九十二話「夜の街を一人」
そうして、時刻は夜。昼間に比べて気温が下がった真っ暗な世界の中で、私は一人歩いていた。ブーツの爪先が白い石で出来た道を歩く度、かつりと硬質めいた声を上げる。その音を聞く度に積もっていくのは小さな緊張感。薄くも確かに質量を持ったそれが重ねられる度、私は浅く息を吸った。心臓の鼓動が妙に大きく聞こえる。
夜のウィラの街は、昼の喧騒とはまた別の賑やかさを放っていた。子供たちの姿は一切と見えず、辺りを見渡せば時折見える人影は大人ばかり。遠くから聞こえた怒声は、何かを囃し立てるようなものにも聞こえて。ふとすれ違った腕を組み合う男女の姿に、慌てて視線を他所の方へと向けた。なんというか、場違いな気がする。こういう時に自分はまだ子供だと、そんなことを実感してしまうのだ。
「…………」
小休憩のために一度立ち止まって俯けば、目に入ったのは左手。いいや、わざと意識してそちらを見遣ったという方が正しいのかもしれない。緊張感からか自然と握られてしまった左手のその小指には、指輪は見られない。それに小さく息を吐いて、私はまた歩き出した。大丈夫、私は一人ではない。例え姿が見えなくても、離れていても、私のことはシロ様が見守っていてくれているのだと。そう思えば、手に込められた力は自然と解けていく気がした。
『その指輪に関しては、我が法術で隠せばいいだろう。ついでに左目も。眼帯は目立つからな』
『え? 出来るの?』
海嘯亭から出て百メートル程だろうか。ミーアさんが姿を消したと思わしき目的地へと進みながらも、私は昼から夕方に掛けてまで続いたシロ様との作戦会議を思い出していた。まず、指輪の問題とついでに眼帯下の左目に関してはあっさりと解決。何故ならばシロ様が耳や尻尾を隠す要領で私の指輪と傷跡を隠してくれたからである。
『……どうだ?』
『わ、ほんとだ……見えないね』
『お前が新たに法術を使わない限りは、それが解ける恐れもない。故に使う機会は良く考えろ』
『うん、わかった』
真剣な表情で告げられた言葉を思い出す。シロ様曰く、現在進行系で繋いでいる不可視の糸以外の新たな法術でも使わない限りは、この法術が解けることはないらしい。けれどそれは逆転すると、法術を使えば指輪は見えるようになってしまうというわけで。シロ様の言ったように、法術を使うタイミングはよく考えなければいけない。
しかし指輪を着けている感覚はあるのに、見えなくなっているというのはどこか不思議だ。左目だって相変わらず感覚はないのに、周りから見れば瞳が嵌っている用に見えるのだろう。更に言えばこの法術の仕組だって謎が多いような。物の姿や形を消すなんて、やっぱり四大属性のどれにも当て嵌まっていない気がする。これに関しては後でシロ様に色々と話を聞きたいところだ。
「……!」
だが、それはあくまで後での話である。ふと前方に見えたお酒を呑んだと思わしき男の人達の集団に、私はそっと道を開けた。限界まで近くにあった家の壁に張り付いて影が薄くなるようにと努力していれば、幸いにもその努力は実ったようで。賑やかに話しながら去っていった集団を見送って、私は安堵の溜息を吐く。今日ばかりは自分の影の薄さに大感謝だった。
夜の街はシンプルに治安が悪い。これもシロ様から言い聞かされたことである。お酒を呑んで酔っ払ってしまっている人や、後ろ暗いことがあって夜にしか街を歩けない人など。そういう人たちと関わって余計なトラブルを招かないようにするため、基本的に街を歩く人には近づかないこと。策を台無しにしたくないならな、と告げた少年の瞳を思い出した。
「……よし」
現状、台無しにはなってないはず。壁から体を離しながらも、私はまた歩き出した。目的地はそう遠くないはずなのに、なんだか随分と気疲れしてしまっているような。けれど、ここで弱気になってはいけない。これから敵の口の中にまで乗り込む可能性もあるというのに、今からそんな調子では到底体が持たないだろう。今度は緊張からではなく覚悟を込めて拳を握って、私は先程よりも少し早足で進んでいった。
『あの法術って、すごく大掛かりなんだよね?』
『ああ』
『……それならあそこに術を使った人が現れて、私がすごく遠くに拐われることってあるのかな?』
そうして進んでいく中で思い出したのは、またしても作戦会議中の問答。私の問いかけに、シロ様は不思議そうに瞳を瞬かせた。予想外なことを言われたと言わんばかりの表情に、私は戸惑って。一瞬自分の思考がそんなにおかしいものなのかと、そんなことを考えてしまうほど。
『いや、それはない。せいぜいがこの街の外の海辺や森に飛ばせるくらいだろう』
『ええと、根拠は?』
『今回の法術は痕跡を見るに大掛かりとは言え、人間が実行できる程度の範疇だ。人を遠くまで飛ばすのならばあれよりも大きな痕跡が残っただろう。……そもそも、人を遠くに送るのは我らのような幻獣人にとっても不可能に近いことだ』
『そ、そっか……』
けれどそれは当たらずとも遠からずだった。どうやらいくら大掛かりとは言えど、そこまでのことをするにはあの痕跡では収まらないらしく。というかそもそもその術の実行自体がほぼほぼ不可能なものらしく。レイブ族ならば或いは国を超えた転移も可能かもしれないな。そう頷いたシロ様のフォローは若干堪えた。微妙そうなあの表情を見るに、遠くに人を飛ばすのはとても難しいことらしい。
ワームホール、だったか。いつか橋本くんが得意げに語ってくれた事を思い出す。話の内容はぶっちゃけ小難しすぎて覚えてないが、結局人間が瞬間移動するのはほぼ不可能に近いという結論だったような。理論があっても実行は難しい。多分それは、法術においても同じことが言えるのだろう。方法があってもエネルギー……つまりは、法力が足りなければ意味がない。
「……はぁ」
思い出せば、じわりと頬が熱くなる。私の懸念事項の一つは気にしても意味がないことだったのだ。不安な部分が一個確かに潰れたのは大きいことだが、シロ様のああいう表情を見る度に思う。私にはやっぱりこの世界の知識とか、常識とか、そういうものが圧倒的に欠如しているなと。倫理観だけは一応、まっとうなものを持っている自信があるのだが。
まぁ、今更この世界での自分の常識のなさを気にしても仕方ないだろう。そろそろ本格的に学ぶ必要はあるなとは思うが、それもやっぱり今ではない。考え事をしたせいか若干力が抜けてリラックスできた体に安堵しながら、私はそこで道を右に曲がった。入ったのは路地裏。そこを数十歩ほど進んだところで、硬く響いていた足音はまた止まる。しかし今回は休憩のため、足を止めたわけではなかった。
「……着いた」
路地裏は行き止まり。そこにはなにもない。けれどこここそが、シロ様が痕跡が残っていたと告げた場所なのだ。到着を伝えるために軽く小指を数回引くように動かせば、数秒後に引っ張られるような感覚が返ってくる。どうやら糸は繋がっているし、遠くから見ているシロ様もこの状況を把握できているらしい。ここまでは順調だ。
「えっと……」
だが、ここからが一番の問題なのである。私は一度生唾を飲み込むと同時、何もないように見える壁に手を触れた。当然、何かが起こるわけもない。いくらこの辺りに法術の痕跡が残っていようがこの壁はただの壁で、触れたところで冷たく硬質的な感触が返ってくるだけだったのだ。しかしそれを表情には出さず、私は壁をゆっくりと撫で回した。まるで何かを探っているようだと、周りにそう思わせるために。
……果たして、これで釣れるか。何かを検分するかのような涼しい顔の下に汗を隠す。想定したプランは三つ。されど相手が私達の予想の外の行動に出る可能性だって捨てきれない。相手は人を平気で攫う犯罪者なのだ。一般的ではない考えや行動を起こすことだって考えられる。そんなことを考えれば、本当にこの行動が正しかったのかという不安が今更込み上げて。
けれどそこで小指が三回、素早く引かれる感覚がした。
「ぐっ……!」
「……どこで嗅ぎつけたんだか」
次の瞬間、腹を強く殴られる感覚。いつかのあの衝撃よりも直接的なそれに、全身に苦痛が走った。耐えきれずに口からは出来損なった空気が零れ、視界は明暗を繰り返す。そうしてそのまま倒れ込みそうになったところで、けれど私は荷物のように乱暴に抱えられた。覚悟していたとは言え、やっぱり殴られるのは痛い。強い衝撃に、意識の境界が曖昧になった。でもそんな痛みの中に、一つの確信が浮かぶ。
「まぁ、人数的には足りなかったところだ。都合がいいか」
ぼやけていく視界に映ったのは、人間にはないなにかの動物の耳。相手は獣人、法術は使えない。だから一回ではなかった。そして見たところ、武器を持っている様子もない。というか武器を持っていたのなら、武器で攻撃したはずだろう。それをしなかったからこそ、二回も過ぎた。かといって、感覚は確かに指に残っている。気の所為ではない、確かにシロ様は三回指を弾いたのだ。
『我が遠くから相手を見る。そして、お前に合図を送る』
『合図?』
『ああ。法術を使いそうだったら一回、武器を持っていたら二回……というように、指を引く』
一番の懸念事項だった、相手の出方とそれの危険性について。散々と話し合った結果、私達は合図によってそれを解決することとした。糸を引けば指が引かれるという、その法則を利用したのだ。
一回か二回ならば、相手が殺しにかかってくる可能性がある。その場合私は躊躇せずに、いつかあの極悪蝉の動きを止めた糸を使って迫ってきた人物を止める。もし相手が逃げたのなら、指を引く回数は四回。シロ様は追跡を開始して、私は宿へと戻る。けれど三回だったのならば。今しがた引かれたように、三回だったのなら。
「生贄になってもらうぜ、嬢ちゃん」
相手は素手、目的は誘拐の可能性が高い。望んでいた三つ目のプランの成功に小さな安堵と緊張を抱きつつも、殴られた影響か私の意識は暗闇の中に落ちていくのであった。




