act,6 How to。
穏やか過ぎると言われても、いきなり何か変われるわけもなかった。
「はぁ…」
「どーしたのさ」
授業の合間の昼休み。笠馬は相変わらずのんきそうな顔をしてそう言った。今日は自分で次の古文に宿題があると気付いたらしいのだが、自力でやるという考えには至らなかったらしく、俺の宿題を奪い取って、自分のノートに写していた。その分俺は代わりに、明日の昼飯代を請求したけれど。
「……笠馬に聞いてもなー…」
笠馬は顔にこそ出ないが内心ムカついているだろう。けれどこんなにのんきそうな人物に恋愛テクニックを尋ねても意味はない。事実、笠馬からは恋愛のれの字も聞いたことがない。彼女らしい人間も居ないはず。
俺は机に突っ伏しながら、今度は笠馬の隣に居たキマリを見た。キマリは困ったような、苦笑したような顔をしていた。その意図は多分、俺が何にため息をついているのかわかっているからだろう。あの兄貴が俺とのやり取りをキマリに黙っているはずがない。あの人は泉原さん並に口が軽いに違いない、そんなオーラが感じられる。鈍い俺にだってわかるのだから、相当だ。
「…………ふぅ…」
俺は今日何度目かのため息をついた。もう何度目なのかわからない。昨日キマリ兄と別れてから、ため息をつきっぱなしだ。いわく、俺は小笠原が好きなのだという。しかしどうやら俺にとって、それというのは当たり前すぎるようで、自覚がないらしい。どれだけ鈍いのだろうと、自分でも嫌になる。自覚のためには今の距離感から一歩踏み出さなくてはいけない。キマリ兄が言うには具体的に、行動で愛を示せということなのだが。
……………俺にはどう考えても無理そうだっての。
つい昨日まで、好きではないと思っていたのに、実は自覚がないだけで、やはり好きだったらしい。そう思って考え直すと、最近の俺は確かに小笠原に甘えていた気がしてならない。二年の頃までの当たり前を、当たり前にしてもらえなくなって、拗ねていたのではなかろうか。
向こうだって慣れない環境だし、いろいろ言い分があるだろう。俺は俺なりに努力していたつもりだったけれど、俺の気付かないところで我を通していたかもしれない。この反省を踏まえて、小笠原に会って、どうにか一歩踏み出したら、何か変わるのかもしれないけれど。
きっかけが、わからない。いつ、どうやって、何を、どうしたらいいのか。時と場合によるとか、雰囲気や流れで、何をしたらいいのか読むものなのだろうけど、俺にはそんなに便利な感性はない。どうせならもっとキマリ兄に細かく聞いておくべきだった。それはそれで情けない気もするけれど、わからないものはわからない。見つめあうとか、キスとか、どうやってするものなんだ…。
春休みに逆戻りした気がする…。そういうのは俺のキャラじゃない。自分から動かなきゃいけないと思うと、逃げたくなる。告白まがいの言葉を伝えるのにも、何日も不登校になって思案したというのに、今度は行動しろと言う。レベルが違いすぎてどうしたらいいのか…いっそ欧米に留学して積極性を学べばいいだろうか。あちらはキスなんて挨拶だ。
キマリ兄は俺も小笠原もどちらも悪いと言っていた。単に俺が晩熟なだけでなく、小笠原も同様に、恋や愛には躊躇いを伴うタチなのだろう。事実、俺は好きなんて言われたことがない。嫌いじゃないとは言うけれど。キマリからもよく小笠原は俺を好きだと聞くけれど、あれは推測に似たものだろう…。今更、年上とか年下とか、そんな話を持ち出しはしないが、俺ばかり動くのは癪だ。あっちだって晩熟なのだから、半々に動ければ心労も半分で済むのに。
悩んでばかりいると身体を動かしたくなる。と言っても俺の場合、写真を撮りに町へ出かけるくらいしかしないのだが。今日も放課後になったら写真を撮りに出かけようと思った。現実逃避とはわかっているけれど、悩みっぱなしは気が滅入るだけだ。
「アイオくん、」
機嫌を損ねたのか、笠馬は宿題を写し終わるとさっさ自分の席へ戻っていった。残ったキマリはため息ばかりの俺に申し訳なさそうに声をかけた。
「…俺の悩みの種には気付いてるんだろ」
キマリは答えなかったが、言わずもがなだった。予鈴が鳴って、ちらほら席に着き始める生徒が出てきた。椅子を引いたり、机を直したり、教科書なんかをカバンから出したりするざわめきの中、キマリは耳打ちするように小声で言った。
「兄さんの言うことは真面目に考えすぎない方がいいかも。二人が進展してくれれば僕は嬉しいけど、兄さんはなんだか…」
「…なんだか?」
キマリは苦笑いする。俺はハテナ顔でキマリを見上げた。キマリを見上げるのは珍しい。こうして机に突っ伏さなければ、一生キマリを見上げる機会なんてないだろう。
「…君に、目をつけたみたいだから……」
「………どういう意味だ」
と、問いながら嫌な予感がした。俺の脳内にはキマリ兄のニヤニヤ顔が浮かんでいた。キスと聞いてうろたえる俺に意地悪そうな笑みを浮かべたことを思い出す。
「先生にちょっかいを出すことは止めたみたいなんだけど、」
「……」
「アイオくんをからかうことに目覚めてしまったみたい、なんだよね」
俺とキマリは苦い顔をして顔を見合わせた。どちらともなくため息が漏れ、眉根を寄せているうちに古文の先生が教室へ入ってきた。以前小笠原が担当していた古文の授業は、新しく入った年配の女性の先生が担当していた。こちらの先生はしゃべりが一本調子でどうにも眠気を誘う厄介な人だった。だけれども俺は眠ることはないだろう。悩みが尽きず、先生の声なんて耳に入りはしないだろうから。
放課後、速やかに帰宅すると、俺はカメラを手に取った。適当に着替えて部屋の電気を消し、玄関扉に手を伸ばしたときだった。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。まさかまたキマリ兄がからかいに来たのではと思ったけれど、そうではなかった。ドア越しに聞こえてきた声は女の声だったからだ。
「アイオさーん、いますー?」
その声には聞き覚えがあった。少し前に知り合ったばかりだから、記憶に新しい。けれどどうして、俺の家がわかったのだろう。
声を聞いて、途端に心臓が跳ねた。それが何に対してなのかわからないけれど、ドクドクと音が聞こえそうなくらいに動悸が激しくなったのはわかった。
ドアを開けるか否か数秒間悩んだけれど、結局手は自然とドアノブに伸びて、鍵を開けていた。中からドアを開けてやると、やはりあのときの少女が立っていた。
「池田先生に家の住所聞いちゃった。全然連絡してくれないんだもん、アイオさん」
拗ねたように頬を膨らませたのは一瞬で、すぐに何か、含んだような笑みを浮かべた。
「……国松、エリカ」
「わぁい。憶えててくれたんだ!」
まるで吾妻少年のようなぎこちなさで俺は言った。というのも、どっちの名前で呼ぶべきか迷ったからだ。小笠原が国松と呼んでいたのを思い出して、国松と口走ったはいいけれど、少女はあの時下の名前しか名乗らなかったし、となると、俺と小笠原が繋がっていると断言したように思えて、とって付けたようにあわてて下の名前を呼んでみた。
そんな俺の躊躇いや焦りには気づきもしない様子の少女は、ドアに伸びたままだった俺の腕をつかんで、意外にも強い力で外へ引っ張り出した。靴は履いていたので、俺は引っ張られるままに廊下へ出た。
「あれから、デジカメで綺麗に撮る練習したんだよ。今日はアタシが夕日を撮るから一緒に来て」
強引に腕を絡め取られた。少女はそのままぐいぐい階段の方へ歩き出す。
「おい…!」
「なあに?」
腕を放して欲しかったのだが、あからさまに断るのも気が引けた。鍵をかけてないから、とか、そんな理由を付けて腕を払うと、不機嫌そうな顔をされた。嫌がったのに気付かれたのだろうか。
「ふうん。スキンシップは苦手かぁ。案外オクテなんだね」
「……」
オクテだなどと言われずとも自覚している。その言葉が頭にくるとともにグサリと胸に突き刺さった。
「ま、苦手なものは誰にでもあるよね。日が沈みきらないうちに早く行こう!この辺の夕日スポットってどこ?」
少女はコロリと態度を変えて、再び楽しげに俺の腕を引いた。「苦手なものはある」と言いながら次の瞬間にはまた腕を取っているこの矛盾と来たら無い。
俺は飽きれながらも、すっかり少女のペースに乗せられていた。話題が写真のことに及ぶと、俺もつい意見したくなってしまう。あれからどんな写真を撮っただとか、俺のやった写真が友人の間でも好評だったとか、そんな話をしながら俺たちは土手に来ていた。土手に上がると高架橋が見える。川に架かる橋だ。障害物がなくなって、とたんに視界が開け、夕日も丁度いい具合に見える場所だった。
「わあ…」
少女が感嘆の声を漏らす。沈みかけの太陽に魅了されているようだった。
「…撮るんじゃなかったのか?早くしないと沈むぞ」
「わかってるよ!」
俺に言われてハッとなったくせに、そんなことを言う。
少女が両手でデジカメを持ちながら、画面を覗いている間に、俺は三脚を立てた。どうせだから自分も撮ろうと思った。
「ねぇ、アイオさん」
少女はシャッターを切る。何枚か続けて撮った。撮りながら俺に声をかける。俺はカメラをセッティングしながら返事をした。
「…なんだ」
少女の方は見なかった。そういえばいつの間にかドキドキはおさまっている。急な来客に緊張しただけだったのだろう。この間はあのドキドキが恋愛感情ではないかと思ったけれど、自分の状態を把握した今は、あれは勘違いだったのだとわかる。現に今は笠馬や加藤なんかと接する時と同じような感じだ。
「…小笠原先生と、どういう関係?」
「え……?」
一瞬、心臓が止まりそうだった。どうしてそこまでドキッとしたのかわからないけれど。
少女と初めて出会った日、小笠原と俺、そしてこの国松エリカは電話越しに繋がっていた。師弟関係とも言えない雰囲気で電話していれば、他に何かあると思うのが普通だろう。
俺はどう返していいのかわからず、口を噤んだままだった。少女の背中を見つめていると、ふいに少女が振り返った。苦笑したような笑みだった。
「…なんて、ホントは知ってる。池田先生がほのめかしてくれたし。小笠原先生も、写真見てからアタシによそよそしいし」
「……もしかして、あの写真見せたのか?」
俺の中の罪悪感が増した。小笠原にやるつもりだった写真を、少女にあげてしまったからだ。あの時は遅れて来る小笠原を心配しつつも、苛立ってもいたし、態度が冷たいことにも拗ねていたから半分は自棄になってあげてしまったのだろう。今だったらきっと、あの写真を少女にあげたりしないと思う。かといって、今更返せとも言えないことはわかりきっているけれど。
「見せたって言うか、見られたっていうか…ううん、…電話で、先生が藍生って呼んでたから…ちょっと意地悪したくなったの。学校に持っていっちゃった」
小笠原がよそよそしくなったということは、おそらく写真を撮ったのが誰なのか、小笠原は気付いたのだろう…。もう写真を見せ始めて二年以上だ。わかってしまうのも必然かもしれない。そのことに俺は、不謹慎だと思いつつ、なんだか嬉しさが湧いてくるのがわかった。悲しそうな、申し訳なさそうな顔をしている少女の手前、喜びを表現することなど決してしなかった。できるはずがなかった。
「今日アイオさんに会いに来たのはね、そのことを謝ろうと思って…。もしかして、アタシがお邪魔虫になって、二人の仲が悪くなってたりしたらどうしようって」
「そもそも、邪魔な存在とも思われてないかもしれないけど」と、少女が呟いた。
小笠原の機嫌が悪かったのは、少女に出会う前からだ。確かに吾妻少年が俺を問い詰めに来たところを見ると、多少なりとも小笠原は少女と俺を不穏な目で見ていたのかもしれない。けれど俺たちがどこか上手くいかないのは少女のせいではないだろう。俺が鈍いのもあるだろうし、キマリ兄の言うように、互いにオクテすぎて進展がなく、曖昧すぎたことが苛立ちに繋がっていたのではないだろうか。
「…お前のせいで、気まずいってことはない、と思う。原因は他にあるって判明したからな」
「…元々、上手くいってなかったの?」
少女はきょとんとした顔になった。拍子抜けしたとでも言いたげだった。
「上手くいってないっつーか…足並みがそろってないっつーか……」
俺たちは、たとえるなら二人三脚のパートナーのようなものだ。組む相手は決まりきっているのに、一歩踏み出せない。なぜならお互いに呼吸がそろっていないから。進みたい方向はあるのに上手く進めない。
「……なあんだ。心配して損しちゃった」
少女は安堵したのか大きく息を吐いた。以前と同じように子供のような笑みを浮かべる。
夕日はほとんど沈みかけていた。太陽そのものは姿を隠して、辺りは紺と青とうっすらしたオレンジ色で彩られている。雲はほとんどない快晴で、そういえばキマリと初めてまともに話したときも土手で、こんな風の空だったと思った。救急車の騒ぎで、あまり観察することができなかったけれど。
実は俺は黄金色の空よりも、太陽が沈みきったくらいの空の方が好きだ。逆に夜明け前の淡い空とか、月の光とか、そういうのも好きだった。だから今くらいが丁度いい。
俺が写真を撮っている間、少女は土手に生えた芝生の上で足を抱えて座っていた。四月も後半になったけれど、日が沈むとやはり寒い。制服に蛍光イエローのリュックを背負った少女は、無意識に寒さを感じているのか、明後日の方向を見ながら手で脚を擦った。この町に来るのは珍しいのだろうか、ずいぶんキョロキョロと辺りを見回している。
「…何にも、ないね」
「……悪かったな、田舎で」
「貶してるわけじゃないよ。静かで、結構好き」
少女はこちらを向いてニヤッと笑った。この町はにぎわってるとは言い難い。取り立てて押し出せるような名物はないし、仕事で立ち寄ったりしない限りは、一生関わらなくても平気な町だろう。一方で二駅先の、少女や小笠原、キマリ兄が毎日訪れるあの町はずいぶんと発展していた。彼らの学校は俺たちの町側に近いから、それほどでもなかったけれど、中心部は田舎の割りににぎわっている。ビジネスと観光で訪れる者がたくさん居る。
それほどでもない場所の人間から見てもこの町は「何もない」のだ。その事実に内心苦笑しながら、それを嫌っているわけではないという少女に、俺は嬉しかった。
「俺の地元はもっとひどい。この町でもにぎやかに見える」
「ふうん…ここよりもっと静かなのかな。遠いの?」
「あの辺り」
俺は土手から見える山に指を指した。四月でも、その山には雪が積もっている。山の形に添うように雪の積もった真っ白な山が、青く霞かかった山の向こうに見えた。
「……行ってみたいな」
「遠いぞ」
「いいよ。休みの日とか、行こうよ。アタシ、自分の町しか知らないんだもん」
日が落ちて、辺りは暗かった。わずかな街灯やネオンが輝く。俺が三脚を片付ける間、しつこく「行こう、行こう」と誘うので「そのうちな」とだけ答えておいた。
「アタシが撮った写真、上手くいったらアイオさんにあげるね。この間もらったかわり」
「上手くいかなかったら?」
「そのときは、上手くいくまで待って」
「…卒業までに間に合うといいけどな」
「ひどーい!そんなに下手かな、アタシの写真!」
思えば、撮った写真に興味は持っても、撮る現場にまで踏み込んで来た奴は居なかった。一人で探検しながら撮るのが面白いと思っていたけれど、誰かと出来の良し悪しを意見できるのも面白いと思った。
少女に、どうやってここまで来たのか尋ねると、電車で来たというので、駅まで行くバスを教えてやった。けれど少女は土手に架かる高架橋を歩いて渡りたいと言った。橋を渡ればすぐ最寄り駅だけれど、その橋が結構長い。
「橋の上ってどんな風か、見てみたいの」
「…もっと明るい時にすればいい」
「だって、せっかく今日来たのに」
言いながら、少女は歩き出していた。一人で歩かせるのも忍びないので、俺は駅まで送ることにした。橋には帰宅ラッシュの車が列を連ねていた。動かない車の中から、運転手がこちらを見ている。
「風強いね!」
少女ははしゃいだように言う。橋の真ん中へ近づくほどに風は強くなる。体感温度は低くなる。
「寒い!」
「だから、明るいときにしろって言ったのに」
むくれた少女は「風除け」と言いながら俺の横に来た。それに良いとも悪いとも反応しなかった俺を見て、子供みたいにニコリと笑った。
「アタシ、いつもはにぎやかで狭くって、人がたくさん居る場所に居るから、こういうのって新鮮。地球はでっかいなあって思うよ」
「…へぇ……」
生きる土地が違えば、価値観も違うと思った。俺はむしろ人混みや狭い路地の方が新鮮で、世の中は広いと思う。
他愛もない話をしながら長い橋を渡った。俺たちの他に徒歩で橋を渡るものは居らず、向こうから人がやってくることも、こちらから誰かに追い抜かれることもなかった。




