九十五話「小さな優しい子猫」
がたんごとん、その程度の言葉では言い表せそうにない揺れの中。動き出した馬車もどきの荷台……もはや箱と言っても差し支えのないそこの隅っこから一個隣のところに、私は座り込んでいた。縛られた人達全員が怯えたように乗り込んだ後、出発した馬車もどき。私の隣に座るのはあれから黙り込んだままの名前も知らない女の子と、あの後すぐ私を心配して追いかけてきてくれたミーアさんで。
話したことがある相手が隣なのは精神的に楽だなぁなんて考えつつも、私は内心激しい揺れに苦しんでいた。実は今でも車やバスなどの乗り物は全般的に苦手なのだが、中でもこの馬車の揺れはひどい。私のトラウマにこの馬車もどきまでもが乗り込んできそうである。いや、根本的な原因は舗装されていない道を走っているからなのかもしれないが。
「…………」
「……どうしたの?」
どれくらいこれが続くのだろうなと、ふとそんなことを思って。けれどそうして俯いたからか、私の視界に映ったのは物言いたげにこちらを見てくる少女の瞳。相変わらずその小さな唇が開かれることはなかったが、彼女の眉間には皺が寄っていた。その下で、赤い瞳が揺れているのだ。ゆらゆら、ゆらゆらと。
……もしかして。
「……大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「……!」
言葉こそなかったが、表情に大きな変化こそなかったが、その瞳に浮かんだ色はシロ様が時折私に向ける色に似ていて。もしかしてという期待のままに笑いかければ、赤い瞳は零れそうなほど大きく見開かれた。言葉を探すかのように僅かにと開いた唇。しかし結局何も見つけられなかったのか、その口からまたしても言葉が聞こえることはなくて。
話すことに慣れていないんだろうなと、その様子からぼんやりと察する。彼女がどれくらいからここに居るのかはわからないが、それはきっと短い時間ではない。少なくとも殴られるのに慣れるくらいには、ここに居たのだろう。こんな環境じゃ、喋ったら喋るだけろくなことにはならない。普通の子供ならば成長する過程で話すことを学んでいくのに、彼女は喋ることが凶になると自ら学んでいったのだ。
「ミコちゃん、具合悪いの?」
「えっと、ちょっと乗り物が苦手で……」
「そうなんだ。でも苦手じゃなくてもこの揺れはきついわよね……」
またしても胸が痛くなる感覚に瞳を伏せて。しかしそれが疲れているように見えたのか、今度は右隣からミーアさんが声を掛けてきてくれた。眉を下げた心配そうな表情は、ここ数十分の間で何度も見てきた表情である。起き抜けの時、私がミーアさんを探して捕まったのだと話した時、さっき髪を引っ張られたのを心配して荷台に駆け込んでくれた時。そうして、今。
正直に言えば揺れるし怖いしで精神的にいくらかきついものがあるのだけど、ミーアさんがこうして心配してくれることでいくらか軽減されている気がする。誰かに気にかけてもらえるとその嬉しさで若干気が紛れるのだ。ミーアさん然り、あの女の子然り。
「……ミコ、ちゃんはさ」
「……? はい」
「父さんとか、姉さん。どんな感じだったかって……わかる?」
けれどその嬉しさが長続きすることはなく。ミーアさんにしては珍しい歯切れの悪い言葉に、私は眉を下げた。そりゃあ歯切れも悪くなるし、気になりもするだろう。自分が誘拐されて、家族はどんな様子だったのか。そういえば起き抜けから色々と考えることが多くて、ミーアさんとちゃんと話すことができていなかったな。じわりとそんな後悔が胸を掠める。ミーアさんもきっと色々と、不安だったはずなのに。
「……二人共、心配してましたよ」
「……そっか」
「レーネさんはその……泣いて、ました」
「……そう、なんだ」
この情報を聞いたところで、今が不安真っ只中の彼女を安心させてあげることはできないだろう。案の定私の言葉に、大切な家族とお揃いの彼女のヘーゼルの瞳はぐしゃりと歪められて。俯いた顔から表情を探るのは難しいけれど、察することは出来た。きっとミーアさんだって今、泣きそうなのだ。あの時妹を心配するあまり客である私達の部屋に飛び込んできた、レーネさんと同じように。
今の私が、言葉で彼女を慰めるのは不可能だ。きっと助かるなんて言葉は気休めにしかならないし、かといって具体的な作戦を誰が聞いてるともわからない中で話すわけにはいかない。ミーアさんやここにいる被害者の人達に心から笑ってもらうには、私達が作戦を成功させて犯人たちを一網打尽にするしかないのだ。そう思えば、もともと秘めていた覚悟はますますと強固になる気がした。かつてのトラウマを、乗り物への恐怖を、今だけは忘れたままにいられるくらいには。
「…………」
そうして、この子の声を聞くためにも。眉を下げた私を見たのか、彼女はまたしてもじっとこちらを見つめてきた。その瞳は変わらず空虚で空っぽのままだったけれど、どこか私を気にかけているように見えて。
「……大丈夫だよ」
「…………」
俯いて黙り込んでしまったミーアさんから視線を逸し、顔の向きを彼女の方へ。そのまま精一杯優しく見えるようにと微笑めば、赤い瞳はまた戸惑ったように揺れた。言葉を向けられるのに慣れていない、笑顔を向けられるのに慣れていない。手負いの猫が毛を逆立てるのと同じように、彼女の瞳は揺れる。
きっと根がいい子なのだろうな、そう思った。私がしたことと言えば何も出来ないまま突っ込んでいったのと、席を譲っただけ。それなのにこの子は不器用に私を気にかけてくれている。ずっと傷つけられてきて苦しくて、だからこれ以上傷つかないために全てを諦めて。そんな目をしているのに、根本には誰かを気にかけるという性質が残っている。すごいことだ。全てがどうでもよくなって、誰かの不幸を呪ったり笑ったりしたっておかしくないのに。
「貴方は、優しい子だね」
「……?」
彼女がどんな目に遭って、自分の身に起こったことをどんな風に考えて、どうしてここまで行き着いたのか。私にはそんなことはわからない。けれど傷つき一人ぼっちになっても、空っぽの心を抱えることになってそれでも尚、彼女は誰かを恨むことをしていないのだろう。
ムツドリ族というのは性質的にそういう風に出来ているのだろうかと、もう一人とても親切にしてくれた金色の瞳の人を思い浮かべて。いやでも種族全体でそうなら、いつか聞いた赤い翼至上主義みたいな人が居るわけがないのか。誰かに優しく出来る性質は、彼女や彼特有のものなのだろう。私は不可解そうに首を傾げた彼女を見て、また小さく微笑んだ。それに再び戸惑うような色を浮かべた、その子の瞳を見つめながらも。
「っ、わ……!」
「きゃ、」
「……!」
しかしそんな穏やかな時間は長くは続かず。突然大きく揺れた荷台に、すっかりと油断していた体は大きく揺れた。ごん、と背後の壁に頭をぶつける。鈍い痛みに思わず顔も顰めるも、そうなったのは私だけではないらしく。突然の揺れに、荷台内部からはあちこちと悲鳴じみた声が零れた。何かがぶつかるような、鈍い音だって。
「……もう! 落ち込んでる時くらい、落ち込ませなさいよ……!」
「あ、はは……」
けれど外からは特に声が聞こえなかった以上、事故が起こったとかそういうことではないのだろう。大方大きな石に乗り上げたとか、そんなところか。隣から上がった恨めしそうな、さりとて気の強い言葉に苦笑を浮かべつつも視線は左隣の方へ。そこに目をパチパチと瞬いたまま、私へと寄りかかっているあの子の姿がある。
彼女はひどく驚いたような表情をしていた。しかしそれは大きな揺れに驚いたと言うよりは、もっと他の何かに驚いたような顔に見えて。見開かれた赤が私を見上げた。恐る恐ると、そんな動きが瞳孔を導く。そうして自分が私に寄りかかっていると気づいたのか、彼女はそのまま身を引こうとした。どこか怯えたような、そんな素振りで。
「楽だったら、そのまま寄りかかってて」
「…………」
「私も誰かにくっついてもらえると、安心するから」
でもその動きは、全身に走った怯えは、私の言葉で一気に抜けていったらしく。呆然と見上げてきた赤に微笑めば、戸惑ったように視線は背けられ。しかしその小さな体は再び壁の方を向くことはなく、大人しく私に寄りかかってくれていた。すりと、一瞬頬を押し付けたのは恐らく無自覚だったのだろう。懐かない猫が懐いてくれたようなそんな感覚に、私は一人笑みを浮かべるのだった。




