Tearful
なんで勝手に先帰るんだよ。
夏のコンクールに向けて、編成ごとの練習が始まる。
今年のB編の自由曲は『落陽のサイゴン』。ベトナム戦争末期を背景に、東洋人のヒロインとアメリカ兵の恋と悲劇を描いた、重たくてドラマチックな曲だ。
全体合奏でも、木管合奏でも、やっぱり去年とは空気が少し違う。単純に人数が少ないのもあると思う。正直、去年よりは息がしやすいし、音の厚さに飲まれる苦しさはない。
でも、そのぶん少し不安にもなる。去年みたいに誰かの後ろについていくんじゃなくて、自分がちゃんと動かないと音楽が前に進まない。そんな感覚がある。気を抜いたら、そのまま音の流れが止まりそうで、去年とは違う意味で緊張する。
B編のフルートパートはというと、くせ強なりに仲は悪くない。ただ、三年の井原先輩は進路の関係で、合奏の直前や途中から参加する日もある。同期の西野は西野で、体調不良で学校自体休んだりしている。……ていうか、あいつそれで出席日数ほんとに大丈夫なのかよ。でも二人とも合奏でちゃんと吹いてるし、やる時はやるって感じでそつなくこなすから、そこに関して不満は特にない。
そうなると、自然と個人練やパート練の時間は、一年の岩本颯斗と二人になることが多かった。
岩本は、前に俺と川瀬がやたら仲良いことをずばっと言い当ててきたりして、発言が妙に鋭い。ハキハキしてるし、たまに不意打ちみたいに核心を突いてくるからちょっとドキッとする。けど、案外人懐っこくて、普通にいいやつだ。
「陽翔先輩ー!ここの音程ちょっと不安なんで、一緒に練習してくれませんか!」
「おう、いいよ!あー、その音合わないよな」
「俺、陽翔先輩の音めっちゃ好きなんすよね」
「……えー?なんだよそれ。そんなの言われても何も出ないぞ」
「いいんですよー。隣で聴いてて、そう思うだけですから!」
しかも、ちゃんと先輩を立てる。さすが強豪校出身。なんというか、“プロ後輩”感がある。岩本は今回ピッコロ、俺は1st。重なるフレーズも多いし、なんだかんだ顔を合わせる時間が長い。そういう意味では、ちょっと懐かれてるのかもしれない。それはそれで、悪くなかった。
木管合奏の前、岩本に声をかけられた。
「陽翔先輩、ここのトリルの運指って、これで合ってますか?」
「ん?……いや、なんか違くね?たぶんこれな気がする」
そう言って譜面を覗き込むと、岩本もぐっと顔を寄せてきた。
「……ん?」
おお、近いな。俺も距離感おかしいって言われるタイプだけど、岩本もなかなかバグってると思う。
そう思った瞬間、ふと顔を上げる。ちょうど楽器と譜面台を持って廊下を歩いていた川瀬と、目が合った。
「あーー! それでいいのか! ありがとうございます!」
岩本の声で、意識がそっちに戻される。でも、さっきの川瀬の顔が少しだけ引っかかった。
帰りのミーティング。数少ない、全編成が集まる時間だ。あ、やっとC編が音楽室に戻ってきた。
「川瀬ー!」
いつも通り、何も考えずに近寄る。でも。
「……なに?」
え?避けられた。それに、なんかいつもより当たりが強い。……俺、なんかした?
「……いや、ごめん。なんでもない」
思わずそう言う。何が悪いのかはわからないけど、とにかく機嫌が悪いことだけは伝わってきた。あまりの形相に、こっちまで変に萎縮する。とりあえず、ミーティングが終わるのを待つしかなかった。
――これ、いつもみたいに一緒に帰れるよな。
そう思っていたのに、ミーティングが終わった途端、岩本に話しかけられた。
「じゃーん! 見てください! 陽翔先輩がこの前おいしいって言ってたチョコ、売ってたから買ってみました!」
「あ! 出たそれ! マジで美味いから! 食ってみ!」
「……うわ、ほんとだ。めっちゃ美味いっすね。陽翔先輩もどうぞ!」
「え、いいの? ありがと!……うわ、うま!そうそう、これだよなー」
やばい、つい話し込んでしまった。さっきまで音楽室の入口で川瀬が待っているのが見えた気がしたのに。……あれ、もしかして帰った?周りに聞いてみても、「さっきいたけど、もう帰ったかも」と言われる。
……まじか。待たせたのは悪いけど、何も勝手に帰らなくてもいいだろ。ていうか、さっきからなんで怒ってるのかも、よくわかんねぇし。
一人でとぼとぼ帰る帰り道。とりあえずメッセージを送る。
『なんで勝手に先帰るんだよ』
しばらくして既読がついた。
『しらない』
『先帰った方がいいかなって思ったから』
……は?なんなんだよ、それ。
『怒ってんの?』
『別に』
いや、めっちゃ怒ってんじゃん。なんでだ。謝って済むなら、とりあえず謝りたい。だって川瀬と喧嘩とか、普通につらい。
『ごめん、ほんと』
『なにが?』『何に謝ってんの?』
……うっ。確かに。とりあえず謝っとけばなんとかなるだろ、って思ってるの、完全に見透かされてる。
『わかんない。ごめん』
ついまた謝ってしまう。
『もういいよ』
よくないだろ、全然。なんでそんな怒ってんのかもわかんねぇし、どうしたらいいかもわかんねぇ。
帰り道、視界が少し滲む。泣きたくなんかないのに、勝手に涙が出てきた。川瀬にあんなふうに突き放されるだけで、こんなにしんどいんだって思い知らされる。意味わかんねぇ。ほんと、なんなんだよ。
スマホを握りしめたまま、もう一回画面を見る。「もういいよ」の文字が、やけに冷たく見えた。
木管合奏の前、譜面の確認をしながら廊下を歩いていた。今日はB編とC編で教室が離れているから、こうして移動のタイミングでもないと橋本の姿を見ることはあまりない。だから、なんとなく目で探してしまうのも、もう半分癖みたいなものだった。
あ、見つけた。橋本は、岩本に何か聞かれているようだ。譜面を覗き込む橋本に、岩本がぐっと顔を寄せる。
……近い。思わず足が止まりそうになる。
いや、別に。先輩後輩なんだから、それくらい普通だ。運指の確認なんて、近くで見た方がわかりやすいに決まってる。頭ではそう思う。思うのに、妙に引っかかった。そのとき橋本がふと顔を上げて、目が合った。でも、すぐに岩本の「あーー! それでいいのか!」って声に意識を戻される。
その一瞬が、妙に腹立たしかった。
……なんなんだろう。自分でも、よくわからなかった。
ただ、胸の奥がざわつく。岩本が悪いわけでもないし、橋本が悪いわけでもない。そんなこと、わかってる。わかってるのに、見たくなかった、と思ってしまった。
C編の合奏が始まってからも、なんとなく気が散る。音は追っているはずなのに、さっきの光景が頭に残っている。橋本のすぐ隣に岩本が立っていたこと。妙に親しげな声。橋本が自然にそれに応じていたこと。
……集中しなきゃ。こんなことで引っかかる自分が、少し嫌だった。
帰りのミーティングで全編成が音楽室に集まる。
その中に橋本の姿を見つけた瞬間、いつもなら少しほっとするはずなのに、今日はそうならなかった。
「川瀬ー!」
いつも通りの声で近づいてくる。その“いつも通り”が、今は少しだけ腹立たしい。
「……なに?」
自分でも、思ったより冷たい声が出た。橋本が少しだけ怯む。避けるつもりまではなかったのに、身体が先に動いていた。
……なんでこんな態度取ってるんだろう。
橋本は悪くない。たぶん、本当に何も考えてない。岩本と話していたのだって、いつも通り先輩として面倒を見ていただけなんだと思う。だから余計に、どうしようもない。
「……いや、ごめん。なんでもない」
橋本が先に謝る。その謝り方が、余計にむかついた。だって本人は、自分が何をしたのか全然わかってない顔をしていたから。
ミーティングの間も、少しだけ距離を取ったままでいた。橋本がたまにこっちを気にしているのはわかったけど、目を合わせる気にはなれなかった。
ミーティングが終わって、音楽室の入口で少し待つ。橋本と一緒に帰ろうと思っていた。思っていたのに、岩本がまた橋本に話しかけるのが見えた。その声に、橋本がぱっと反応する。
楽しそうだった。ほんとうに、楽しそうに笑っていた。別に、それが悪いわけじゃない。
後輩に懐かれるのは橋本らしいし、そういうところも知っている。むしろ、そういう橋本を見て「いいな」と思っていた時だってある。
でも、今はだめだった。入口のところで立ったまま、そのやり取りを見ているのが、急にすごく惨めに思えてくる。待ってるのは自分なのに。橋本が今見ているのは、自分じゃない。
……先に帰ろう。そう思ったのは、半分意地だった。半分は、本当にそこにいたくなかったから。
帰り道、スマホが震える。橋本からだった。
『なんで勝手に先帰るんだよ』
それを見て、また少し腹が立つ。なんでって。本当にわかってないんだ、と思う。
『しらない』
『先帰った方がいいかなって思ったから』
自分でも素直じゃない返しだと思う。でも、「岩本と楽しそうだったから嫌だった」なんて、そんなの言えるわけがない。
『怒ってんの?』
『別に』
怒ってる。でも、“怒ってる”だけじゃない。たぶん、もっと情けない理由だ。
『ごめん、ほんと』
『なにが?』『何に謝ってんの?』
その謝罪が、あまりにも橋本らしくて、少しだけ泣きたくなる。わからないなら、わからないまま謝るんじゃなくて、少しは考えてほしい。でも、考えたところで橋本にはたぶんわからない。そういうところも知っている。
『わかんない。ごめん』
……まただ。何も考えずに謝ってこないでほしい。
『もういいよ』
そう返して、スマホをしまう。よくない。全然よくない。でも、それ以上やり取りを続けたら、たぶん自分の方が余計なことを言ってしまう。
歩きながら、小さく息を吐く。ほんとうに、何やってるんだろう。たぶん、自分は嫉妬していた。岩本に、というより。橋本の隣にいるのが自分じゃなかったことに。
そんなことで不機嫌になるなんて、我ながら面倒くさい。でも、橋本の近くにいるのは、自分でありたいと、たしかに思ってしまった。
それを認めるのが、一番嫌だった。




