九十六話「おいしいパン」
「降りろ」
それから、どれくらい経ったのだろう。激しく揺れ動く荷台の中で酔いそうになったり、具合が悪くなったりを何度も繰り返して。最終的に寝てやり過ごした結果正確な時間はわからなくなったが、それでも結構と時間が経ったであろう頃。突然馬車もどきは停車して荷台は開かれ、そうして現れた黒髪の男は私達に荷台から降りるよう促した。もっともそれは促す、というよりも半強制的なものな気はしたが。
しかし生憎と私が座っていたのは奥の方だったので、この荷台に乗り込んだ時のようにさっさと降りて状況を確認することはできず。手前側の人が恐る恐ると怯えた様子で何人も降りていくのを待った後、私は漸く荷台から降りることが出来た。こういう時奥側は不便かもしれない。乗っている時の揺れは些かマシになる気がするのだが。
「食事を与えるため、縄を一時的に解いてやる。だが逃げようなどと思うなよ」
「……はい」
降りた先では呼び掛けた男が待っていた。どうやら縄を解いてくれるらしい。食事の時は外してくれるだけマシかと、這いつくばってご飯を食べる可能性が切り捨てられたことに安堵して。更に言えば食事を与えられないかもしれない、という想像が外れたのも予想外に嬉しいことであった。荷物として扱う割には、最低限面倒を見る気はあるらしい。それはどこまで言っても商品扱い、という名目ではあるのだろうけれど。
「手を前に出せ」という命令に背中の方で縛られている手を振り返って差し出せば、手付きは乱暴ではあったが縄は解かれる。解放された手首を見下ろせば、そこには紫がかった赤色の痕が残されていた。見ていてあまり気分のいいものでは無い。直球に言えば、グロいというやつだ。
「お前もだ」
「…………」
しかしそうやって私が自分の手首を眉を顰めて見下ろす内に、私よりも奥にいたあの子が降りてきたらしい。振り返れば今にも舌打ちせんとばかりの声音とともに、少女の手首を縛る縄は解かれていく。その時一瞬だけ見えた彼女の腕の痣は、私のものよりも余程痛々しく腫れ上がっていて。あからさまに痛そうなのに、それを知っているはずなのに、それでもあの男は私の時と変わらず……いや私の時よりも乱暴に彼女の縄を解いていた。その態度にまた一つ怒りが積み重なったのを、なんとか堪えつつ。
「……一緒に行こう?」
「…………」
小さく息を吐くと同時、怒りを押し殺して。私はそのままその子の手を取った。恐らくその後を命令されていないから、何をすれば良いのかがわからないのだろう。苛立ったように男の眉が寄っていくのを見ていれば、その場に放っておくことなど出来ず。私は彼女の手を引いて、そっと男から距離を取った。距離を取れば殴られることもないだろう。ちらりと視線を上げれば、そそくさと去っていった私達に男も溜飲を下げたようだったし。
「大丈夫? 辛くない?」
「…………」
そうして連れ立って荷台からある程度離れたところで、私は立ち止まると同時少女の方へと振り返った。当然私に手を引かれていた少女の歩みも同時に止まり、赤い瞳は窺うかのようにこちらを見上げてくる。そんな彼女の視線に合わせるように、私はしゃがみこんだ。今更ではあるが、この子の体調が気にかかったのである。
あの揺れの後な上、縄の下の彼女の手首は随分と痛そうだった。傷の痛みから熱が出るという例も聞いたことがあるし、幼い少女にとってここでの荷物としての生活は苦痛でしか無いだろう。心を捨て去ったとしても、体へのダメージは確かにそこに残るのだ。現に彼女の体は傷だらけの上、痩せ細っている。大丈夫という問いかけには小さな頷きが返ってきたけれど、心配なことに代わりはなくて。
「辛かったら言ってね。……あ、いや、何も出来ないんだけど……」
「……?」
「で、でも……一緒に居るくらいは出来るから」
小さな手を握りつつ、私は苦い笑みで少女を見つめた。痩せ細っているせいか妙に大きく見える赤い瞳が僅かに丸くなって、私の顔だけを写す。その笑顔の不格好さに自分で若干引きつつも、彼女の手を離すことはしなかった。彼女の冷え切った手に少しでも熱が戻るようにと、傷だらけの手にこれ以上傷が残らないようにと、小さな手を優しく優しく包み込む。
私も相当体温が低い方なのに、彼女の手はそれ以下だ。栄養状態が悪く、代謝が上手く機能していないのだろう。シロ様程とは行かずとも、子供の手はそれ相応に温かくあるはずなのに。また一つ虐げられた証を見つけては、胸が詰まるような心地になった。苦しくて苦しくて、仕方ない。彼女に降り掛かった傷を思えば、自然と奥歯を噛み締めてしまいそうになる。でもきっと本当に苦しかったのは、今も表面に出さないようにしているだけで苦しんでいるのは、私ではなくてこの子だ。
「ミコちゃん、こっち!」
「……行こっか」
「…………」
だからこの手を離さない。後少し、この子が助かるまでの間、少しでもこの子を守るために。この子の事情は知らないが、きっと彼女にだって家族がいるだろう。家族じゃなくても、この子を大事に育てようとしてくれた人が居るはずだろう。だってハーフとは言え、この子はムツドリ族。愛に生きる種族の子供が周りから一切と愛されないはずがない。
この子が助かって保護者の人に会えるようになるまでは、それまでは私がこの子を守ろう。もう一つと生まれてきた願望を胸に秘めつつ、私は聞こえてきたミーアさんの声に促されるまま再び彼女の手を引いた。すると、躊躇混じりではあったがやっぱり頷いてくれた少女。私はその子の手を引いたまま、ミーアさんの方へと向かっていったのだった。
「見てこのパン、がっさがさ! 大体私はお米派なのに!」
「あ、あはは……」
そんなこんなで二人並んで向かった先では、二つのパンを手に持ち怒り狂うミーアさんが居て。先程までは落ち込んでいた様子だったのだが、どうやら今では悲しみよりも怒りが勝っているらしい。小声で怒り散らすミーアさんに器用だなぁと苦笑しつつ、私はちらりと左側の方に目をやった。
「あそこで貰える、んですか?」
「そ! まぁ、味に期待はしない方がいいわ」
向けた視線の先、荷台から離れたところには列が出来ている。遠目から様子を窺うに、どうやら銀髪の男が一人当たり二つとしてパンを配っているらしい。……いや、様子を見るに子供は一つか。ただでさえ足りない栄養をパン二つで賄おうとするどころか、まさか省こうとするとは。つくづくの浅慮に内心の私は溜息のバーゲンセール状態である。人生でこんなにも溜息を吐いてるのは初めてかもしれない。売れて嬉しいものでもないのに。
「でも、食べなきゃ持たないわよね……」
「……そうですね。もらってきます」
しかしそんなどうでもいい思考は、ミーアさんのおかげで流れていった。そうだ、食べなきゃ何をするにしたって持たない。あからさまに美味しくなさそうなパンでも、ありがたい食料であることに変わりはないだろう。そう考えた私は一度ミーアさんから離れて、パンを貰いに行くことにした。勿論、赤髪の少女とも一緒に。
「はい、二つ。お前は一つだ」
「……ありがとう、ございます」
「…………」
……そうして、列に並んで待つこと数分。たかだがパンをもらうだけ、前に並んだ十数人が過ぎ去っていくのはあっという間だった。並び終えたところで案の定私には二つ、少女には一つとパンが与えられる。一瞬何故と口にしそうになって、けれどそれをぐっと堪えて。私はそのまま、少女の手を引いてミーアさんの元へと戻った。あのままあそこにいては、またしても犯人側に食って掛かってしまいそうだったので。
出発する前に小さな騒ぎを起こしている以上、ここでまた相手に逆らうのは得策ではない。まだ「ツヅリカの部隊」とやらにも合流しておらず、「森の奥」という目的地にも着いていない様子なのだ。車で舗装された道を走るのならばともかく、あんなボロの馬車もどきで大人数を運びながら森の中を走るのは大分無茶があるのだろう。この時間は小休憩とでも呼ぶべきか。ここで一晩休むのか、それとも食事後に走り出すのか。それはわからないが、少なくとも今目を付けられるのは得策ではない。
「貰ってきました」
「ん……おかえりなさい。あんまり美味しくないけど、食べれなくはないわよ」
「ふふ、なら良かったです」
「一日これ一食なのは、大分きついけどね」
事を起こすのならば、ツヅリカの部隊とやらに居るかもしれない被害者を見つけてから。ミーアさんと小声で会話を交わしつつも、地べたに座り込んで。そして私はミーアさんの言う、あまり美味しくないパンを食べることにした。当然少女も私に釣られるがままに座り、おずおずではあるがパンを食べ始める。
「……んぐ」
「……ん」
「…………」
乾燥しているのか、中々に口の中の水分を持っていかれるパン。当然砂糖やバター、それどころか卵すらも使っておらず、小麦粉を焼いただけという印象だ。だがまぁ、ミーアさんの言う通り食べられなくはない代物ではあった。この世界に来たばかりの私であればギブを告げていたかもしれないが、生憎とこちらは味のないお肉を主食に森で二週間過ごした身なのだ。味気のない食事にはすっかり慣れてしまっている。だからこそ桃花の宿や海嘯亭のご飯はとても美味しかったのだが。
三人で無言でパンを咀嚼する図は中々にシュールだな、なんてことを頭の端っこで考えつつ。でもそうしなければ口の中の水分が持ってかれるので、これは色々と仕方のない処置なのだ。周りも知り合いで固まりながら、けれど無言の食事を貫いているし。遠目には黒髪と銀髪の男が何かを食べている姿も発見できた。ちらっと見た限り、パン以外のものを食べているようである。子供たちにはパン一つで、自分たちは普通の食事。成程これが殺意というものかと、内心で頷いて。
「……一個どうぞ」
「……!?」
「お腹いっぱいだから、食べてくれると嬉しいな」
だが彼らがあそこに居るのならば一々私達の行動が目に入ることもないだろう。逃げ出すのは無理だが、パンを渡すくらいならばれないはず。そう考えた私はパンを一個食べ終えると同時、もう一つのパンを少女へと差し出した。すると、大事そうに一つのパンを食べていた少女は私のその行動に瞳を大きく見開く。信じられないと、今までにないくらいに彼女の表情は感情を物語った。
「あら、それなら私のも食べなさい」
「……!?」
「成長盛りなんだから遠慮しちゃ駄目よ。利用できる大人は利用しなさい」
「ミーアさん……」
だが、彼女の限界点はそこではなかったらしい。私に続くようにパンを差し出したミーアさんに、少女はもはや目が転がっていきそうなほどに目を見開いて。しかし押し付けられたせいか、少女の手には一つの食べかけのパンと二つのパンが握られる結果となる。乾燥パン三つなのが少し侘しいが、量的には問題ないはずだろう。
悪いことを教えようとしているミーアさんを窘めつつも、視線は少女へと向けたまま。彼女は未だ戸惑うように、躊躇うように私達とパンを見つめていた。どうすればいいのだろうと揺らぐ瞳はどこか、小さい頃の私を見ているようで。だから私はそのパンがもう彼女のものなのだと、それを教えることにした。
「……はい、貴方のだよ」
「…………」
少女の手の中にある、私が渡した方のパン。それの先端をちぎって少女の口元へと近づければ、彼女は再び戸惑うように瞳を揺らした。そんな彼女に促すかのように優しく微笑みかければ、意味がわかったのか少女は口を開く。そのままその口にちぎったパンを放り込めば、慌てたように少女は咀嚼を始めて。
「美味し……くはないか。ゆっくり食べてね。あ、でもあの人達にはばれないように……急ぎ気味で?」
「……それ、結局どっちなのよ?」
「あはは、わかんなくなっちゃいました」
「適当ね」
小動物のようなその姿を見下ろしつつも、呆れたように突っ込んできたミーアさんに笑みを返す。生憎とパン一個では足りないが、少女がお腹いっぱいになれるのならこのくらいの代償は軽い気がした。私は昨日しっかりとしたご飯をたらふくと食べているわけだし、今日一日くらいは何も問題はないはずだ。それに拐われているというこの現状は、数日も掛けずに解決すると心に決めているのだから。
恐らくミーアさんも、形は少し違えど似たような気持ちだったのだろう。私に対しては呆れたような視線を向けてきたものの、一生懸命にパンを頬張る少女に向ける視線はどこか優しい。私とは違い助かる見込みもないのに、それでも誰かに優しく出来る。彼女のような人こそが真に優しい人なのだなと、少し関心したりして。
「……おい、しい」
……そんなことを考えていた私は、気づかない。二つ増えたパンを懸命に頬張っていた少女が、慣れきっていたはずのその味に感動していたことなんて。誰にも聞こえないほどの小さな声で、何かを呟いていたことなんて。そうしてそんな彼女の耳が、僅かに色を取り戻していたことにも。そんな些細な変化に気づいた人は、この時点では誰一人として居なかったのだ。




