九十三話「過去の記憶とかつての自分」
『うちでは引き取れないわよ』
『そんなのうちだってそうよ! うちにはもう息子も娘も居るんだから……!』
夢を、見ていた。きっと私が思うよりも有り触れた、どこにでもあるような、けれど私の中で確かな傷となっている出来事を。両親が亡くなって、大した怪我もないと病院を退院して、それから。
それまでずっと付いてくれていた祖父祖母が葬儀の準備で忙しくしている中、どこかから聞こえてきた声。それは確か、色々と忙しいだろうと手伝ってくれていた親戚の人たちの声だった。どうしてそんな話になったのかは知らない。誰かの「引き取らなければいけないのでは?」という不安が誰かに伝染して、そんな話になったのかもしれない。でも当時の私には、そんなことはどうでも良かった。
『可哀そうだけど、うちでは……』
『私も……そうね……。城崎さんご夫婦もご高齢だし……』
『誰か必要としている人が居ればよかったんだけど……』
おばあちゃんとおじいちゃんが暮らす家の中、襖の先から聞こえてくる声。私は襖の外枠に手を当てたまま、心底困ったような声音で話すその人達の声を聞いていた。多分、誰が悪いわけではなかったのだと思う。あの人達は私の前では決してそんな話をしなかったし、それを私に聞かせないようにするという良識だってあった。
そう、きっとたまたま。私がたまたま話し声に引かれてそこに来てしまっただけ、たまたま折り悪くそんな話をしていただけ。親戚の人たちにもそれぞれ家庭があって、私を引き取れない事情だってあった。可哀想だからという理由だけで無責任に犬猫を拾ってはいけないように、その人達のその行動はある意味誠実なものではあったのだと思う。
『……っ』
……でも、当時の私には。自分の我儘のせいで両親が亡くなってしまったと考えた幼い私には、それが「要らない子」を突きつけられているような気がしたのだ。誰も必要としていない、要らない子供。我儘で両親を殺した、最悪な子供。どうしたら、どうすればと盛り上がっていく話を他所に、私は一人襖の外で唇を噛み締めていた。ただ苦しくて、仕方なかったのだ。
けれどふと、そんな私の頭に何かが触れた。
『なら、俺が引き取るわ』
『……!』
その手の暖かさを、その声の優しさを、何一つだって忘れやしない。まるで使わなくなったおさがりを引き取るかのような軽い声音に、けれどこっちがびっくりするくらいの本気を込めて。そうしてその人は、私が開けられなかった襖を解き放った。見上げた表情を、覚えている。泣きたい時は泣けと、そう茶化した声だって何一つ薄れること無く。
その人はその後非難を轟々と喰らって、散々と周りに怒られまくって。やれ貴方は独身だから不安だの、職業が不安定だから要らぬ苦労を掛けるだの、親戚の人たちにそんな言葉たちをぶつけられていた。けれどその人はその言葉たちに面倒くさそうな表情を浮かべても、決して傷つくことはせず。
『責任ねぇやつが外野から……うるせぇよ』
『な……!』
『文句言いてぇんなら俺とおんなじ責任果たして、俺とおんなじ土台に上がってから言え。責任の無いやつの非難ほど聞く価値のねぇもんはないだろ』
自分が殴られる覚悟で上がってこいよ。そう言ったその人の表情や言葉はとても乱暴だったけど、きっと子供に聞かせるには相応しく無いものだったけど、当時の私には一本と線が通ったものに聞こえて。……いや、それは今もそうか。
自分だけ安全圏に身を置いて、何の責任も背負わないまま。そう在るなと私に教えてくれたのはその人だった。口を挟みたいのなら、正しくないと声高に叫びたいのなら、自分が大火傷する覚悟を持って突っ込めと。そうでなければどれだけ高尚な言葉であったとしても、美しく聞こえる言葉だったとしても、全ては無価値と化すから。
責任のないことはするな、やると決めたなら最後までやり通せ。遠い夢の世界で、あの人のそんな声が聞こえた気がした。
「……!」
けれど、夢の世界の終わりはいつだって突然で。遠くなっていく背に手を伸ばすように体を起こせば、瞼の奥で揺らめいていた陽炎はかき消えてしまった。ぱちと、瞬きを一つ。しかし再びと瞼を閉じても開いても、やはりそこにその人は居なかった。
更に一拍と経ったところで、私はそれが夢だったことを自覚する。そういえばこんなところにあの人が居るわけはなくて、更に言えば私は今何かしらの作戦中で……。何をしていたのだったかと、寝起きのぼやけた頭がぐるぐると答えを探しては彷徨う。若干痛む腹部に、答えはあったはずなのだが。
「……あ、起きた?」
「……? みーあ、さん」
「ええ」
場所は見覚えのない森の中、何故か手は後ろで縛られている。まるで質の悪い睡眠から目覚めた後のように朧げな思考の中、私はどうしてこうなったのかを思い出そうとしていた。そんな中聞こえてきたのは、どこか聞き覚えのある声。反射的に声の聞こえた方へと視線を向ければ、ヘーゼルの瞳と目が合った。同じく手を後ろで縛られながらも三編みを垂らすその人、ミーアさんが。
……ミーアさんが?
「……ミ、ミーアさん!?」
「わっ、急に大きい声上げて……」
その瞬間ここに来るまでの経緯、その全てを思い出した私は思わずと大声を上げてしまっていた。一瞬普通に名前を呼んでしまったが、そう言えば彼女を見つけるために私はこんなことをしているのだった。正確に言えば彼女に加え、顔も知らないフェンさんの奥さんとお子さんを探すことも目的の一つなのだが。
そうだ、なんだか奇跡的に相手がこちらの望み通りの行動……即ち私の誘拐を起こしてくれたのだった。腹部が妙に痛むのもそのせいである。お腹を殴られた後私はきっと強い衝撃に意識を失って、そしてその間にこの森まで運ばれた。それが法術によってのものか手作業だったのかはわからないけれど、ひとまず囮捜査は成功したということである。
「そこ、うるせぇぞ!」
「す、すみません……」
「ちっ……」
しかしそこで飛んできたのは鋭い怒鳴り声で。私を拐った獣人ではない、あからさまに厳つい顔の人間の男が私を厳しく睨みつける。拐われたばかりで混乱しているとでも思ってくれたのか、直ぐに謝れば舌打ちと共に顔を背けられたが……。それは許されたと言うよりは、見逃されたと表現するほうが近い気がした。きっと何かおかしな行動に出れば、あの男は私に暴力を振るうことを戸惑ったりはしないだろう。私を拐ったあの獣人の行動が答えだ。
「……あの、私、どうして……ここ、は……?」
「……ミコちゃん」
思ったよりも状況はあまりよろしくないと、そんなことを考えつつ。私はまるで突然拐われて状況が掴めていません、と言わんばかりにか細い声を上げた。それと同時に視線を俯かせる。少しでも無力で頼りなさそうな女だと、そう思ってくれればいいのだが。
しかしその演技もどきはどうやらミーアさんには効いてくれたらしい。悲しそうな声で名前を呼ばれたところで、私はゆっくりと視線を上げる。恐る恐ると、出来るだけそう見えるように。瞬間、いくつかの人影が目に入った。私達の近くで手を縛られている人たちは恐らく、全員奴隷として拐われた人なのだろう。私を怒鳴ってきた人間の男の他に、縛られていない人は視界に入る限りでは四人。十数人の奴隷に、五人の見張り。見張りの人数の基準はわからないが、些か慎重寄りとはいえ順当であるようには感じた。つまり、あらかた予想通りということである。
「私達はね、奴隷騒ぎに巻き込まれたみたいなの」
「……奴隷騒ぎって、あの……?」
「……ええ」
伏し目がちにして悟られぬように辺りを伺いつつも、声は震わせて。少しでも怯えているように見えたらいい、無力な小娘と思われればいい。油断した隙に喉元を突き刺せ。そんなことを言っていたシロ様の表現は些か物騒だったけれど、その言葉に決して間違いはない。他でもない私が、今からそれを実行するのだから。
「おいお前」
「……な、なんですか……?」
さりとて、怯える私を気遣わしげに見つめてくるミーアさんに対しては若干申し訳なく思いつつ。だが敵を騙すのならばまず味方から、とは有名な言葉である。先人の知恵に乗っかりつつも、私はそこで話しかけてきたさっきの男の方へ視線を向けた。
男は不機嫌そうに私を見つめている。その態度を見ただけでわかることと言えば、この人はきっと不機嫌で誰かをコントロールしようとする人なのだろうなということで。それならばその目論見に乗ってやろうとわざとらしく肩を跳ねさせて、私は怯えるようにその人を見上げた。すると溜飲が下がったのが、彼は鼻を鳴らしながらもゆっくりとこちらへと近づいてくる。血の通わない緑の瞳は、暗く暗く淀んでいた。
「なんであそこに居た。そして何をしていた」
「そ、れは……」
「言え!」
矢継早の問いかけ。それに怯えを示すように言葉を詰まらせれば、苛立たしげに瞳は細められる。ぶっちゃけて言えば、棘のある彼の視線はとても怖い。だって選択肢を間違えればこの作戦はパーとなるし、私だって惨たらしく殺されるかもしれないのだ。でもだからこそ、恐怖に負けずに立ち向かわなければならない。こうすると決めたのは他でもない、私なのだから。
「……ミーアさんが居なくなってしまったので探していて、そうしたら法術の痕跡が残ってる場所を見つけて」
「…………」
「そ、それで……手がかりはないかと……」
半分本気、半分演技を心がけつつ私は視線から逃げるように俯いた。ちょっと法術に長けているだけの少女を装いぽつぽつと答えを紡げば、納得したのか男はまたしても鼻を鳴らすと同時に去っていく。どうやら疑われずには済んだらしいと、ばくばくと動く心臓を抑えては息を吐いて。
実際、今言った言葉は嘘ではない。ミーアさんを探していたのも、法術の痕跡を見つけたのも、手がかりを目指したのも、全ては本当のことだ。ただ言っていないことがたくさんあるだけ。私は嘘を吐くのが得意ではないので、こうして大事なことを隠すように話したほうが自然になるということである、最もこれは、シロ様との作戦会議で予め言うのを決めていた台詞なのだが。攫われたのなら十中八九と聞かれることだというのは、こちらとしても織り込み済みだったのだ。
「……私を探してくれてたのね。それで……」
「み、ミーアさんのせいじゃないです……! 私が、勝手に」
「……ありがとう。でも、本当にごめんなさい」
しかし罪悪感はますますと煽られる結果と終わってしまった。宿ではあんなにテンション高く話しかけてきたミーアさんが、まるでレーネさんかのようにしおらしく落ち込んでしまっている。それはそうだろう。自分を探そうとしてくれた人が同じように攫われたとなれば、私だって落ち込む。一応首を振って彼女のせいではないことを告げておいたが、気休めのような言葉がそう容易く届くわけはなく。ミーアさんはどうやらすっかりと落ち込んでしまったようだった。
「み、ミーアさ、……?」
「……どうしたの?」
「あ、いえ……」
なんとか彼女の気を持ち直す言葉を見つけられないかと考え、いやしかし今話しまくるのは目立ってよくないのではという躊躇が生まれ、若干テンパっていた私。思わず視線を右往左往とさせて、どうするべきかを考えて。けれど私はそこで目に入った一人の少女に、思わず目を奪われた。どうしたの、そう尋ねてきたミーアさんの言葉に視線を彼女の方へと戻せないほど。
「…………」
「……ミコちゃん?」
その少女は、縛られている人の中でも一層と薄汚れていた。傷跡ばかりが頬や体に残り、見ているだけで痛々しくなってしまうほどに傷ついた幼い女の子。その子の空洞めいた瞳は、私をじっと見つめていた。赤色の綺麗なそれに一切と光を宿さないまま、淡々と。
しかし私が彼女に目を奪われたのは、視線を向けられていたからと言うだけではなくて。彼女の耳は片方だけ、人のものではなかったのだ。薄汚れているせいでわかりづらくとも、その片方の耳は確かにレゴさんと同じムツドリ族のもの。ハーフとは言え完全な人間ではないその子が居ることに、私は静かに動揺していた。けれどそれよりも、心の奥に湧き上がったのは一つの感情。不安そうなミーアさんの声も聞こえないまま、私はただ少女を見つめていた。例え戸惑ったように彼女が僅かに眉を寄せても、動けないまま。何故か、その答えは直ぐに心に返ってきた。
それは、あの子の瞳にどうしようもないほどの見覚えがあったから。かつての私のような瞳を、彼女が抱えていたから。だから私はその少女から目が離せないまま、暫くの間光のないその瞳と見つめ合っていたのだった。




