シュークリーム・リプライズ
ハートをお返し♡
二月中旬。三月の定期演奏会に向けて、毎日ばたばたと練習を重ねていたある日、一通の通知が入った。
《2月16日 川瀬バースデー に招待されました》
川瀬抜きのフルートのグループ。ああ、来た。フルートパート恒例、顔面シュークリームのサプライズ作戦だ。もうすぐ川瀬の誕生日だもんな。
《川瀬にも顔面シュークリームでいいよな?》
《いいと思う!》
《OK!》
……いや、なんかあいつ、本気で嫌がりそうな気もしなくはないけど、大丈夫なんだろうか。クリームまみれになった川瀬の顔を想像してしまう。可哀想。でも、たぶんちょっと可愛い。
《じゃあ、明日部活終わりに3-C集合で!》
《橋本、上手いこと時間潰して川瀬が教室に近寄らないようにして!》
何気に責任重大だ。
《了解です!》
そして、ついに作戦決行の日。
今回も、俺が五月の誕生日にやられたときとほとんど同じ流れらしい。3-Cの黒板いっぱいにメッセージやイラストを描いて、シュークリームを用意して、何も知らない誕生日の本人を連れてきて、顔面に投げつける。……改めて字面にすると、ほんとひどいな。
みんなが準備でばたばたしている間、俺も黒板のすみに急いで一言だけ書き込んだ。
《川瀬、誕生日おめでと♡》
最後に小さくハートをつける。あくまで、おふざけっぽく。軽く。そう見えるように。……まあ、半分は。いや、たぶん百二十パーセント本気だけど。この前、川瀬が目がハートのクマのスタンプを送ってきたみたいに、こういう小さいのにも案外気づくんだろうか。気づいて、どう思うんだろう。そんなことを考えてる自分が、ちょっと気持ち悪い。なのに妙に緊張していた。
部活終わり。俺と川瀬を残して、フルートパートの面々はそそくさと教室へ向かっていく。俺はそれに気づかせないよう、川瀬を引き止める。……引き止める、はずなんだけど。
「……橋本」
「ん、どした?」
「……まだ帰んないの?」
「あー……えっと、もう帰んの? もうちょい話そ」
「……」
引き止めるの下手くそかよ、俺。しかも川瀬は、明らかに察している顔をしていた。ほんと勘がいいんだよな、こいつ。たぶんもうバレてる。そのとき、スマホが震える。
《準備できた! 橋本、川瀬連れてきて!》
……よっしゃ、いくか。
「洸太先輩が呼んでるから、一緒に教室行こ」
「……はいはい」
絶対わかってる返事だよな、それ。ガラッ、と教室のドアを開けた瞬間。
「べちゃっ」
洸太先輩が投げたシュークリームが、綺麗に川瀬の顔面へ命中した。
「せーのっ!」
「ハッピーバースデートゥーユー♪ ハッピーバースデートゥーユー♪ ハッピーバースデーディア、かーわせー! ハッピーバースデートゥーユー♪」
「おめでとーーーー!!!」
俺も含めたフルートパート全員の声が教室に響く。
クリームまみれのまま立ち尽くす川瀬は、目をぱちぱちさせていて、状況を飲み込みきれていない顔をしていた。その少し困ったような表情が、思っていた以上に可愛くて、俺は危うくその場にしゃがみ込みそうになる。
「まず顔洗っておいで!」
「川瀬、目開けられる?」
「……うん」
俺はそのまま川瀬の手を引いて、トイレへ向かった。そういえば俺も五月に、まったく同じように連れていかれたんだっけ。あのときもカスタード地獄だった。やっぱこれ、誕生日イベントの皮を被った災難だろ。
鏡の前で、川瀬の顔についたクリームを拭きながら言う。
「……なぁ、ぶっちゃけサプライズされるって気づいてたっしょ」
「……うん」
「ふっ、だよな」
思わず笑ってしまう。
「……だって橋本、分かりやすいし。今日は朝から変だったから」
「まじ?! 俺ってそんな分かりやすいのか」
「……かなり」
さらっと言われて、ちょっとへこむ。でも、そんなふうに淡々と返しながらも、さっきまでより少しだけ口元がやわらかい。ちゃんと楽しんでくれてる、……んだよな、たぶん。
顔についたクリームは、だいたい綺麗に落ちた。よし、こんなもんかなと思ったその時。
――あ。
白い首筋に、まだ少しだけクリームが残っている。
細くて、華奢で、いつもは制服の襟に隠れている場所。そこにぽつんと残った白が妙に目について、視線が止まる。一瞬、本当に一瞬だけ、それを舐め取ってしまいたい、みたいな最悪の衝動が頭をよぎった。……だめだよな。ぐっと堪えて、指先でそっとすくう。
「……っ?! なに」
「クリーム。まだ首についてる」
「……あぁ」
川瀬が少しだけ身を引く。
「……自分で拭くから、もういい」
「いいって、俺が取る」
「……だからって、そんな、近い」
近づかないと見えないんだからしょうがない。そう思うのに、たしかに近い。自分でも分かるくらい、近い。指先で最後のクリームを拭いながら、どうしても思ってしまう。細い首。驚いて少し見開いた目。冷静な川瀬がこういう時だけ露骨に崩れる感じ。ほんとに、
「ほんと可愛い」
……あ。思わず口に出していた。川瀬が、ほんの少し目を見開く。俺も自分で何言ってんだと思う。でも、もう遅い。だって本当に可愛かったから。
「いや、なんか……その、反応が」
苦しすぎる言い訳。教室では、フルートのみんながまだ待ってる。そろそろ戻らないといけない。なのに、戻りたくないな、なんて一瞬思っていたその時。
「おーーい、二人とも大丈夫ー?」
トイレのドアが開き、洸太先輩の声が飛んできた。
「そろそろ戻ってこないと、みんな待ちくたびれてんだけどー!」
「……っ」
「……」
一瞬で空気が変わる。川瀬の肩がぴくっと揺れて、俺も思わず手を引っ込めた。別にやましいことをしてたわけじゃない。クリーム取ってただけだ。……取ってただけ、なんだけど。なぜか、見つかったみたいな気まずさがある。
「だ、大丈夫です!」
思ったより大きい声が出た。自分でもちょっと焦ってるのが分かる。
「今行きまーす」
そう返しながら、川瀬を見る。川瀬も少しだけ目を逸らしていて、耳がうっすら赤い。……お前もかよ。
「……別に、なんもしてないのに」
小さく言うと、
「……橋本が変なこと言うからでしょ」
ぼそっと返ってくる。
「いや、俺のせい?」
「そう」
即答。でもその声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。外から、また洸太先輩の声。
「ほんとに大丈夫? 川瀬、泣いてないー?」
「泣いてないです!」
今度は川瀬が少し強めに返す。その言い方が妙に可笑しくて、思わず吹き出しそうになる。
「……行こ」
「……うん」
並んでトイレを出る。さっきまでより少しだけ距離が近いのに、変に目を合わせづらい。何もしてない。ほんとに、何もしてない。でも。ほんの少しだけ、何かしそうだったみたいな空気だけが、二人の間に残っていた。
サプライズ後は、メッセージがいっぱい書かれた黒板の前で写真撮影をして、なんだかんだ賑やかに過ぎていった。川瀬は最初こそ少し困った顔をしていたけど、最後にはちゃんと笑っていて、それだけで少し安心する。
橋本に手を引かれて、トイレへ向かう。顔は甘いし、前髪は気持ち悪いし、普通に最悪だ。最悪なのに、みんなのあの顔を見たらそこまで嫌な気もしないから不思議だ。鏡の前でクリームを拭きながら、橋本が言う。
「……なぁ、ぶっちゃけサプライズされるって気づいてたっしょ」
「……うん」
「ふっ、だよな」
その笑い方が、なんだか少し楽しそうすぎる。
「……だって橋本、分かりやすいし。今日は朝から変だったから」
「まじ?! 俺ってそんな分かりやすいのか」
「……かなり」
本当に、かなり。朝から落ち着きがなくて、変に目が合って、でも目を逸らして。たぶん本人は上手くやってるつもりだったんだろうけど、そういうところも含めて橋本は橋本だ。顔についたクリームはだいぶ取れた。もういいかな、と思った時、橋本の視線がふっと止まる。
「……っ?! なに」
「クリーム。まだ首についてる」
そう言われて、少しだけ身体が強張る。橋本が指先を伸ばしてくる。近い。顔も、手も、呼吸も。「……自分で拭くから、もういい」
「いいって、俺が取る」
「……だからって、そんな、近い」
距離が近すぎる。クリームを取るだけなら、もう少し離れてもいいはずなのに、橋本はこういう時だけ変に真っ直ぐで、逃がさない。
指先が首筋に触れる。そこだけ妙に熱い気がした。そして、次の瞬間。
「ほんと可愛い」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
橋本の方を見る。
「……え?」
橋本も、自分で言ったことに少し驚いた顔をしていた。でも遅い。聞こえた。ちゃんと。
「いや、なんか……その、反応が」
……反応が、か。そっか。
「おーーい、二人とも大丈夫ー?」
洸太先輩の声が飛んできた。
「そろそろ戻ってこないと、みんな待ちくたびれてんだけどー!」
一気に現実に引き戻される。橋本も手を引っ込めた。別に何かあったわけじゃない。ただクリームを取っていただけ。でも、変に見つかったみたいな空気が残る。
「だ、大丈夫です!」
橋本の声が思ったより大きい。焦ってるのがわかる。
「今行きまーす」
そのあとで小さく、
「……別に、なんもしてないのに」
と言うから、少しだけ可笑しくなる。
「……橋本が変なこと言うからでしょ」
「いや、俺のせい?」
「そう」
即答してやる。でも、声が少しやわらかくなったのは、自分でもわかった。また洸太先輩の声。
「ほんとに大丈夫? 川瀬、泣いてないー?」
「泣いてないです!」
思わず少し強めに返してしまう。その横で、橋本が笑いそうになっているのがわかった。
「……行こ」
「……うん」
並んでトイレを出る。さっきより距離が近いのに、目を合わせにくい。何かあったわけじゃない。ないのに、少しだけ空気が違う。その違いを、たぶん橋本も感じている。
黒板のメッセージの中、いっぱいの落書きのすみに、殴り書きで書かれた橋本の文字。
《川瀬、誕生日おめでと♡》
そして、その横の小さいハート。ああ、と思う。見つけた瞬間にわかった。たぶんあれは、ふざけて書いたふりをしているだけで、本当はそうじゃない。橋本はそういうところがわかりやすい。隠しているつもりでも、妙に本気が滲む。
帰り道、もらったお菓子を両手に抱えて歩く。袋が多くて歩きにくい。橋本は隣で、さっきから何か言いたそうにしている。
「黒板のメッセージ、俺の見た?」
「……見た」
「どうだった?」
「……橋本の字って感じ」
そう返すと、案の定、少し不満そうな顔になる。
「それはそうだけど、他になんかねーの?」
「……ハートでしょ」
「そうそう!」
すごくわかりやすい。そこを言わせたかったのかと思うと、少しだけ可笑しい。
「……ずっとそれ言わせたかったの?」
「だって、気づいたかなーって思ってさ」
「……気づくよ、それは」
「もっと大きく書けばよかった?」
「いいからもう」
呆れたふりをしながらも、少しだけ笑ってしまう。あんな小さいハートなのに、ちゃんと意味がわかるのが悔しい。しばらくして、駅前の灯りが見えてきた頃。橋本がふいに言った。
「……あ、そういえばさ」
「なに」
「今日、ちゃんと言ってなかったわ」
少しだけ振り向く。
「誕生日おめでと」
その言い方は、さっきまでより少しだけまっすぐだった。軽く言ったふうなのに、ちゃんと届く。
一瞬だけ返事に詰まる。今日一日、シュークリームも、黒板のハートも、トイレでの変な空気も、全部まとめてその一言に集まるみたいだった。
「……うん」
なんだか照れくさくて、顔を見れない。
「……ありがと」
橋本が少しだけ嬉しそうにする。その顔を見て、今日の主役は自分のはずなのに、橋本の方がずっと浮かれていた気がする、と思う。
「いやー、無事シュークリームくらってよかったな」
「よくないけど」
「でも似合ってた」
「最悪」
「可愛かったし」
「……うるさい」
そう返しながらも、完全には嫌じゃない。むしろ、たぶんかなり嬉しい。橋本はたぶん、あの小さいハートがどれくらいちゃんと伝わったか知らない。誕生日おめでとうの一言が、どれくらい嬉しかったかも、たぶん知らない。
でも、それでいいかと思う。全部言ったら、橋本は調子に乗るから。
両手いっぱいのプレゼントは少し重い。でも、今日一日を思い返すと、その重さも悪くなかった。




