夏の夜の思い出
もう俺たち、元に戻れない。
吹奏楽部恒例、四泊五日の夏合宿が今年も始まる。
しかし、あっちぃなー。
今年も例のごとく楽器の搬出を手伝って、学校から千葉の勝浦にあるホテルへ貸切バスで移動する。一年生たちは初めての合宿にそわそわしていて落ち着かない様子だけど、強豪校出身の岩本は中学のころも合宿があったらしく、妙にこなれた顔をしていた。
宿舎に着いて、搬入を終えると、早速各編成に分かれて練習が始まる。個人練、パート練、木管合奏、全体合奏。とにかく、吹いて吹いて、吹きまくる。
俺的に去年と違うのは、練習場所だった。A編は人数が多いから、ホテルの中でいちばん大きな宴会場を使う。でも今年、俺たちB編が使うのはその隣にある中くらいの宴会場。木管合奏になると、さらに薄い壁で区切られたいくつかの宴会場のひとつを使う。
で、その壁がまた薄い。木管合奏をしていると、隣からC編の音が聞こえてくる。いや、壁薄すぎだろ。
――川瀬の音。すぐわかる。
練習中、講師の先生から指導を受けていても、つい隣の音が気になってしまう。だめだ、集中しなきゃと思うのに、ふとした瞬間に耳がそっちへ引っ張られる。
休憩時間、同じB編の同期、西野に話しかけられた。
「川瀬と同じ部屋だよな? 合宿中は絶対喧嘩すんなよ。周り、絶対気遣うことになるし」
……うっ。わかってるよ。わかってるけど、そうやって改めて言われるとちょっと刺さる。
「さすがに合宿中は喧嘩しないから! 大丈夫大丈夫!」
「ほんとかよ。まあ、俺は違う部屋だからなんだっていいけどさ」
西野は本当に正論で刺してくるから、何も言えない。同じ編成になった当初はちょっと不安だったけど、だんだん音も合うようになってきたし、お互いの扱い方もわかってきた感じがする。相変わらず省エネだけど、やるときはちゃんとやるし、井原先輩も岩本も最初よりぐっと合わせやすくなった。B編なりに、ちゃんと形になり始めている気がした。
一日中吹きまくって、へとへとになった俺たちは、夜になってようやくホテルの部屋へ戻る。
あーー、和室の匂いする。
フルートパートで六人一部屋。三年の角野先輩と、二年は川瀬、畠山、俺。そこに一年が二人。去年より少しだけ気楽な顔ぶれだし、集団生活ってだけで妙にテンションが上がった。
「……っしゃあ!!!!」
肝心の布団の場所も、じゃんけんで決めて見事川瀬の隣を陣取った。
さすがに一日中ずっと練習して、みんな布団に入るとすぐ眠りについた。和室には小さな寝息がいくつも重なっていて、テレビも消えた部屋は、昼間の騒がしさが嘘みたいに静かだった。俺も、すぐに眠ったはずだった。
……まだ真っ暗だから、朝じゃない、よな。
ぼんやり意識が浮かんだのは、足元に何かが触れたからだった。布団の中で、ゆさ、ゆさと小さく揺れる感触。たぶん、川瀬の足だ。なんなんだこれ。
……もしかして、俺のこと誘ってる?なんて、そんなわけないか。
だって、川瀬は静かな寝息を立てて眠ってる。少しだけ顔を向ける。暗闇に目が慣れてくると、隣の布団で眠る川瀬の輪郭がうっすら見えた。力の抜けた顔。無防備な寝顔。起きてるときよりずっと幼く見える。
……可愛い。ほんとに、可愛い。そう思った瞬間、眠気が一気に遠のいた。
少しだけ、触ってみてもいいかな。いや、だめだろ。でも。こんなふうに隣で寝てるなんて、たぶんそう何度もあることじゃない。
――キス、してみたい。
ほんの一瞬だけなら、バレないかもしれない。
でも、もしバレたらどうする。引かれるかもしれないし、今までの全部が壊れるかもしれない。部活も、合宿も、その先も、全部気まずくなるかもしれない。
いや、でも。最近は抱きついてもそんなに避けられないし。それに、俺たち、たぶん……そこまで考えて、もう止まれなかった。
そっと身を起こして、川瀬の方へ近づく。みんなを起こさないように息を殺して、ほんの一瞬だけ、触れるみたいに唇を重ねた。
……やばい。
本当にしちゃった。
思っていたよりやわらかくて、その一瞬だけで心臓がありえないくらい跳ねる。
「……んっ」
小さな声がして、はっとする。やばい。川瀬がゆっくり目を開ける。
「……ごめん」
反射的に、囁く。周りを起こさないように、声はかすれるくらい小さい。
「……ん?」
まだ寝ぼけているみたいな顔だった。
そのぼんやりした表情が、余計にだめだった。気づいたら、もう一度、今度はさっきよりほんの少しだけ長く唇が触れていた。
「……え」
その小さな声さえ、ひどく近い。
やめなきゃと思うのに、離れられない。蕩けた顔の川瀬が目の前にいるってだけで、頭の中が真っ白になる。たまらなくなって、もう一度。また触れる。
「……っ?!」
頭の中が、一瞬でぐちゃぐちゃになる。……え。なに、これ。川瀬が深くキスを返してくる。俺、こんなのしたことないのに。もしかして、川瀬って意外とこういうの慣れてるんだろうか。……なんて、余計なことを考える余裕がないくらい、気持ちいい。
こんなの、想像してなかった。いや、正直ずっとキスしたくてたまらなかったけど、実際にそうなるなんて思ってなかった。
すぐ隣ではみんなが寝てる。少し動けば布団の擦れる音もする。こんな状況で、こんなことが起きてるなんて、全然現実感がなかった。
でも、ひとつだけははっきりわかった。川瀬は、俺を拒まなかった。それが、どうしようもなく嬉しくて。
そっと川瀬の布団の中に入り込んで上から覆いかぶさる。狭い空間の中で、互いの体温が近い。少し触れるだけで心臓が跳ねる。何度も確かめるみたいに、唇を重ねる。
「……川瀬、好きだ」
やっと、それだけ言えた。ずっと前から喉の奥に引っかかっていた言葉が、ようやく形になった気がした。川瀬は少しだけ目を細めて、まだ眠たそうな顔のまま、小さく頷いた。
「……うん」
たったそれだけ。でも、その一言で、胸の奥がいっぱいになった。
夏の夜の、誰にも知られていない布団の中で。
俺たちはやっと、お互いの気持ちを確かめた。
一日中、吹いて、動いて、笑って、気づけばもう限界で。自分も、すぐに眠ったはずだった。
顔のあたりに気配を感じる。夢なのか現実なのか、まだちゃんとわからないまま、微かな体温と、知ってる匂いが近づいてくる。
橋本だ。
そう思った瞬間、ほんの一瞬だけ、やわらかいものが触れた。
「……んっ」
そこで、ゆっくり目が開いた。真っ暗な部屋。
目が慣れるまで輪郭しかわからない。でも、すぐ目の前にいるのが誰かは、考えるまでもなかった。
「……ごめん」
囁くみたいな声。たぶん、橋本も相当焦ってる。何が起きたのか理解するのに、一瞬だけ時間がかかる。でも、さっきの感触が唇に残っていて、そこでようやく、ああ、と思う。
――今、キスされたんだ。
驚くはずだった。避けるべきだった。そういうのは全部、頭のどこかではわかっていたのに、不思議と嫌だとは思わなかった。
むしろそんなことをしたのが、ひどく橋本らしい気がしてしまった。勢いで踏み越えるくせに、踏み越えたあとでちゃんと怖がるところまで含めて。
「……ん?」
まだ少し寝ぼけたまま、そんな曖昧な声しか出なかった。すると橋本は、たぶんそれを拒絶じゃないと受け取ったんだと思う。もう一度、今度はさっきより少しだけ長く、唇が触れた。
「……え」
やっと声になったのは、それだけだった。でも、その声にも、たぶんちゃんとした拒否の意味はなかった。自分でも、びっくりするくらい自然に、それを受け入れてしまったから。
橋本の唇がまた触れる。短く、確かめるみたいに。そのたびに、胸の奥がじわじわ熱くなる。
ずっと近くにいて、ずっと気になっていた相手に、こんなふうに触れられている。そう気づいた瞬間、胸の奥にあった何かが、音もなく崩れた。
止めなきゃ、と思う。でも、この人なら。思わず橋本のキスに応えたくなって、薄く口を開いて深く口付ける。
「……っ?!」
橋本が動きを止めて目を見開く。自分からキスしてきたくせに。
橋本が布団の中に入ってくる。狭い。暑い。近い。
でも、嫌じゃない。嫌じゃないどころか、少しだけこの熱が嬉しいと思ってしまう自分がいる。
暗い布団の中で、顔が近い。橋本の呼吸が乱れているのがわかる。そんなふうに必死になってるのも、少し可愛いと思ってしまった。
「……川瀬、好きだ」
その一言で、胸の奥がきゅっと縮む。
ああ、やっぱりそうなんだ、と思った。なんとなく、そうなんだろうとは思っていた。橋本はわかりやすいし、自分だって、気づかないふりをしていただけだった。
でも、ちゃんと聞いてしまったら、もう戻れない。
少しだけ目を細める。眠気と、安心と、嬉しさが変なふうに混ざって、うまく言葉にならなかった。
だから、出てきたのはそれだけだった。
「……うん」
短い返事。でも、それで十分だと思った。
橋本の気持ちに応えたい。触れてきたことも、こんな夜中に勢いで踏み越えてきたことも、全部ひっくるめて、橋本らしいと思った。
ほんとは、もう少しちゃんとした言葉を返したかった。自分も好きだって、ちゃんと伝えたかった。
でも、そのときはただ、隣に橋本がいることがうれしくて、ぬくもりが近いことが安心できて、それだけで胸がいっぱいだった。
たぶん、もう元には戻れない。でも、それでいい。むしろ、やっとここまで来れたんだと、そんなふうにさえ思ってしまった。




