act,5 告白。
八方塞の俺とキマリは、互いに経験や知識が足りないと気付いた。経験豊富な誰かにどうしたらいいのか聞きたいけれど、そんな人物は俺の周りにいなかった。よくよく考えると、俺と小笠原のような付き合いは珍しいのではないかと思った。高校生の恋愛でもないし、大人同士の恋愛でもなく、しかも恋愛未満な気もする。俺と似たような境遇の人物がどこかにいればいいのに。そいつに、俺はどうしたらいいのか心底聞いてみたい。
今日もため息をつきっぱなしで一日が終わった。キマリとは一言も会話しないままだった。気まずいわけではなかったが、気軽に世間話をしていても頭の片隅に恋愛の話がくっついたままでいそうな気がする。それはあまり心地のいいものじゃない。キマリもそう思っているのか、今日は少し様子がおかしかった。俺の目を見ようとしない。目線が合うと反らしさえした。
「………悩みが増えた」
「悩み?」
能天気な顔をした笠馬は箒を持ってポカンとした顔だった。今週の俺の掃除場所は教室だ。笠馬も同じで、箒で床を掃いていた。俺は机を運びながら鬱々と呟いた。
「…今日のキマリ、何か変だろ」
「ああ、庄くんね。俺も思った。ちょっと元気ないよね。眞旺のせい?」
「…かもしれない」
「何かしたなら早く謝ったら?」と笠馬は言った。確かに、昨日は俺が愚痴っただけのような気もするし、キマリは根本的に小笠原に傷ついて欲しくないだけだ。俺と小笠原をくっつけたいのもその為で、何が何でもくっつけないとダメだと意地を張ってるわけでもない。
少しでも悩みの種を減らしたいのもあって、キマリが掃除を終えて教室へ戻ってくるまで、俺はぼんやりと教室で待っていた。部活に行く友人たちを見送りながら机の上に行儀悪く腰を下ろしていると、難しい顔をしたキマリが教室へ戻ってきた。相変わらず元気のなさそうな顔に、一瞬近づくのが躊躇われたけれど、俺は意を決してキマリに近づいた。
「昨日は、悪かったな」
キマリは無言で顔を上げた。俺と目が合うと、やわらかく微笑む。
「もしかして、今日の僕って元気ない?」
俺は頷いた。笠馬もそう言っていたことだし。キマリ本人に自覚はなかったのだろうか。
「君のせいじゃないんだ。ちょっと、ショックなことがあって」
「ショックなこと?」
「………まず敵を知ろうと思って、兄さんに恋愛観を聞いてみたんだけど」
「……?」
キマリはそこで大きなため息をついた。そしてなぜかわからないが、顔を赤らめる。
……どういうことだ?
「なんていうか、大人はやっぱり、違うよね。いろいろ」
「…いろいろ?」
キマリが俺を見た。深呼吸をしてから、口を開く。
「いろいろ……聞いたんだけど、先生を守る方法は見つからなかったよ」
「…そうか」
キマリは「いろいろ」の中身を具体的には教えてくれなかった。一体兄貴に何を聞いたのだろう。
「君が先生を好きじゃないと思うなら、君の言うとおり風化を待つしかないのかもね」
キマリは赤い顔でフラフラと教室を出た。「また明日」と言って手を振られたので、俺は言われるがまま手を振り返した。
…とりあえず、キマリと気まずいことはなくなった、はず。
俺は学校に居残る用事もなかったので、カバンを肩にかけて玄関を出た。校門を出て家へ帰ろうとしたら、不意に誰かに声をかけられた。
「よ、アイオくん」
ニヤニヤ笑って車の運転席から男性が手を振っている。先日会ったキマリ兄だった。校門のまん前に黒い車を着けていて、生徒たちが遠巻きに避けながら、どういうわけかと気にしていた。
…もしかして、俺を待ってたのか?
「君に話があるんだよ」
「…俺、すか?」
「まぁ乗りなって」
そういって左手の親指で助手席を指す。野次馬の中で車に乗るのは躊躇われたけれど、そのまま突っ立っているのも気まずいので、俺はドアを開けて乗り込んだ。俺が乗るや否や、キマリ兄は車を出した。
「聞くに、恋愛とは何かで悩んでるそうじゃないか」
「…はぁ」
聞く、とは、おそらくキマリからだろう。うきうきとした感じで、キマリ兄はそう言った。
「俺は優しい兄さんだからさ、アイツがあそこまで言うなら、君に恋愛とは何かを教えてやろうと思って」
「……キマリはあなたに恋愛観を聞いて、ショック受けてましたけど」
キマリ兄は「ああ、それね」と言った。思い当たる節があるらしい。
「何で遊んでるんだとか聞かれたからさ。俺が本気になれる顔はお前だって言ってやった」
「………は?」
「言っとくけどあくまで顔だからね。顔だけなら、庄之助は俺のストライク。なんせ俺の初恋はアイツの母親だから」
「………キマリの母親…」
「もう亡くなってるけどね。だから俺は本気になれない。本気になる相手はもう天国に行ってるから。君に関係するのはこの辺よりか、初恋当時の俺じゃないかな。年上に恋してたから俺」
「…恋」
誰かに恋愛について聞きたいと思っていた。けれど実際に恋とか、そういう単語を聞くと、俺とは別世界の話な気がする…。
「相手が何を考えてるかわかんなくて、もどかしいとか思うでしょう」
「…それは最近思います。聞いても答えてくれないから」
「まぁ、それが女ってやつなんだよ」
「はぁ」
女を悟ってまでいるのか、この人は。
「俺の場合はいろいろ枷があってねー…。気軽に会える相手でもなし、だから一度会うとなったら後悔しないようにやりたいことは全部やったよね」
「後悔…?」
「いつも切羽詰まってるんだ。戸惑ったり迷ってる暇があったら行動してた。そうしないとチャンスを逃す気がしたし、やっておけばよかったって思ったとき、がっかりするのは自分だったし」
対象がキマリ母ということは、とんでもないような気がするけれど、その辺は置いておこう。まともに考えたら正気の沙汰ではないと思うから。
「今日明日、相手がいなくなるとか、考えてみたことある?」
「…考えても、イメージが湧きません」
「うーん、相当だねぇ、君」
相当の意味は多分、俺が鈍いってことなんだろう…。だけど、いきなり相手がいなくなるとかそういうことは、病気で死にそうとか、危機的状況がない限り、考え付くことはないと思う…。
キマリ兄は車を停めた。ここはどこだろう、知らない間に広い駐車場の中にいた。
「彼女、君らの学校から転任したばっかりじゃない。それも引き金にならないなら、君はもっと前段階なのかも…」
キマリ兄は言いながら車を降りた。「降りなよ」と促されたので、俺も倣って車から降りた。どこか山の麓だ。車に乗ってそれほど時間は経っていないから、市内のどこかだとは思うけれど知らない場所だった。駐車場の近くに長い石段があって、上がりきった先に白い建物が見える。いや、白い建物だったと言うべきだろうか、白いはずの壁は風化して薄汚れている。蔦がびっしりと生えていて、ずいぶん古そうに見えた。
「…俺、本当にあいつを好きなのかわかりません」
キマリ兄は先立って石段を登っていた。目的地は古びた建物なのだろう。俺も続いて石段を登りながら、キマリ兄に心情を述べた。
彼はどうやら年上に恋をしていたらしいけど、俺はまだそれ以前だ。本当に好きなのかわからない。ドキドキしないから、もしかしたら好きじゃないのかもしれない。
「…君は気づいてなさ過ぎるね。今あるものが変わらずにずっとそうでいてくれる可能性って、本当は低いんだよ?」
「……」
「まぁ、何が大事で、それがどれだけ大事だったか、気がつく頃には無くしてる場合が多いけどね。幸い俺の場合は段階が早くて、相手との物理的距離が遠かったし、彼女はもともと誰かのものだったから、ゼロどころかマイナスから勝負は始まってたけど」
俺は春休みの頃を思い返す。小笠原が転任して、このまま会わなくなるのは何か違うと思った。だから写真を返しに行ったし、俺がどう思っているのか告げたのだ。小笠原は誰かのものだなんて思えない。そんな対象は今までなかったはずだ。けれど物理的距離は遠くなったし、そのせいで変わったことに、俺は戸惑っている。順応したいし、変わりたいと思う。けど、進歩はあまりない。
「君の場合はプラスなんだよ。しかも君より相手の方がさらにプラス。恵まれすぎてるから、少しのことですぐ不安になるし、打たれ弱くなる」
「…俺は小笠原に甘えてるってことですか」
「そうとも言えるかも。でも君は多分、甘えていることにも気付かない」
石段を上がりきった。建物は洋風だけどアパートのようだった。縦長でアーチ型の窓がいくつか見える。キマリ兄は建物の門を開けた。人が住んでいる気配はない。そのまま玄関扉を開けて、一度中へ入ったけれど、玄関の真正面にあったドアから再び外へ出て、中庭のようなところへ来た。
「相手が誰かと話してたり、触れ合ってたりしたら気になるでしょう」
俺はこの間の教室でのことを思い出した。吾妻少年が俺の知らない小笠原を知っていて、面白くなかった。
「自分より他人を頼ったり、優先したり、それも面白くない」
「……」
「自分に非があると思って、改善を試みるのに報われないと、落ち込むよね」
「………なんで、そんなに」
最近俺が考えていたこととリンクしている。まるで心の中を覗かれたような言葉だった。
「わかるんですか」
「…当たり?」
キマリ兄は笑った。面白がるようにクスクスと笑いながら、中庭の一角でしゃがみこむ。そこには小さな砂山があった。真ん中には十字架が立ててある。墓、だろうか。
「それが恋ってやつだよ」
「……これが…?」
「なんとなく、君がどんな状態なのかわかったよ。展開は来るところまで来てるのに、気持ちに気付いてないから互いにズレてるんじゃない?」
「……俺、何に気づいてないんですか」
キマリ兄は何か気付いたようだけど、俺は今自分がどうなっているのかわからない。この先どう動けばいいのか、それもわからない。互いにズレているとか、来るところまで来てるとか、具体的に知りたい。俺はほのめかすような言い方で理解できるような人間じゃない。笠馬いわく「果てしなく鈍い」らしいから多分そう。
「知りたい?」
キマリ兄は焦らすようなことを言う。墓の前でしばらく目を瞑っていたけれど、お参りは終わったのか立ち上がって振り向いた。意地悪そうな顔でニヤニヤ笑っている。何が面白いのだろう。
キマリ兄は改めて見ても背は高いし目つきは鋭いし、キマリと似たところがない。さっきの、顔が云々という話からしてキマリは母親似なのだろうけれど、この人と血がつながっているのか疑問なくらいかけ離れて見える容貌だ。百八十前後の俺が身長で負けている。そのせいか威圧感を感じて仕方ない。
「……」
俺はキマリ兄の言葉を待った。何を言うのだろう。威圧されている気がして、その場から数歩後ずさると、キマリ兄はその分前へ歩を進めた。眼鏡が太陽の光を反射している。だから表情が読みづらい。けれど口元は微笑を湛えているから、面白がっているのかもしれない。心臓がドクドク鳴っている。早く言ってくれればいいのに。
「君は、彼女が好きなんだよ」
「………え?」
正直、拍子抜けだった。もっと重要な言葉が飛び出すのではないかと思っていた。好きではないと思いかけていたので、確かにそれは画期的言葉だったけれど、他に何かあるのではないかと思った。
「…それだけ…ですか?」
だから素直にそう尋ねると、キマリ兄はクスクスと笑い出した。
俺は真剣なのに、この人はいまいち人をおちょくったような態度をする…。
「好きなのに自覚がないんだよ。それは彼女にも非があるだろうし、君も悪い」
「…どういうことですか」
「つまりさ、」と言って、再び間が空く。じれったい。わからない自分にも腹が立つ。
「穏やか過ぎるんだよ、君たち」
「穏やか?」
キマリ兄は一歩俺に近づいた。手を伸ばせば届く距離だ。近づかれると威圧感に耐えられないので、俺はまた下がろうとした。けれど両肩を掴まれてしまい、動けなくなる。
何だろうと思った。意図がわからない。
「曖昧な関係だからドキドキもしない。人間は慣れる生き物だよ。相手を好きって意識するには多少の努力が必要だ。君たちみたいにお互い好きあってるなら尚更」
もしかして、いわゆるマンネリ化とやらだろうか。知識として知っているけれど、こういうものだとは思わなかった。慣れすぎているから、俺はドキドキしないのだろうか。
キマリ兄の顔が近づく、目と鼻の先で視線が合うと気まずくて、俺はうつむいて視線をそらした。慣れないことに戸惑う。緊張しているのか、心臓が高鳴る。
「こうやって、相手を間近で眺めたことある?いつもの距離感で相手を見てたら、つまらなくなるのは当たり前だよ」
「……」
確かに、こんなに近づいた記憶はない。俺たちの距離感はいつもテーブル挟んで向かい合うとか、教室の机越しとか、そんなものばかりだった。
「一歩踏み込むと途端に変われるよ…。俺は相手が強引だったから、出会ったその場で意識した」
「……強引って…」
「相手は遊んで歩くのが趣味だったからさ。手馴れた感じでキスされた」
「…き……………っ」
キス。接吻。愛情表現の一つである。そんな知識はあるけれど。
固まった俺を見て、キマリ兄は笑った。そんなに面白いか、人がうろたえるの。
「君は甘えてるんだよ。相手がちょっと冷たいとすぐ拗ねる。君から好きってアピールしないと、彼女も君のこと、なんとも思わなくなるかもよ。今の君みたいに」
そう言って、キマリ兄はようやく俺の肩から手を離した。うつむく俺の頭をポンと平手でたたきつつ、来た道を引き返す。送ってくれるつもりなのか「車でまってるよ」という言葉が背中の方から聞こえた。俺は固まったままその場から一歩も動けなかった。




