七十四話「砂浜と合図と自分のこと」
「ほら、薬」
「あ、ありがとうございます」
ぽんと手のひらに置かれた青い錠剤。それを同時に渡された水で喉の奥に流しつつ、私はブーツ越しに伝わる砂の感触に感動していた。踏みしめた感触が残る地面、万歳。実感こそしていなかったが、慣れない空の長旅に体は案外疲弊していたらしい。空と違う青さで眼前に広がる海にすらも、瞳が潤んでしまいそうになるほど。
あの後、気球は無事に着陸した。場所はレゴさんの言っていた通り、町外れにある寂れた砂浜の上である。まるでぽんと置くかのように着陸できたのは、きっとある程度は風が操れるこの世界ならではの着陸法なのだろう。法術がなければ乗員への衝撃がすごいことになりそうだ。
現在時刻は正午を少し過ぎたくらい。肌に伝わってくる気温はクドラの居た時よりも熱く、湿度も高いように感じた。頭の真上で輝く太陽がやけに眩しい。このままじっと紫外線に晒されていれば日焼けしてしまいそうだ。どうやらムツドリの土地は気球に乗っていた時に感じたように、南国のような気候らしい。上から見下ろした町並みだって、それに適応するかのように通気性の高そうな建築物が多かったことだし。
「ピュイー……」
「……暑いなら我の肩にでも乗ってろ」
「ピュ……」
そしてどうやらその気温はもふもふが標準装備のフルフには適さなかったらしく。へにょりと砂浜の上で潰れたフルフを、溜息混じりにシロ様が回収する。ひょいとふわふわを摘みあげた少年の頭には、もう虎の耳は無かった。当然尻尾も。悪目立ちするという理由で、結局クドラ族の特徴であるそれらは隠すことにしたのだ。虎の獣人も少なくはないが、真っ白な毛並みのそれとなると一気に候補は絞られてしまうらしい。ビャクの追手に関しては暫く大丈夫だろうが、念には念をというやつだ。
「嬢ちゃんは……大丈夫そうだな? 初めてムツドリの領地に来たやつは、その暑さにダウンすることだってあるのに」
「え? まぁ、これくらいなら大丈夫ですよ?」
「へぇ? か弱そうに見えて存外丈夫なもんだなぁ」
ずっと法術で隠すのは負担だろうし、せめて耳だけでも負担を軽減するため帽子を買うべきか。と、フルフの面倒を見ているシロ様のことを見つめてはそんなことを考えて。しかしそこで聞こえてきたレゴさんの意外そうな声に、私は首を傾げた。確かにクドラの領地よりは暑いように感じるが、そんな感心されるほどのことだろうか。
肌越しに伝わってくる空気は確かに熱がこもっており、湿気も感じる。しかしそれはあくまでクドラと比べてという意味で、そこまで大きな変化は感じ取れなかった。言ってしまえば日本の夏よりも余程快適である。けれど確かにこの感覚は「南国です!」と主張しまくっているこの景色を見れば、些か不自然なもののような。
「……成程」
「ん? ごめんシロ様、何か言った?」
「いや。それより日が沈む前に町に辿り着かねば面倒だぞ」
自分の感覚にどこか違和感を感じつつ。だが些細なそれはシロ様の言葉であっさりと流れていってしまった。そうだ、ここでのんびりしているわけにはいかない。手持ちのお金も心許ないのだ。早いところ街に行ってお金を用意して、泊まるところを見つけなければ。最悪野宿でも私は構わないが、レゴさんに色々と申し訳ないし。
「レゴさん、ウィラの町ってどっちの方向ですか?」
「ああ、あそこの道を通ってひたすら東だな。でもちょっと待ってくれるか?」
「? はい」
まずは町に辿り着くことが先決だと頷いた私。しかしそのためレゴさんに道を聞くも、彼は何故か指で示した細道とは逆方向へと歩いていってしまう。その方向とは、砂浜の奥である気球が着地している場所だ。何か気球の中に忘れ物でもしたのだろうか。
遠ざかっていく彼の背中に首を傾げつつも、待っててくれと言われたわけであるし。手持ち無沙汰の私は、レゴさんが何をするのかを見守っていた。上背のある長身の男の人と、今となっては空気を失って潰れてしまった気球は傍から見ていれば妙にアンバランスで。しかし私の感想なんて関係ないと言わんばかりに、レゴさんのその手が気球へと触れる。そうして褐色の手が気球の籠へと触れた瞬間、ちかっと何かが光ったような気がした。
「……待たせたな! もう大丈夫だ」
「……ええと、今のは?」
「ん? やってたことの意味ってことか?」
今のは錯覚だろうかと瞬きをしてみても、消えていったその光がもう一度見えるはずもなく。何だったのだろうかと気になった私は、からりとした笑顔を浮かべて戻ってきたレゴさんに問いかけることにした。問いかけ返してきたレゴさんの言葉に頷けば、顎に手を当てたその人は答えを返してくれて。
「気球回収の合図……みたいなもんだな。裏便なんてやってるが、俺にも一応相棒が居てな。そいつにこの気球を回収してもらうように頼んだんだ」
「へぇ……!」
成程、その答えを聞いて納得する。確かに気球は使い捨ての道具ではない。このままこの砂浜に置いていおくわけにはいかないし、不法投棄にもなってしまうだろう。……こっちの世界に果たして不法投棄という犯罪があるのかはわからないが。
それにしても相棒。裏便というだけあって完全に個人事業のようなものだと思っていたが、レゴさんにも仕事仲間は居るらしい。しかも相棒と言えるほどに仲が良い人。その人はどんな人なのだろうか。男の人なのか、女の人なのか。同じムツドリ族なのか、それとも人間や獣人なのか。そんな想像を膨らませつつも、私は気になったもう一つを問いかけることとした。
「だから光ったんですね。でもあんな小さな光でわかるんですか?」
「……光った?」
「え……?」
そのもう一つとは、あの瞬間小さくも確かに瞬いた光のことである。レゴさんの言葉を聞いてあれが気のせいではなかったのがわかったが、果たしてあんな一瞬にも満たない小さな光で相棒さんは合図に気付けるのかと。私がその相棒さんだったら見逃してしまいそうである。それこそ一日中気を張っていなければいけなそうだ。
だがそんな呑気な考えとは裏腹、今度の問いかけに返ってきた声は妙に硬質めいていた。外していた視線を持ち上げれば、そこには目を瞠って驚いた様子のレゴさんが居る。何か別のことに驚いた、と言うわけではなさそうだ。何故ならばその瞳は私を凝視したまま、一切揺らぐこと無くそこにあるのだから。
「……嬢ちゃん、もしかして法力が異様に高い口か?」
「え、えっと……?」
「アレは俺と相棒だけの合図だ。だから他人は感じ取れないはずなんだが……法力が多い奴は、他人の合図を感じ取れるって話を聞いたことがある」
まずい、なんだか妙なことになっているような。私はレゴさんの真剣な瞳に見下ろされながら、ぐるぐると思考を巡らせていた。法力が高くないと他人では特別な合図とやらが感じ取れない、感じ取れるのは特別に法力が高い人だけ。その法則で行けば私が合図を見れたのは、法力が特別に高いから。けれど残念なことにその実感は一切ない。私が法力を使う時なんて、精々糸くんに頼る時ぐらいなのだ。というかそれしか使えない。
糸くんのことはシロ様が特別な法術だと言っていた。この世にあるどの属性とも違う、正体不明の属性。つまりそれは、私以外に比べる対象が居ないということだろう。そうである以上、私の法力が高いかどうかなんてことは私にもわからないのだ。それこそ数値として調べられるような道具が無い限りは。
「だが人間でそこまでの法力を持つなんて……気になってたが、嬢ちゃんは一体どこから、」
「そこまでだ」
どう答えるべきなのか、そればかりが頭をぐるぐると巡る。自分のことなのに答えられることがないなんて、なんとも情けない話だ。そんな風に混乱する私に、真剣な表情を浮かべたレゴさんが何かを問いかけようとする。けれどその問いかけは、形を成す前に切り裂かれてしまった。後ろから聞こえてきた声。その方向へとゆっくりと振り返れば、そこには凛然とした表情でレゴさんを見つめるシロ様が居て。
「日が暮れる前に町に行く。それが現在の最優先事項だ」
「…………」
「……好奇心は理解できなくもないが、過干渉は不要だ。そもそも、本人ですらもわかっていないことが多い」
淡々と話すその声に色はない。ただこちらを見つめる凪いだその瞳を見ていれば、頭の中に冷静さが戻っていく気がした。肩にフルフを乗せたまま、シロ様がこちらへと歩いてくる。そうして私の腕を引いてレゴさんの間へと割って入ったシロ様は、そのままレゴさんを真っ直ぐに見つめた。触れてくれるな。微かに見えた端正な横顔は、そんなことを語っていたような気がする。
「……悪かったな。つい、気になっちまって」
「……わかったならば構わない」
シロ様の顔を見て、私と同じようにレゴさんも冷静になったのだろう。瞳の奥で輝いていた燃えるような好奇心が、一気に鎮火していくのが見て取れた。落ち着きを取り戻したらしいレゴさんを見てほっと息を吐いて、自分を守ってくれている小さな背中に安堵が募って。けれどレゴさんの問いかけで浮き彫りになった胸の中のざわめきは、完全には消えてくれないまま。
それはあの日の不安にも似ていた。まだこの世界に落ちて何日も経っていなかった頃、力がないことでシロ様に見捨てられるのではと怯えていたとある夜。けれど今私が抱く不安はそれに似て非なるものであった。寧ろ真逆とも言えたかもしれない。力があるからこその不安が、胸の奥に詰まっている。ずっと考えないようにしていた、無意識に目を逸らしていた。けれどレゴさんの言葉によって、私は見なければいけない現実に気づいたのだ。
私は何なのだろう。見知らぬ内に芽生えたこの力は一体、何なのだろう。
「さてと、行こうぜ。急がないとな」
「……は、い」
灯った不安は完全にその炎を消さないまま。けれど状況はそれに浸る余裕があるわけでもなく。私は切り替えるようなレゴさんの声に、不器用な笑顔を浮かべた。そうだ、今はとりあえず急ごう。時間に余裕があるわけではないのだから。
何度も組み立てた予定で頭の中を埋め立てる。そうすれば少しだけ不安はマシになる気がした。考えるのは、向き合うのは後でも良いはずだ。今はともかく現実をどうにかしなければいけない。お金のこととか、赤い翼のこととか。
「…………」
そうして私は前を歩きだしたレゴさんの後に続いた。そんな私の背中を懸念するようにシロ様が見つめていたのも、左手の小指に付いた乳白色の指輪に僅かな陰りが見えたのにだって、何も気づけ無いまま。




