五十一話「宿に残された痼」
そうしてシロ様が懸念したようなこともなく、何事もないままにお風呂を終えて。ちなみに大浴場は綺麗に掃除された温泉のような施設だった。人も殆ど居らず、独り占めと言っても過言ではない環境。そんな中の久しぶりのお風呂は、それはそれは極楽だったと言っておこう。何せ森の中で私達が行っていた代替行為は水筒シャワー。思えば良く風邪を引かなかったものだ。私は今日文化的な生活を取り戻したのである。
ぽかぽかと温まる体にほっと息を付いて、浴場を出て直ぐに配置されていた長椅子の上に座る。長湯は苦手なのでさっと上がってきてしまったが、シロ様はどうやらまだ上がっていないらしい。種族的に体温が高いようだし、私と違って長湯が得意なのだろうか。
「……クスノさん」
しかしお風呂を終えて汗を流し終えたとて、私の思考ばかりはあっさりと流れるものではなく。一人長椅子に座ってぼんやりとシロ様を待つ中、ぽつりと口から零れ落ちたのは彼女の名前だった。寂しそうに見えたすみれ色の背中が瞼の奥から消えてくれない。どうして桃色が好きかという問いに、彼女はあんなにも傷ついたような表情を浮かべたのだろう。
「あら、眼帯ちゃん?」
「ひゃっ!?」
だがそんなことを考えていたからか、私は正面から近づいて来ていたその影に気づくことすらも出来ず。私にとっては突然掛けられたように感じた声に、思わず驚きの声を上げる。すると足元だけ見えた正面のその人も、驚いたように僅かに後退りをして。
驚きを飲み込みつつ、恐る恐ると視線を上げる。眼帯ちゃん。お風呂上がりでもそれを忘れること無く付けている私のことをそう呼ぶのは、きっと一人だけだろう。かくして予想通り、見上げた先にはその人が居た。桃色の瞳を驚いたように丸めた、カッシーナさんが。
「お、驚かせちゃった?」
「い、いえ……ごめんなさい、ぼんやりしてて」
申し訳無さそうに眉を下げる、見た目だけはとても綺麗なお姉さんのカッシーナさん。しかしその麗しい唇から零れるのがこの重低音なのだから、なんだか私の耳がおかしくなってしまったようにも思えてしまう。それが少しおかしくって微笑めば、目の前の彼女?も気が抜けたように笑って。
「お疲れさまです、カッシーナさん」
「もう、姉さんって呼びなさいよ……あ、そういえば」
「はい?」
「貴方は周りになんて呼ばれてるの? 良かったら教えてよ」
嫋やかな動作で私の座る長椅子の隣に座ったカッシーナさん。完全に雑談を振ってきている彼女?の姿に、一瞬仕事は大丈夫なのだろうかとそんなことを思ってみたりして。だがそれを客の私が聞くのもおかしな話だろう。浮かんだ疑問を掻き消して、思考をカッシーナさんの質問の方へ。されどそれは考えるまでもないような、答えなんて一つしか用意されていない質問だったのだけれど。
「ミコ、って呼ばれてます。あの子はシロ、ですね」
「ふぅん。じゃあ、ミコちゃんシロちゃんって呼ぶわね」
「ふふ、はい」
端名ならば名乗っても大丈夫だろうと、今更な自己紹介を告げた私。ついでにシロ様のことも話しておこうと続ければ、カッシーナさんは随分と可愛らしく私達を呼んだ。彼女?の容姿には似合っているが、それを紡ぐのが重低音なのがなんだか違和感である。
それにしても……ミコちゃんはともかく、シロちゃん。それを呼ばれた瞬間のシロ様の仏頂面を想像して、思わず笑いだしてしまいそうになった。流石に今笑い転げれば変な目で見られると、なんとか理性でお腹の底の笑いを押し殺しつつ。
それから私達は二人並んでお喋りをした。料理やお風呂の感想を心のままに告げれば、カッシーナさんは本当に嬉しそうに微笑んで。その表情から伝わってくるのは、この宿が本当に好きなのだろうということ。年上ではあるが、無邪気に喜ぶその姿はなんだか微笑ましい。料理のこだわりや、お風呂の掃除の方法。それらを自慢気に話してくる彼女?と話すのは、ただ単純に楽しかった。気づかない内に同性?との会話に飢えていたのかもしれない。別にシロ様に不満があるというわけではないが。
「……そういえば、クスノさんにお会いしました」
「あら、母さんに? 最高の女だったでしょ、アタシの自慢なの」
「はい。とっても素敵な人でした!」
そうして話していれば、いつか話の着地点はクスノさんへと到着して。素敵な人だと元気に言い切れば、カッシーナさんはまた嬉しそうに笑った。嬉しそうに目を細めている辺り、本当にお母さんのことが大好きなのだろう。けれどその気持ちはよく分かる。私だって私を育ててくれたおばあちゃんのことが、とても自慢だったから。あ、勿論おじいちゃんのことだって自慢である。二人共大好きだ。
「……でも私、酷いことを言ってしまったみたいで」
「……酷いこと?」
しかしクスノさんのことを話してしまえば、自然と思考はあの時の傷ついた表情へと移り変わっていって。俯いて零した私の言葉を、怪訝そうに繰り返すカッシーナさん。私はそんな彼女?に、あの時のことを軽く話した。彼女の娘?であるカッシーナさんなら、私がクスノさんを傷つけてしまった理由がわかるかもしれなかったから。
偶然出会って、小物を紹介してくれたこと。そこまでは楽しく話していたのだが、桃色が好きかという問いかけにクスノさんが表情を曇らせたこと。そうして何も聞けぬまま、クスノさんがどこかへと行ってしまったこと。話し終えて恐る恐ると視線を上げれば、見上げた先のカッシーナさんは酷く複雑そうな表情をしていて。
「あー……ううん、それミコちゃんが悪いわけじゃないのよ」
「でも、」
「気にしなくていいわ。悪いのはどっかのぼんくらだもの」
ぼんくら。到底麗人から聞こえたとは思えない言葉にぎょっとする。気のいい彼女?にこんな言葉を吐かせるなんて、一体その人は何をやらかしたのだろう。そんな私の表情に何を思ったのか、憂うように瞳を伏せたカッシーナさんはとあることを教えてくれた。数ヶ月程前にこの宿で起こった、水面の波紋のように未だ揺れては消えないとある痼の話を。
数ヶ月前、とある客が桃花の宿に訪れた。その人達はカッシーナさんから見れば、あまり良い客とは言える分類の人達ではなかったらしい。態度や言葉使いが悪く、店員を奴隷かなにかと思っているような。けれどどんなにマナーが悪い人たちでも、クスノさんは懸命におもてなしをした。どんな人であったとしても、この宿に訪れてくれた大事なお客様であることに変わりはないからと。今とは違う、すみれ色ではない桃色の浴衣に身を包んで。
少しでもこの宿で心を癒せるように、素敵な思い出になるように。他の客の迷惑にならないようにと、その客達の接客に励んでいたクスノさん。だがそんなクスノさんに、その人達はこんな言葉を告げたらしい。嘲笑混じりに。
こんな老いぼれが桃色を着るような宿に、泊まらなければよかった。
「……ひどい」
瞬間、なんだそれはと思った。誰がどんな服を着たってその人の自由だ。クスノさんならきっとカッシーナさんと同じ桃色だって、とても似合っていただろう。それなのにその人達は自分に尽くしてくれたクスノさんを、最低な形で詰ったのだ。ぐっと拳を握る。そうしなければ苛立ちが零れ落ちてしまいそうだったから。
「……母さんは自分だけが言われるのはともかく、宿にまで影響があるならって思ったのよ」
母さんはこの宿を自分の子供のように愛しているから。カッシーナさんの呟きがどこか物悲しい。自分が悪く言われるのは許せて、けれどクスノさんは宿までもを纏めて悪く見られるのが許せなかった。宿を何よりも愛しているから、自分が宿の足を引っ張るのだけは許せなかったのだろう。悪いのは全部、その客達なのに。
だから桃色が好きなのかという私の問いかけに、クスノさんは表情を曇らせて。そうして彼女は一人、この美しい桃色の世界ではどこか浮いて見えるすみれ色を纏っている。別に、すみれ色が悪いわけではない。あの色だってクスノさんの上品な雰囲気にはとても良く似合っているだろう。けれどそれはクスノさんが選んだ結果ではなく、選ばせられた結果なのだ。
「アタシも、ケヤも……父さんも言ったんだけどね。母さんには桃色がとっても似合ってる、あんな奴らのことは気にするなって」
「……はい」
「でもてんで駄目。持ってた桃色の着物、全部売り払ったり小物に変えちゃって。一度決めたら頑固なのよ」
困ったように、悲しそうに呟くカッシーナさん。零れた溜息からは様々な感情が読み取れる。憤りや悲しみ、苦悩する思い。何よりも尊敬する人が、最悪な形で傷つけられたのだ。時間が経ったからこそ穏やかに語れるが、当時はカッシーナさんだって苦しく悲しかっただろう。けれど未だその客達が残した痼は消えること無く、彼女が纏うすみれ色という形で残るまま。
「……ミコ?」
「あ、シロ……くん」
どこか落ち込んだ空気。しかしそこで聞こえてきた私を呼ぶ声に、顔を上げる。だいぶ長湯をしたのだろう、白皙の頬を赤く染めたシロ様が男湯の暖簾をくぐってこちらへと戻ってきたのだ。彼は不思議そうに私の名前を呼びつつ、ことりと首を傾げた。恐らく、私の隣で眉を下げているカッシーナさんの姿に。
「あら、シロちゃん戻ってきたのね。じゃ、アタシは行くわ。愚痴、付き合ってくれてありがと!」
「シロちゃん……?」
シロちゃん、不意打ちのそれに吹き出しそうになって。シロ様が怪訝そうな声で反芻したのが、余計に無理だった。私は笑いを堪えるため視線を逸しつつ、カッシーナさんの言葉に頷く。そうすれば先程までの悲しげな顔はどこへやら、ぱっと表情を明るくして去っていくカッシーナさん。その姿からは先程までの悲しみを感じさせなかったが、恐らく隠しているだけなのだろう。
一度込み上げた笑いを飲み込んで、去っていく桃色の背中をぼんやりと見送った。首を傾げながらも近づいてくるシロ様が、そんな私を見て目を細める。何かあったのかと問いかけるその瞳に、私は苦く笑った。
「……ねぇシロ様」
「なんだ」
今度は小さな影が私の隣に座る。ぽすんという軽い反動に体を揺らしつつ、私は自分の隣に座った少年の名前を呼んだ。そうすれば白と黒の瞳は、迷いなんて無く私を射抜いて。その瞳を見ると、なんだか背中を押してもらっているような気がする。それに今度は苦くではなく、安堵したように笑って。そうして私は一つ呟いた。それにまた怪訝そうにシロ様が瞳を細めたのを、真っ直ぐに見返しながらも。
「一つ、お願いがあるの」




