八十三話「貴方のことを知りたい」
それから、どれくらい経ったのだろう。気づけば眠っていた私は、ふと喉の乾きを覚えて目を覚ました。重い瞼を無理に開きながら、倦怠感の残る体を引きずる。ぼやけた視界に映った世界は未だ暗く、時刻はまだ朝を迎えていないようだった。
「……しろ、さま?」
そこで感じた違和感。私を守るように囲っていてくれた熱がどこにも見当たらない、そんな喪失感を感じ取る。ようやっと明確な意識を取り戻して辺りを見渡せば、確かに一緒にベッドに入ったはずのシロ様はどこにも居なくて。それどころか、隣のベッドにだって彼は居ない。この部屋の、どこにも。
その事実を一拍の後に脳が咀嚼して、そうして私は慌てて起き上がった。シロ様が居ない。私が作った簡易的なベッドの中ではフルフが健やかに眠っているというのに、シロ様だけが居ないのだ。まさかこのそう広くない部屋で見落とすなんてことは考えられないし、隠れる場所なんて碌に無いのである。そもそもシロ様が隠れる理由もわからないし。
「ど、どこに……?」
考えられる理由としては二つ。自分でどこかに行ったか、それとも誰かに連れ攫われたのか。普通に考えれば前者であると思うのだが、後者の可能性も捨てきれない。シロ様は確かにとても強くとても頼りになるが、それでもまだ子供なのだ。眠っている内に連れて行かれた可能性が無いとは言えないだろう。ここいら付近では奴隷関係の物騒な噂があると聞いているし。
だがシロ様がそう簡単に連れ攫われるものだろうかという疑問もある。シロ様であれば部屋に入られた瞬間に気配を察知し、犯人を華麗に撃退してしまいそうだ。そう考えるとここで騒いで大事にしてしまうのは、後々シロ様の迷惑になるかもしれない。そうやって思考を巡らせながらも、ひとまずはベッドから降りようとした私。しかしそうして足を床へと着けた瞬間に、私は目を剥くほどに驚くこととなった。
「……起きたのか、珍しいな」
「っ!?」
何故ならば先程までその影すらもなかったシロ様が、突然と扉を開けてその姿を現したからである。私と言えばそんな突然の出現に驚きの声を上げることすらもできず、咄嗟に体を引いたせいかそのままベッドへと倒れ込んでしまって。ぽふん、そんな間抜けな音が静まり返った部屋に響いた。何をしている、少し遠くからは呆れたような声が聞こえる。……いや何をしている、ではなくて!
「ど、どこに行ってたの!?」
「……毛玉が起きる。声量を下げろ」
「あっ……」
勢いを付けて再びと起き上がりながらも、思わず声を荒げて問いかけてしまう。しかしその声量に眉を顰めたシロ様が、ちらりとフルフの方を見遣るから。私は反射的に両手で口を抑えながらも、同じようにフルフの方へと目を向ける。どうやら今の叫びでは起きなかったようだ。寝汚いと言えば悪口になってしまうかもしれないが、今だけはフルフのそれに助けられた。
すっかり夜であるということを失念してしまっていたなと、胸中で反省しつつ。私はさっきよりも冷えた頭でシロ様を見上げた。よくよくと見てみれば、普段はサラサラの白銀の髪が僅かにぺたりとしているような。白皙の肌にも、汗が伝って生まれた玉が飾られている。つまりシロ様は動いていたということで、そこから推察できるのは。
「……情報収集……ううん。もしかして、特訓とかしてた?」
「後者で正解だ。我はまだ未熟、日々の鍛錬を疎かにすることは許されない」
今度は声量に気をつけながらも恐る恐ると問いかければ、夜中とは思えないほどに明瞭な返事が返ってくる。そうして自分が未熟だと言い切った少年は、部屋に備え付けられていたタオルで乱暴に頭を拭った。到底彼の持つ繊細な容姿とは似つかない、粗雑な仕草で。
言いたいことは、色々とあった。それでもこんな夜中にすることではないだろうとか、まさか今までも私が寝入った後にこんなことをしていたのかとか。勿論疑問だって浮かんだ。そもそも鍛錬とはどこで何をしているのか、走り込みとかなのだろうか、などの。しかしそれでも私が一番に聞きたいと思ったのは。
「シロ様、あんなに強いのに……?」
そう、それだった。シロ様は強い。普通の熊よりも余程凶暴な熊もどきも何のその、人間が何人と束になっても大惨劇の結果で終わるあの蝉を単身で倒し、風の法術の扱いにだって長けている。それなのに自分を未熟とそう言って、まだ努力を重ねるのか。決して慢心すること無く、驕ること無く。その真っ直ぐな瞳に、確かな次を見据えて。
「武の道に終わりはない。例え敵が誰も居なくなったとしても、己という敵が消えることはないからな」
「……自分が、敵なの?」
「そう習った。過去の自分に負けるようでは、武の名折れだと」
私の戸惑いを乗せた声に、けれど何を思ったわけでもないのだろう。淡々と告げるその声には、何の色もなかった。ただ当たり前のことを告げているだけだと、何よりも声音が語る。例えば朝起きてご飯を食べるように、夜眠る前にお風呂に入るように。きっとシロ様は多くの人にとっての当たり前を語るのと同じように、純粋に告げているだけなのだ。己にとっての、武という価値観を。
……過去の自分に負けないように。その言葉が胸に突き刺さった。そこには過去に縋る自分、というのも内包されているのだろうか。だからシロ様は振り返らずに前を見て、歩くのだろうか。時折人を信じられないという傷が表面に現れてはその痛みに喘ぎ、喪失の記憶が頭に過ることがあっても。それでも尚、私を守ることをやめない彼は。他人と、私と居ることを選択した彼は。
私はずっと、それが出来ないままなのに。
「……どうした?」
「……ううん、ただ」
視線を俯くのと同時、相変わらず小指から外れない指輪が視界に入る。夜の闇の中でもそれが翳ったままなのはわかった。それを見る度に、心が抉られそうになる。私の心が、この乳白色に影を与えた。表面上は平気に振る舞えても、それをまざまざと見せつけられる度に苦しくなって。
「……私も、特訓をしてみようかなって」
「……!」
だがそれでも、いつまでも逃げているわけにはいかない。過去を変えることは出来ないからこそ、今で乗り越えなければ。そんな大切なことを今教えてもらったのだ。私よりも小さくて、けれど私よりも強い貴方に。
願えば、乳白色の石からは糸が伸びる。相変わらず弱々しいままのそれは、死にかけた虫のように部屋をよろよろと彷徨って。明暗を繰り返しては苦しげに倒れ込んで。まるで私の心を、弱いところを、そのままに表しているかのようだ。願いながらも、願うことに怯える。今の指輪は私の心の底の矛盾を、嫌になるくらいに私に見せつけていた。いっそのこと憎らしくなる程。
「……っ、」
しかし私は、それを見ても尚願うのを止めなかった。もっと太く、もっと輝かしく、もっと滑らかに。指先から何かが抜けていくような感覚。いくら願っても、糸の様子が変わることはない。嫌な汗が背中に滲んだ。そしてふと集中が切れた瞬間に、糸はぷつんと息絶える。何一つだって、今の糸くんは思い通りにならない。願っても叶わない。それに過去の記憶が重なった。欲を抱えることは、喪失と無力感に繋がる。いいことなんてない。
「……わかんないんだ。この指輪のことも、私の法力のことも。ただ怖かった。弱すぎても、強すぎても、それは誰かに……シロ様に迷惑を掛ける、異端になっちゃうから」
「……ミコ」
指輪は鈍色の光を放ったまま、今はどれだけ願っても糸が紡がれることはない。それは一種の抗議のように思えた。不確かな心のまま、それでも自分を操ろうとする私に対する。そうだ、貴方の言うとおりだ。私はまだ、貴方が怖い。貴方という存在を心から望めない。私の中の私が自ら得たわけでない力が、怖くて仕方ないんだ。
「本当は誰の負担にもなりたくない。甘えるのだって、願うのだって、苦手」
そう、結局はそれが本音。必要以上の甘えは、対価の無い不相応な願いは、私にとって惨劇を思い起こさせる。例えば私に一切と力がなければ、ただシロ様の負担になっていただけだろう。かといって強大すぎる特別な力も、どうしようもなく恐ろしくて。だってそういうのは三百六十と回転すれば、元通りに戻ってきてしまうのものだから。……力が無くてもあっても嫌だなんて、私はどうしようもないほどに我儘だ。
わかっている。シロ様がそれを負担と思わないくらい、シロ様がたかが私を背負ったくらいで潰れないくらい。でも怖いのだ。怖くて怖くて仕方ない。この力と向き合うのが、ただどうしようもなく。
「……でもこのままなのが、きっと一番怖いんだよね」
「っ、」
「だから私は、そろそろ貴方に向き合わなくちゃ」
でもきっと、知らないことが一番怖い。そう思った瞬間、見下ろした乳白色の影が僅かに揺らいだ気がした。過去の自分に負けない。シロ様が言っていたことは、私にも繋がっているように感じる。自分の中にある過去の痛みに負けないこと。それはある種、シロ様の武の精神に感化されたと言っても良かっただろう。彼ほどストイックにはなれずとも、曲がらないようにとは居られずとも。それでもシンプルな答えは、いつのまにか心の中に浮かんでいた。
強すぎる力で誰かに負担を掛けるのが嫌なら、自分が強くなればいい。
「……貴方のことを、もっと知らなくちゃ」
そのための特訓だ。もう一度願えば、糸は指輪からまた伸びた。気のせいだろうか、こころなしか先程よりも太く、明るく、自由に動かせる気がする糸。それは気の所為だったかもしれないし、あるいは先程よりも糸の力は弱まっていたかも知れない。
それでもただ一つだけ確かなことがあった。それは先程まで私から逃げるように伸びていった糸が、私に恐る恐ると近づくように伸びていること。まだ細く頼りない糸に手を伸ばせば、指先が一瞬だけ真っ白なそれに触れる。私と私の中にある力だと言うのに、まるで見知らぬ生き物同士で触れ合うような、そんな一歩。そんな私達を、シロ様はただ見守ってくれていたのだった。喉の乾きも忘れるほどの、私の一歩目を。




