実に追い掛けて捕まえる自信があるのだろう。
そしてそれは、ほぼ確実に正しい。
『追いつける』という部分に関してのみだが。
(今目を細めたのも、『これ以上待ってはいられない』って意思表示のつもりなんだろーな……)
……舐められてる。
キーラはそう感じていた。
その気になれば、いくらでも不意打ちを決められただろうに。
(まー、舐めるのも仕方ないか。あの『檻』の出来を見てすぐ後じゃあな)
……本当にそうだとしたら、これはチャンスだ。
相手がこちらの実力を見誤っているということなのだから。
(自分が強いと思ってる奴を叩き殺すのが、また楽しいんだよなぁ)
キーラはついニヤリと笑う。
その様子を、月原紅音も目にしているだろう。
(いいぜ、復讐姫。なんで攻撃せずに誘ってくるのかはわからねえが、その舐めた誘い、乗ってやんよ)
キーラは自身の唇を舐めながら、月原紅音に向けて大きく一歩踏み出した。
4
(何か、来る!)
雲林院葉月の認識能力は、月原紅音のそれには遠く及ばない。
しかし、雲林院葉月も一端のアーベントだ。
故に、自分達の方へ『強い何か』が向かって来ていることがわかった。
その『何か』は進路上にある木々を薙ぎ倒しながら、こちらに向かってくる。
樹木が裂け、吹き飛ばされる音が木霊となって響き渡る。
その轟音の波は段々と大きくなり、その音の主は紅音と葉月の十メートル先で足を止めた。
いや、『足を止めた』ではなく『着弾』したと表現した方が正しいだろう。
なぜならその音の主の足元の地面は大きく割れ、大量の土煙が立ち上がっているのだから。
そんな乱暴にこの場に現れ、未だに晴れぬ土煙の中心に居るのは、灰色の髪を短く整えた、背の高い肌白の女。
伝え聞く、Sランクバッドマークの『鉄鋼』の容姿そのものだった。
「……!」
葉月は驚きで目を見開く。
先程、紅音が『鉄鋼』の討伐指令を受けていたから、近々相対するだろうとは思っていたが、まさかこれほど早く出逢うとは。
「なぁ、アンタ」
『鉄鋼』は驚いている葉月を無視し、その隣に立つ紅音に声をかける。
「アンタさ、月原紅音だろ?聞いていた以上のスペックでビックリしたんだけど、なんであたしに気づいてたのに襲って来なかった?アンタから先手打てただろ?」
『鉄鋼』は紅音を見るな否や、一方的に質問を浴びせかける。
それに対して紅音は、
「……それはただ、降伏勧告したかっただけだ」
「……は?」
「勢い余って殺したら、後々の『掃除』に少々支障が出かねない。だから、降伏しろ。その方が互いに面倒じゃなく済む」
「……舐めてるねぇ」
『鉄鋼』は目元を歪めさながら、楽しそうな笑みを浮かべる。
ある種の殺しの宣言を受けたのにも関わらずだ。
そんな『鉄鋼』に対し言葉をかけようと口を開くのは白い女の方ではなく、
「……なんでなの」
茶髪の若い少女の方だった。
「あ?」
『鉄鋼』の視線が紅音から葉月の方に移る。
葉月に向けるその視線は、先程の愉快げなものから一転、楽しい遊びを妨害された肉食獣のものだった。
しかし、葉月はその視線を臆さない。
怖くても、聞かずにはいられないことがあったからだ。
「なんで、あんな酷いことできるの。金稼ぎのために人を無理矢理鵺にするなんて酷いこと、どうしてできるの!」
「……どうしてって、言われてもなぁ」
『鉄鋼』は気分が萎えたとも言わんばかりに頭をボリボリと掻く。
「あたし以外の奴だって、他種の動植物……牛とか豚を自分達人間と区別して搾取してんだろ?それと同じだよ。あたしはその境界線を『自分』と『人間も含む自分以外の動物』の間に置いただけ。つまり、私にとっちゃあ他人なんざ牛や犬と変わりない。品種改良して売って金にする。勿論、元の品種によって利用の仕方は変わるけどね」
「……!」
『鉄鋼』が滔々と語るその論理に、葉月はつい黙り込んでしまう。
それは納得したからなんて理由では決してない。
あまりにもの身勝手さに、絶句するしかなかったからだ。
「ってかなんであたしは純情小娘の質問に律儀に答えてんだ?本当あたしってお人好しだよなー」
「ふざけないで!」
葉月は怒鳴り声を上げる。
だって、自分は見たのだ。
鵺に追われて、顔を歪めながら必死に逃げる人々を。
鵺に殺された人達を。
そして、人殺しの化け物になってしまった者達を。
……怖かっただろう。
もっと生きたかっただろう。
人殺しなんて、したくなかっただろう。
……見ているだけだった葉月には、想像しかできない。
正しい彼らの気持ちなんて、他人の葉月がわかるわけない。
それでも、あんな悲劇を許していいわけないということだけは、理解できた。
「あなたは、間違ってる。人の命と尊厳を軽く奪うあなたは絶対に!」
「強ければ間違いにならないんだよ、お嬢ちゃん」
葉月の怒りに対し、『鉄鋼』は適当に流す。
どうでもいいことだと言わんばかりに。
そして、葉月は理解する。
そもそも『あんなこと』を軽い気持ちでする人に、『それは良くない』と怒ったところで響くわけがないということを。
「それにしても意外。アンタが雑魚達の命を気にする人間だとは思わなかった」
視線を紅音に視線を向け直した『鉄鋼』に合わせて、葉月も隣に立つ先輩の方に顔向ける。
そこで葉月は遅まきながら、自分だけでなく紅音も怒っていたことに気付いた。
『……外道が』
思い返すと、『檻』に気付いた時、紅音は確かにそう呟いていた。
なら、彼女が今何を思っているのかは、明らか過ぎるほどに明らかだった。
「……なら、私がお前と長く話したくないことはわかるだろう。降伏するかしないのか、さっさと答えを言え。私はあまり堪え性がない方だ」
「……アンタさ、私を舐めすぎだよ、本当に。気持ちはわかるけどね」
『鉄鋼』はこれ見よがしに肩をすくめてみせる。
「あの出来の悪い檻を見たんだろ?アンタも予想してるだろうだけど、あれは私の能力で作ったモンだ」
そう楽しそうに語る『鉄鋼』の皮膚が、唐突にして一瞬で鈍い銀色に変わった。
その変化に葉月は目を見開くが、紅音の表情はピクリとも変わらなかった。
「それを見て私の力量を測ったつもりなんだろうけど、ありぁ私の固有能力『鉄鋼鎧』の本来の使いじゃあない。本来の使い方はこれさ」
『鉄鋼』は親指で自身を――正確には自身の皮膚を指差す。
「『自分の皮膚を、何者にも壊せない最硬の鋼鉄と化す』。これが本来の使い方さ。檻とかの加工物は無理矢理作ったモンで、どうしても強度がかなり落ちちまう。でも、本来の鎧として使い方で傷付けられたことは、アーベント人生通して一度もない。……そういや、この前なんか、この鎧でザコな中級を一方的に殴り殺したなぁ」
『鉄鋼』は両拳を握り締め、ボクシングスタイルを取る。
「だから、アンタの要求に対する私の答えは簡単だ。降伏するわけなんか」
『鉄鋼』は何かを言おうしていたが、台詞を最後まで言い切ることができない。
なせなら、
彼女の全身に、一瞬にして数十の切り傷が生じたからだ。
『鉄鋼』の体のありとあらゆる箇所から、赤い血が吹き出す。
まるで鎌鼬でもこの場に現れたかのようなその現象は、紅音が瞬く間に作り出した二本の血刀によるものだった。
しかし、
「……ははっ」
彼女は倒れない。
数こそは目を見張るものがあるが、どれもこれも浅い傷だったからだ。
「すげえよ。本当にすげえよ、アンタ。私の『鎧』に傷付ける奴なんざ、初めて会ったよ。どこかの上級ですら、擦り傷一つ無理だったんだぜ?」
戦闘において初めて傷を負わされたにも関わらず、『鉄鋼』は本当に楽しそうに笑う。
なぜなら、その上級を含めて生涯で二度目の――いや、もしかしてたら初めての、『自分と戦える者』との出逢いだったからだ。
「あぁ、楽しくなってきた。どうせアンタ、あたしには無理だった『あの域』に到達してるんだろ!エネルギー源はアンタの後ろにある、だからさっさと出し惜しみせずに見せてくれ!そんでもって、全部防いでやるよ!」
『鉄鋼』は興奮のまま大きな声で叫ぶことで、自身の感じる至上の喜びを表現する。
そんな『鉄鋼』に対して紅音は、
「……」
薄く研ぎ澄まされた刃のような視線を、『敵』に注ぐだけだった。
その冷ややか瞳のを携えたまま紅音は、一言、
「裂けろ」
ボソリと、そう囁いた。
直後、『鉄鋼』の全身にある数十の切り傷、及び口から、先程の数倍の量になる血が噴き出した。
「……は?」
『鉄鋼』は掠れた声で呟く。
そしてそれが、『鉄鋼』の意識が保てていられた最後の瞬間だった。
意識を失った『鉄鋼』は、己の血によって作られた血溜まりにボチャンと鈍い音を立てながらうつ伏せに倒れ込む。
紅音はそんな『鉄鋼』に向けて針付きのロープを突き刺して接続することで、『鉄鋼』の状態を調べる。
「……死んではいないか」
紅音は忌々しそうにそう呟く。
そんな紅音を見て葉月は、先程紅音が言っていた『勢い余って殺してしまうかもしれない』という台詞は、技量としての意味ではなく、感情としての意味だったのだと今更ながらに気付いた。
……それしても。
(一体何が、起きたの?)
目の前でのことなのに、葉月にはわからなかった。
確かに、『鉄鋼』が負った傷は浅かったはずだ。
それなのに、数秒後、その傷口からかなりの量の血が噴き出た。
その時間差は一体……?
「……」
紅音は葉月の方をチラリと見る。
すると紅音は口を僅かに開いて、
「私の固有能力『血躯操作』は、私自身の体を好きなように操るというものだ。それは、意のまま自在に動かせるという意味であり、量や体積を変えられるという意味でもある」
そう言いながら紅音は、血で出来た赤い刀を握る右手を自身の胸元まで持っていく。
「この血の刀もそうだ。一メートル大の大きさにしているが、実際に使った血の量は数滴の雫程度だ。……とは言っても、使い終わった後は基本的に浄化して自分の体に戻すから、消費って感覚ではないがな」
紅音は手に持つ血刀の先を、倒れている『鉄鋼』に向ける。
「刀だろうがロープだろうが、私の体に接触している内は『私の身体の一部』であるため自由に操れる。ただし、私の体から離れた場合は十秒程度で『私の身体の一部』から『私の身体の一部だったもの』となり、能力の対象から外れてしまう」
次の瞬間、紅音が握っている刀は鞭に変化し、その鞭は『鉄鋼』の体を巻き取って、紅音の足元に転がす。
「だが逆に言うと、私の体から離れた血でも、十秒までなら自由に操れるということだ。さっきのはそれだ」
「……あ」
そこまで言われて、葉月はようやく紅音が何をしたのかを理解した。
紅音が『鉄鋼』に対してやったこと。
それは、
「傷口から自分の血を僅かに流して、体の内側からダメージを与える。……それが、紅音さんのやったことですか?」
――紅音の刀は、紅音の血でできている。
ならば、その刀で『鉄鋼』の皮膚に傷をつけた際、傷口から己の血を流し込むことも可能だろう。
そして、その『血』はある種の『毒』と化す。
「正解だ。もっと正確に言うなら、体内に小さい刃を数十作り出して、鎧の内側から切り裂いた」
「……そういうことでしたか」
それなら、時間差で二度の出血が発生したことにも説明がつく。
一度の出血は刀によるもので、二度目の出血は体内に生じた刃によるものだったのだ。
「『絶対に傷をつけられない鎧』。確かに戦闘においてかなり強い能力だが、スポット内で同じ能力を持っている鵺を何度か見かけたことある。能力として希少だが唯一というほどでもない。……この手のは、攻撃力を無理矢理引き上げることで対応できなくもないが、最も手っ取り早いのは内側からダメージを与えることだ。手札を複数持っておくと、こういう時便利になる」
紅音は気を失っている『鉄鋼』を自身の血で作った袋で包み込むと、再び葉月を一瞥する。
そして、
「……葉月、まだ続けるか?」
「え?」
「……」
紅音は葉月の方を見ていない。
木々が生い茂る森の方に顔を向けている。
そのまま紅音は、
「今日、お前初めてスポットの中に入った。だが、これで終わりじゃない。むしろ、まだ序の口だ」
淡々と、事務的な口調で語る。
まるで、何も感情を抱いていないかのように。
「そして、今は札付き討伐任務も請け負っている。さっき『鉄鋼』を倒したが、まだ黒幕は居る。長い時間をかけるつもりはないが、コイツと似たり寄ったりのクズだろう」
紅音はそこで一旦言葉を切る。
そして、息を深く吸い込んで、
「だから……これ以上嫌だったら、やめてもらって構わない。これ以上、お前が怖い思いをする必要は、ない」
小さな声で、ゆっくりとそう呟いた。
そんな紅音の声を聞いて、葉月はある事に思い至る。
それは、
(……気付いていたんだ)
『紅音が、自分が彼女に対して怖がっていたことを気付いていた』ということに、葉月は今ようやく気付いた。
……正確には、『畏怖しつつ見惚れていた』のだが、紅音のことをヒトとして見れなくなっていたことには変わりがない。
(私のことなんか、気にしてないと思っていた)
……実際のところ、紅音にとって一番重要なのは、スポット内の鵺の殲滅だろう。
葉月が怯えているかどうかなんて、スポット内では欠片ほども気にかけていなかっただろう。
でも、だからといって、スポットから出て、戦闘が終わった後でも気が付かないとは限らない。
……いや、むしろ、絶対に気付くだろう。
だって、この二週間、彼女はいつだって自分を気にかけてくれた。
この前だって、自分がロシア本部の上級に対して怖がってたときも、慰めてくれた。
そんな彼女が、今の葉月を見て、何も思わないわけがない。
そのことを、葉月は出逢ってからの二週間でわかっていたはずだった。
(……あぁ、そっか)
……雲林院葉月は、スポット内での殺意と憎悪の塊と化していた月原紅音を見た時、これが本当の姿だと思って、それまでの姿は偽りのように感じていた。
でも、違った。
どっちも、本当なんだ。
臆病な後輩を気にかける優しい彼女も。
刃のような殺意を振るう死神のような彼女も。
どっちも本当で、どっちも嘘じゃない。
そんな単純なことに、葉月はたった今気付いた。
だから、『もう辞めてもいい』と言う紅音に返す答えはこうだった。
「全然、大丈夫です!!」
今まで暗かった声から一転、わざとらしさまで感じるほど明るい声を出す。
「まだまだこれからじゃないですか。私、ちょっと臆病かもしれないですけど、それでもがんばってお手伝いしたいです。だから、えっと、これからもよろしくお願いします!!!!!!」
葉月は、初めて紅音と会った時と同じように、目一杯の大声を出す。
……多少わざとらしくなっても元気な方が良いと思っていたとはいえ、想像以上の大声になってしまった。
引かれたりしていないだろうか。
葉月は恐る恐る紅音の顔を伺う。
いきなり大きな声を出された紅音は、葉月の方を見ずに、
「……そうか」
何を考えているか伺わせない無表情で、囁くように呟く。
直後、紅音はいきなり俯いたため、白い髪が彼女の横顔にかかってしまい、葉月から紅音の表情は見えなくなる。
その状態で紅音は、口を小さく開く。
そして、
「ありがとう」
たったそ一言、でも確かに心を込めた感謝の言葉を、口にした。
……。
……言われた後輩――葉月には、今の紅音がどんな表情をしているかは見えていない。
それでも、紅音が今どう思っているのかは、ちゃんと理解できたような気がした。
(――この人のことを、もっと知りたい)
今の紅音の言葉を聞いて、葉月は唐突にそう思った。
紅音が何を感じ、何を想って、復讐に身を投じたのか。
勿論、『死んだ夫のための復讐』というのは知っている。
でも、その簡素な一文以上のことを、葉月は何も知らない。
だから、知りたくなった。
他人のことを思える先輩が、憎悪に染まりきってしまうほどの想いとは一体何なのか、葉月は知りたくなったのだ。
無神経で、図々しい望み。
それはわかってるけれど、それでも知りたくなった。
自分の大好きな先輩が抱いている一番の想いを、どうしようもなく、理解したくなった。
その理由はたった一つ。
己が抱える、純情な想い故に。