二十一話
約束の日は、すっきりと晴れた空になった。走って図書館に行き、壁にもたれかかっている慧を見つけた。
「まさか来てくれるとは思わなかったよ」
「行くって言ったんだから、必ず行くよ。あたしは裏切ったりする性格じゃないもん」
「そうだよな。ありがとう」
苦笑しながら慧は髪に触れた。突然、瞼に涙が溢れた。ぼろぼろと頬を伝って地面に落ちていく。
「ど、どうしたんだよ」
慌てて覗き込まれ、爽花は首を横に振って呟いた。
「わからない……。わからないんだけど、何だか悲しくなっちゃって……」
止めたくても、後から後から流れていく。ドジな姿を、さっそく晒してしまった。
心の中に、慧の辛さが伝わった。すぐ手の届くところにあるのに大好きな爽花がもらえないという空しさが涙に変わった。
「あたし、慧のこと嫌じゃないからね。勘違いしないでね。大切な人だって、いつも思ってるから……」
弱弱しく言うと、慧は嬉しそうに微笑んだ。ほんの少し瞳が潤んでいた。
「ありがとう。爽花が奪われないように頑張るよ。絶対に諦めない」
無意識に、爽花の方から腕を伸ばして抱き付いた。もちろん慧も抱き締めてくれた。
「俺、欲しいものがもう一つ増えたんだ」
耳元で囁やかれて、はっと涙が止まった。怖いという焦りが生まれた。痛くて苦しくて勇気がいる、女性しか味わえない大変なことだ。やはり慧は本気で爽花と繋がるつもりだ。そのまま首を縦に振ってもいいと考えたが、体が動かなかった。胸を占領している特別な問題が、頷くのを拒否している。微かに震えている爽花を、慧は力強く抱きすくめた。背が高いため抱き合うと、ちょうど心臓の近くに爽花の耳が当たる。どきどきという慧の速い鼓動が、うっすらとだが感じる。
「……こうしてると、すごく安心するよ。これって、母親の腹の中にいた時と同じなんだろうな。不思議だけど……」
照れて全身が燃えた。母親という言葉で緊張して頭が真っ白になる。しかし慧の携帯が鳴って、柔らかな雰囲気は消えた。ぶっきらぼうな表情で携帯を取り、不満な声で答える。
「何だよ。俺は忙しいんだよ。お前が行けよ」
また瑠に画材を買えと頼まれたのだろうか。かなり不機嫌な様子だ。
「いいよ、行っても」
無意識に爽花は囁いた。えっ? という慧の視線で、もう一度繰り返した。
「用があるなら行っていいよ。いつだって会えるし。今日はこれでお別れにしよう」
意外だったらしく、慧は動揺して後ずさった。
「でも俺は」
「ほら早く。遅くなっちゃうよ」
作った笑いを見せて、手を横に振った。慧は小さく深呼吸して、固い口調で瑠に答えた。
「……しょうがないな。今から行ってやる。でもこれが最後だからな」
一方的に電話を切って、ごめんな、と謝ってから慧は走って行ってしまった。どうして、と背中に書いてあったが無視をした。
はっきり言って、このまま一緒にいるのがしんどかった。絶対にこのデートも失敗に終わると予想していた。いきなり泣いてかっこ悪い姿で始まったということは、最後までかっこ悪い爽花でいるに違いない。これ以上慧に迷惑をかけてしまうのは気が引けた。
慧と別れて、すぐに学校へ向かった。休日なので中には入れないが、瑠に会えるかもしれないと期待していた。校門の前でうろうろと待っていたが、残念ながら一時間以上経っても来なかった。だめか、とため息を吐いて、アパートへの帰り道をぶらぶらと歩いた。けれどこのままアパートにいるのはもったいない。天気もいいし、少し寄り道をしようと思いついた。くるりと後ろを振り返って、知らない場所を探してみた。しばらくして大きな公園に辿り着いた。子供たちが遊んでいて賑やかで、とても嬉しい気分になれる。そして視界の端にある人物が映って、どきりと心臓が跳ねた。隅のベンチに瑠が座っていた。鉛筆でスケッチをしているが、遠いところにいるので何を描いているかはわからない。ゆっくりと背中に回って近寄り、集中している瑠に声をかけた。
「今日もご苦労さんだね」
勢いよく顔を上げて、すぐに爽花の方に目を向けた。
「お前……。いきなり話しかけるなよ」
「なにスケッチしてるの?」
「うるせえな。お前には関係ないだろ。馴れ馴れしくするな」
確かに友人でもないし、同じ趣味の仲間でもない。けれど赤の他人でもないはずだ。素早くとなりに腰かけて、距離を狭めた。
「あの薔薇の絵あたしにちょうだいね。アトリエに置きっぱなしとかもったいないことしちゃだめだよ」
「どうしてお前にあげるんだよ。金取るぞ」
弟は中華料理店で七〇〇〇〇円も払ってくれたのに、兄は逆に巻き上げるらしい。本当に正反対だ。
「いいじゃない。部屋に飾りたいのよ。額はお小遣い稼いで買うから」
だが瑠は首を横に振って、じろりと睨んだ。
「部屋に飾りたいなら自分で描けばいいだろ」
「あたしが描けるわけないでしょ。勉強もしてないし才能もないし道具もないし」
そこまで言って口を閉じた。あることが頭に浮かんだ。
「あたしに絵を教えてくれないかな?」
甘える表情で手を合わせて、だめかなあ、と視線でも伝えた。
「俺がお前に絵を教える? どうしてそんな面倒くさいことしなきゃなんねえんだ」
図々しいのはわかっているが、せっかくそばにいるのだから、ちょっとは聞かせてほしい。
「教えるというか、油彩ってこういうものっていう説明だけでいいよ」
「お断りだ。独学だ独学。人に頼ろうとするな」
完璧に突き放されて、むっとした。
「あーあ! 慧だったら優しく教えてくれるだろうな。夏休みの宿題も手伝ってくれたもんな。食事だって連れて行ってくれたし、お金なんかいらないよって笑ってくれるだろうな。ああやって人に親切にしてるから人気者になれるんだよなあ。有名人になりたいなら、ああいう態度とらなきゃだめだよなあ」
「俺は人気者にも有名人にもなりたくないんだ。邪魔するな」
慧の名前を出しても効果は得られなかった。悔しくなって空を仰いで、独り言が漏れた。
「いい天気……。毎日こうやって晴れてればいいのに。青空って癒される……」
「そうだな。自然の青は癒される」
まさか返事が来るとは思っていなかった。しかもかなり柔らかな口調だ。
「……ねえ、瑠の好きな色って何色?」
ふいに疑問が沸いた。無視をせず、瑠は即答した。
「セルリアンブルー……」
「セイロガン?」
「セ、ル、リ、ア、ンだ」
言いながらスケッチブックに「セルリアンブルー」と書いて爽花に渡した。
「セルリアンブルーなんて聞いたことないよ。どんな感じ? 水色っぽい青?」
「雲一つない、よく晴れた夏空の色だ。俺がよく使うのはセルリアンブルーだ」
爽花と好きな色が同じだったとは驚きだ。
「ふうん……。黒とか灰色とか、暗い色が好きだってイメージだったよ」
「黒と灰色は絶対に使わないし買わない。特に黒は他の色と混ざらないし、一度塗ったら変えられない色だからな」
白薔薇の絵も、暗い色はほとんど使われていなかった。光輝く純白と、生き生きとした緑だけが塗られていて、とても綺麗だった。
「あたしも青が好きなんだ。名前に爽やかって漢字が入ってるから、爽やかなものが大好きなの」
けれど瑠は黙って、またスケッチを始めた。これ以上ここにいても仕方ないと諦めて、アパートへ帰ることに決めた。




