5-6 緊急事態なの
そこは、暗闇としか表現できない場所だった。
「あいたたた……」
巳白はそう言って身を起こした。 そして、片腕と両翼でしっかりと胸に包み抱いていた子供に向かって声をかけた。
「……大丈夫か? 痛いところはないか?」
巳白の声を聞いて、男の子は急に我に返り、泣き出した。
「うぇえええええん」
「あ、おいっ? どこか痛いか?」
巳白が慌てて問いかける。
「お目々がみえない〜〜」
男の子はそう言った。
「目?」
巳白はピンときた。 この落ちた穴はかなり深く、しかも途中で曲がりくねりながら落下したため、地上の光が全く届かない。 幸い巳白はこの暗闇でも翼族の血のせいか見えない事はない。 だが男の子はきっと、真っ暗闇で何も見えないのを目が見えない、と言ったのだ。
「だ、大丈夫だ。 真っ暗なだけだから!」
巳白は男の子の頭を撫でた。
「だって……」
と、男の子は泣いていたが、急に泣くのをやめた。
「……おほしさま」
泣くのをやめた男の子はそう言った。
「星?」
巳白は首をかしげた。
急に男の子の手が巳白の顔に触れる。 いや、目をつかもうとした、という表現の方が近いかもしれない。
「おうっと」
巳白は慌てて顔をそらす。 そこで気づく。
「ち、違う。 これはお兄ちゃんの目。 おめめ」
「お目々?」
巳白も気づいていなかったが、この暗闇の中で巳白の瞳は仄かに光を放っていた。
「とってもきれいだよ?」
男の子は感心したように言う。 巳白の瞳がとても美しかったのだろう、すっかり泣いていた事すら忘れている。
「ときどき、ぴかぴかって、なくなる」
――あ、まばたきか。
巳白は微笑んだ。
「よし、良い子だな。 痛いところはないか?」
「うん。 ぜーんぜん」
元気そうに男の子は答える。 巳白はその子の視線がまっすぐ自分の瞳に注がれているのを強く感じた。
「それじゃ、おうちに連れて行ってやるからな」
「うん!」
男の子は疑うことなく頷いた。 そして言った。
「おにいちゃん。 ありがとう」
巳白は少しためらった。
それは――人間からの、無垢な感謝に慣れていないせいだったろう。
巳白は周囲を見回した。 全く光を感じない。 冷たい岩肌がごつごつと連なり、鍾乳洞のようだ。 水が天井からしたたり落ちている場所もある。 そしてどこへ続くとも分からない道が前後左右に延びている。
「落ちてきた所は……と」
巳白は頭上を見た。 高い天井の所々に穴が開いている。 いったいどの穴から落ちてきたのかは全く見当もつかない。 飛んでいって一つづつ、確認するしかなかろう。
巳白は男の子を抱いたまま立ち上がった。 が、思いがけず翼に激痛が走った。
「――っ!」
巳白は思わず顔をしかめた。
「おにいちゃん?」
男の子に回された手に力がこもったせいで、男の子は不安そうに尋ねた。
「――あ、だ、大丈夫、大丈夫」
巳白はつとめて明るく言った。 巳白は落下の衝撃でひどく翼を痛めていた。
だから歩いて別の出口を探すしかなかった。
次の日、リトは起床前に女官長からたたき起こされた。
「リト、リト!」
かなり切羽詰まった口調だった。
「にょひゃんちょお……?」
リトは寝ぼけ眼で目を覚ます。
「ええ。 リト。 ねぇ、ラムール殿がどこに行かれたかわからない? 緊急事態なの」
「……は? えぇと」
「4階の居室はあなた以外は入れないでしょ? ねぇ、今から入ってラムール殿がいらっしゃらないか確認して欲しいの。 ほら、起きて、着替えて」
女官長はリトをに無理矢理ベットから引きずり下ろしてせかす。
「あっ、は、はい……」
リトは言われるがままパジャマを脱いで着替える。
女官長はリトが着替え終わるのも待てないようで部屋の中をウロウロしては、窓からまだ暗い外に視線を向けてはため息をついていた。
「どうかしたんですか?」
着替え終わったリトは女官長に尋ねる。 ところが女官長は「ラムール殿の居室へ」と言ってリトを連れ出す。 リトの言葉なんか耳に届いていないようである。
リトは女官長とともにラムールの居室に向かう前に事務室にも立ち寄ってみるが、ラムールの姿は見えない。 そのまま階段を上り、居室の扉の前に立つ。
「さぁリト」
女官長がせかす。 この扉はラムールが第三者の侵入を防ぐために科学魔法がかけてある。 女官長が扉を開けても中には入れないのだ。
リトは扉をノックする。
返事はない。
女官長の顔を見ると頷く。
「失礼します」
リトそう言ってノブを回す。 扉はいつものように開き、中はラムールの居室が広がっている。 月明かりが窓から差し込みラムールのベッドと床を照らしている。
そこには全く、気配はない。
「ラムール殿、いらっしゃいますか?」
リトより先に女官長が部屋に入ってあたりを見回す。
リトも後からついていく。
しかし部屋はしぃんと静まりかえり、そこにラムールがいないのは明らかだった。
ラムールが飼っているモモンガ犬も猫鳥もいない。
「ああ……ラムール殿、巳白が、巳白が大変なのです、いらしたらどうか出てきて下さい!」
女官長が呼びかける。
――巳白さんが?
リトが驚いて女官長を見る。 女官長はラムールがどこからか出てこないか辺りを再度見回し――がくりと肩を落とした。
「女官長!? 巳白さんがどうしたんですか?」
リトが詰め寄る。
女官長は側にあったソファーに倒れ込むように座る。
「女官長! 大丈夫ですか?」
「あ、ええ、私は大丈夫よ。 ……どうせ数時間後には分かってしまう事なんですけどね、今日、巳白がスン村に拘束具を返しに行ったのは――」
「知ってます。 それで、巳白さんがどうしたんですか?」
女官長は頷いて、震える声で続けた。
「――4歳の男の子を連れて、消息を絶ちました」
「ええっ?」
リトは息をのんだ。
「でっ、でも、どうして?」
「それはこっちが聞きたいのよ、リト。 場所はイルフ村の側でなのよ」
「イルフ村? どんな状況だったんですか?」
「かなり悪いわ。 昨日、イルフ村の家畜がことごとく何者かに食い殺されていたらしいの。 そしてそれが起こったすぐ、巳白が近くの山道にいたらしいの。 すぐ捕獲されて村へ連れて行かれたらしいのだけど、その途中拘束具を引きちぎって親と山菜採りに来て遊んでいた子供を連れ去った、と報告がきているの」
女官長は一気に言うと、深く息を吐いた。
「翼族の血を引く者が子供を連れていなくなった、これはやや危険な事だと思われているの。 目撃された状況だけでは襲った、とも言えるし、助けた、とも言えるのよ」
「助けた?」
リトは尋ねた。
「翼族はね、覚醒しない限り子供には優しいのよ。 だから明らかに襲ったのでなければ、報告は翌日の日没まで待って良い事になっているのよ」
――報告?
「ラムール殿がいらしたら彼が保護責任者ですから報告はしなくて良いのですが……」
女官長は頭を抱えて、リトは首をかしげた。
「あの、女官長。 報告って、誰にですか?」
「翼族委員会に、です」
翼族の血を引く者が関与しているのだ。 それは当然であろう。 でも、でもしかし。どうしてそこまで警戒するのか。
女官長はリトの顔を見た。 そしてリトが不思議に思っている事を敏感に感じたようだ。
「翼族委員会が調査するとなると、巳白もたたでは済まないでしょう。 それに彼らは状況によってあらゆる権利を行使してくるでしょう。 ラムール殿がいらっしゃらないままでは、リトや弓、あなた方は勿論、ここの女官すべてが委員会で検査されてもおかしくはありません」
「検査? どんな検査ですか?」
リトは尋ねた。 女官長は厳しい顔つきで答えた。
「人を人とも思わない検査です」
女官長は覚悟を決めたように立ち上がるとメモ帳を取り出し、事の事情を記してラムールのテーブルの上に置いた。
「――今日の日没がタイムリミットです。 それまでに見つからない場合は今この国に来ているあの二人に報告しなければなりません」
なぜだか、リトも本能的に嫌な予感がした。
「女官長! この事は誰が知っているんですか?」
「白の館では、私とリト、そしてボルゾン軍隊長です。 ボルゾンは数名の兵士と夜通し検索にあたっています」
「弓は!?」
「ボルゾンが知らせに行きました。 おそらく彼女達も探しに行っているでしょう」
リトはきびすを返して居室を飛び出した。 慌てて女官長が後を追う。
「リト!」
リトは階段の一番下で立ち止まり振り返って言った。
「私も探しに行きます! きょうの学びは欠席します! いいでしょう? 女官長!」
女官長は一瞬言葉に詰まった。
「行ってきます!」
リトは女官長の返事も待たずに駆けだした。