二十二話
昇降口で靴を履き替えていると、慧が近寄ってきた。
「昨日はごめんな」
「いいよ。それに別れようって言ったの、あたしじゃない」
「まあそうだけどさ。あの後どうしてたんだ?」
どきりと緊張が生まれた。一瞬で嘘の話を作り、わざとらしくならないように答えた。
「普通に、ぶらぶら散歩してただけだよ。買い物とか図書館で本読んだりとか」
「そっか。一人で寂しくなかったか?」
「全然。普段から一人は慣れてるし」
にっこりと微笑むと、慧も「よかった」と安心した。
「でもさ、どうして別れようって言ったんだよ」
少し探る目つきで、緊張が増した。
「どうしてって?」
「俺は爽花のそばにいたかったのに。すぐ戻って来れたんだぞ? 待っててくれればよかったじゃないか」
身を乗り出して、じっと真剣な眼差しを向ける。動揺しないと拳を固く握り、はっきりと答えた。
「気を遣わせてるんじゃないかなって思って。慧は、いつもあたしに合わせて我慢してばっかりでしょ。あたしを優先して、苦労してるってわかるの。あたしと一緒にいると損ばっかりで、何も得なんかないよ。やっぱり慧は、あたし以外の女の子と付き合った方が」
慧に口を覆われてしまった。無表情で爽花を見下ろしている。
「損とか得とか関係ないよ。俺は爽花に惚れてるんだ。それとも、爽花は俺に会うのが嫌なのか?」
大きく首を横に振った。慧と会うのは楽しいし、常に感謝しているし、王子様の慧に好かれるなど奇跡なのだ。
「嫌じゃないよ。ただ、もし気を遣ってるのなら無理しないでほしい」
俯く爽花を、慧は強く抱き締めた。暖かなぬくもりに包まれて眠くなった。
「俺は、気を遣うし面倒な奴とは口も聞かないし、目も合わせないって決めてるんだ。だけど爽花は癒されて俺の人生にとって、かけがえのない宝物だよ。勝負しようとか言ったけど、そんな気は全然ないから。俺が競ってるのは瑠の方だよ。あっちは相手にしてないけど、こっちは産まれた時からライバル視してる」
しかし、もう勝敗はついていると感じた。慧は穏やかで思いやりがあり優しい態度がとれるのに、瑠はそういった感情が欠けている。
「爽花が誰かに奪われたら、俺生きていけないよ」
どきどきと鼓動が加速していく。うん、と頷くと、ようやく解放してくれた。
四組へ向かう慧の後ろ姿を見つめて、軽く自己嫌悪に陥った。どうして瑠と会っていたと伝えなかったのだろうと罪悪感でいっぱいになった。そういえば、爽花がアトリエに通っていると慧に教えていなかった。他人は絶対に入るのは不可能なため、きっと爽花がアトリエに行っているとは知らないはずだ。そして爽花は、その事実を隠している。あのアトリエは、爽花と瑠だけの秘密場所なのだ。誰にも邪魔されたくないと考えて、嘘までつく自分が嫌いになった。だからといって、もうアトリエには行かないわけでもなく、放課後になると必ず瑠の元へ走った。瑠がまだ来ていないので、隅の机と椅子をイーゼルの近くに移動した。頬杖をして待っていたが、だんだん眠気が襲ってきて、いつの間にか寝てしまった。完璧に熟睡して、うつらうつらしながら目を開けると瑠がいた。
「あれ……? 寝てた……?」
「イビキまでかいてたぞ。女のくせにみっともねえな」
「ちょっと……。いちいちそうやって言うの……」
はっ、とあることを思い出して口を閉じた。以前、瑠は爽花を女扱いしていなかった。けれど今、確かに女と言った。
「あたしのこと、女だってわかってくれたのね」
ぱああと光り輝く笑顔を向けたが瑠は反応なしで、絵画の準備をしている。
「スルーしないでよ」
むっとしてもう一度話しかけたが、瑠は独り言のように呟いた。
「ずいぶんと愛されてるみたいだな。朝早くから抱き合うとか熱々だな。寒い冬にはちょうどいいカイロだ」
見られていたのかと恥ずかしくなって頬が赤くなった。甘い慧のハスキーボイスが胸に響いた。
「あたしたちはカイロじゃないよ。……あたしって、昔から男の子と避けてきたのに、どうして高校生で突然こんなことになってるのかな? 男友だちさえいなかったんだよ? 可愛くもないしドジだし。瑠はどう思う?」
「うるせえな。お前らの話に俺を巻き込むなよ」
相変わらずぶっきらぼうだが、仕方ないと諦めた。瑠にも、慧とどんな時間を過ごしているか教えていない。それぞれ、お互いの付き合い方を知らないのだ。爽花にとって、どちらとの時間が気楽かは、卒業までわからないかもしれない。
うーんと腕を組む爽花のとなりで、瑠はパレットナイフでキャンバスに色を塗り始めた。よく晴れた夏空のセルリアンブルーだ。
「……瑠がセルリアンブルーが好きって、すごく意外だなあ」
「意外って何だよ。俺のこと、だいぶ悪者扱いしてるだろ」
「してないよ。セルリアンブルーって、特別な色じゃない? たくさんの青の中で、一際爽やかなイメージというか。名前もかっこいいし。あたしも、セルリアンブルーの油絵、描いてみたいなあ……」
教えてくれるかな、と期待して顔を覗き込んだが、無表情のままだ。小さく息を吐いて帰ろうと立ち上がった。
「俺もそうだ」
突然、瑠は視線を爽花に移した。驚いて目を丸くしてしまった。
「えっ?」
「セルリアンブルーが特別な色って言っただろ。俺も、一番爽やかな青だって思ってる。綺麗な色だって思う」
瑠の口から綺麗という言葉が飛び出たことが驚きだ。別に衝撃的な出来事ではないが、どきりと心臓が跳ねた。
「ねえ、次に描く絵は、爽やかな花にしてよ。あたし、爽やかに花って書いてサヤカなんだ。想像でいいから」
瑠は横を向いて、抑揚のない口調で答えた。
「どういう絵にするかは俺が決める。油彩は想像で描くものじゃないんだよ。だいいち爽やかな花って、どんな花だ?」
確かに油彩は全て写真のように現実に存在している人物や風景などだ。爽やかな花も種類が多すぎて選べない。
「ほらな。偉そうなこと言うなよ。素人なんだから」
黙った爽花を無視して、またパレットナイフを動かした。話しかける言葉もなく、諦めてアトリエのドアを閉めた。
風呂からあがり休んでいると携帯が鳴った。慧の電話番号で、すぐに耳を当てた。
「なあに? 土日は予定ないよ」
「ごめん。そうじゃなくて、どうしても確かめたいことがあって」
「確かめたい?」
足に力を入れて、携帯も割れそうなくらい固く握った。どういった内容でもうろたえないと身構えた。
「あのさ、俺に何か隠してない?」
ぎくりと冷や汗が流れた。風呂で温まった体が、一瞬で凍り付いた。
「隠してなんかいないよ。何を隠すのよ?」
「朝、やけに緊張してる顔してたからさ。疲れてるのかな? って最初は考えたんだけど」
慧は心を見透かす術を知っているのか。ははは、と苦笑しながら、わざとらしくないよう答えた。
「ドラマで寝る時間減っちゃって。寝不足だよ。だめだよねえ」
「そっか。疑ったりしてごめんね。……大好きな爽花に嘘つかれたりしたら俺すごく悲しいから、隠しごとはしないって約束してくれる?」
「もちろんだよ。あたし嘘つきには絶対なりたくないもん。心配しないで」
「安心したよ。じゃあお休み。寝不足しないようにね」
そうだね、と言う前に、一方的に切られてしまった。また罪悪感で心が汚れた。慧に隠しごとなど嫌だが、アトリエでの瑠とのひとときはバラしたくない。バレたら二度と行くなと止められるのは、すでにわかっている。あの空間は爽花の特別な場所で、堪ったストレスをすっきりと解消できる大切なところなのだ。アトリエが消えたら、常に息苦しい毎日しか送れなくなってしまうのが怖くて仕方がない。また疑われたらどういった嘘で逃れようかと無意識に考えていた。




