四十七話「桃花の宿」
「買い物は終わり、だね」
「そうだな」
一通り揃えた調味料をエコバッグに入れ終えて、ふぅと呟く。そんな独り言めいた呟きにだって、シロ様は律儀に返事を返してくれて。それに小さく笑みを零しつつ、私は再びエコバッグの一番上に置かれたリンベリーをぎゅうと押し込めた。調味料の山に潰されないようにと、中に入っていた食材を調整して詰め直したのである。入っているか入っていないかギリギリのラインだが、これにも永久保存の機能は適応されるのだろうか。そんなことを考えつつ。
最初からあったじゃがいも玉葱人参の、野菜三連星。そこにパックされた豚肉と、森で摘んだリンベリーや狩ってきた熊肉の塊がいくつか。それらの下に新たに差し込まれたのが、塩やら胡椒やら砂糖と言った袋入りの基礎調味料で。その上に転がるのは醤油やみりん、料理酒。それにこの世界では三種の神器らしいケチャップやソースにマヨネーズ。柔らかいものが潰れないようにと配置したが、色々入り過ぎな気がしている。果たしてこれでいいのだろうか。
「……潰れないといいけど」
「?」
「あ、ううん。何でも無いよ」
食材の管理は全部エコバッグに任せればいいと思っていたが、これは少々危ういかもしれない。塩や砂糖は保存状態が良ければ賞味期限は無いという話を聞いたこともあるし、リュックに移すべきだろうか。ひとまず最優先するべきは果物や精肉、野菜といった生物であるわけだし。そんなことを真面目に考える私を、シロ様は不思議そうに見つめていた。
「……ミコ、そろそろ宿に向かうぞ。直に日が暮れる」
「え、もうそんな時間?」
けれどそのまま、いつまでも見守っているというわけにはいかなかったらしく。くいと袖をひかれる感覚。その感覚に引き寄せられるように視線を下へと向ければ、左の方を指差したシロ様が端的に告げた。その言葉に慌てて空を見上げる。そこでは本日久しぶりに拝むことができた太陽が、西へと沈みかけている姿があった。どうやら別世界でも、太陽が沈む先は変わらないらしい。
「えっと……宿の場所ってわかる?」
「わかる。離れずに着いてこい」
「わぁ、頼もしい……」
確かにこれはそろそろ宿を取ったほうがいい時刻だろう。観光客は減ったらしいし、紹介状だってある。ただそれでも全ての旅行者が居なくなったとは限らないのだから。寧ろもう少し早く取ったほうが良かったのかもしれない。まだ部屋は空いているのか、少し不安だ。
おずおずと問いかければ、なんとも頼もしい返答が返ってきて。それに苦笑を零しながらも、私はエコバッグを握る左手とは反対の右手でシロ様の裾を掴んだ。本当は手を握ったほうがいいのかもしれないが、一応これは私なりのシロ様に対する配慮なのである。戦える彼は両手を空けておいた方がいいだろうという、勝手な推測に基づく。多分、町中では必要ないのだろうけど。
「噂話を聞くに評判のいい宿だ。恐らく問題はない……が」
「が?」
「……何かが起こる可能性は皆無じゃない。室内だからと気を抜いて、我からあまり離れすぎるな」
「うん、わかった」
シロ様が歩き出せば、裾を掴む私も自然と引っ張られていく。そうして二人揃って桃花の宿に向かっている途中、シロ様が不安げに呟いた言葉。私はそれに一も二もなく、すぐさま頷いた。そうすればその返答を聞いた華奢な少年は、僅かに表情を緩めて。
……シロ様は、シロ様の家族は、安心できるはずの場所で安心できていた相手に襲われたのだ。きっとこれから先、他に人が居る環境でシロ様が心の底から安堵できることはない。そう思うと胸が締め付けられるような感覚に陥って。けれど、言葉を考えることはやめない。何かを、言葉にしたい。
「絶対離れないようにする。だからちゃんと傍に居てね」
「……ああ」
夕闇が走り出した空。私はシロ様が少しでも安心できるようにと、更に言葉を重ねた。そこで俯いたシロ様の表情は、彼よりも身長が高い私に窺うのは難しくて。それでも、私の言葉が少しでも彼の強張った表情を緩めていてくれたらいい。そう願いを込めて裾を強く握った私の感傷は、きっとちっともシロ様に伝わっていないのだろうけど。
「……?」
そうして、歩くこと十数分程。その間何かを考えているらしいシロ様から言葉が掛けられることもなく、それに合わせて私も自然と黙り込んでいた。せっかくの久々の夕焼けすらも、なぜだか今は見ていて落ち着かず。二人揃って視線を下げて歩く様は、きっと傍から見れば奇妙に映ったことだろう。
しかしそんな中、暫く歩いたところで私はふと顔を上げた。何か心境の変化があったとか、そういうわけではない。何かに頬を撫でられたような、そんな感覚に襲われたのだ。一瞬であったが確かに触れた感覚に、どこか覚えのある感覚に、その犯人を探そうと顔を上げる。しかしそこで、私は息を呑んだ。
「……シロ様、顔上げてみて」
「……なんだ」
「いいから」
思い切り目を見開いて、生唾を飲み込んで。けれど忘れてはならないと、私は未だ俯いたままの隣の少年に声を掛ける。返ってきた曇り空を体現するかの声に苦笑して、されども顔を上げてほしいという意思を曲げること無く。そうすれば存外素直な彼は、ずっと下げていた頭を上げてくれた。瞬間、息を呑むような音が隣から聞こえて。
「……近くで見ると、すごいなぁ」
それも当然の話だろう。何せ今眼前に広がるのは、大きな大きな桜の木。いや正確には桜ではなく、何か別の植物らしいが。この街の一番の宝とも呼べる、千年樹の木。街に入った時から僅かに見えていたそれが今、すぐ目の前にある。その雄大な美を見せつけるかのごとく、夕日をスポットライトに輝いているのだ。感嘆の呟きが思わず零れていく。
見たこともないくらい太い幹を頼りに、あちらこちらへと伸びていく枝。その全てを飾るのは、どこを見たって過不足ないくらいに咲き誇る桃色の花弁たちで。僅かに吹く風に細い枝は揺れ、夕日で赤さを増した花弁はひらりと舞い落ちていく。まるでこの街を訪れた人々に、この街で過ごす人々に、祝福を振りまくかのように。
「綺麗だね、シロ様」
「……ああ」
美しすぎる光景を見たことによって、口元には自然な笑みが浮かぶ。それをそのまま隣の少年へと向ければ、こちらを見たシロ様も同じように僅かに微笑んだ。そこには先程までの憂いはない。そう認識すれば、同じ光景を同じ感情で共有できた嬉しさがじわじわと込み上げてきて。
私に何が出来るだろうか。痛みを背負ってこれからを歩く彼に、どうしようもなく喪失を恐れる彼に、どうやって手を差し伸べて行けばいいのだろうか。色々考えたけれど、やっぱり出来ることは一つなのだろう。一緒に背負うこと、歩くこと。夕焼けに染まる白皙の美少年を見下ろしてそんなことを考えて、けれどそれを言葉にすることはしなかった。美しい光景を前に、言葉は野暮だと思ったから。
「……あら、お客様?」
「!」
そうして千年樹に見とれて、二人で並んでは見上げて。けれどそこで聞こえてきた声に、私は驚いてその声が聞こえた方へと振り返った。私でさえ驚いたのだから、シロ様の反応などそれはもう顕著で。あからさまに警戒を宿した二色の瞳が、後ろに立っていた人物から視線を離さぬようにと固定される。桜色の美しい着物に身を包んだ……女性のような風貌の謎の人物を。
「少女と少年の二人組……貴方達がもしかして、ケヤの言っていたお客様?」
「え、えっと……ケヤさん、って?」
私は困惑した。桜色の着物に身を包み、金の髪を美しく纏めたその人の容姿はまごうことない女性のものだ。美人とも呼べるだろう。だが聞こえてくる声は低く、体に響くような重低音。女性口調ではあるものの、その声は明らかに男性としかいいようがない。つまるところ、突如として背後に現れたその人物の情報量は多すぎたのである。千年樹からの落差に、私の頭は混乱した。
それにケヤ、という名前にも聞き覚えはない。そもそもこの街に来てから名乗られたことはないはずだ。この世界の人は本名を隠しているわけだし、端名もあまり名乗らない風潮なのかとも思っていたのだが。あっさりと他の人の端名を告げたこの人を鑑みるに、それは私の勘違いだったのだろうか。
「魔物の素材屋の店主よ。アタシの弟で、悪いやつじゃないけど妄想癖が激しいの」
「……ああ」
「その様子だと、思い当たる節はあるみたいね」
全くあの子ったら、そう困ったように呟くお姉さん?に私は苦笑いを返す。誰のことかと思えば、ケヤとは魔物の素材屋の店主さんだったらしい。というかよくよく考えれば、他に選択肢はないだろう。なんせこの宿を紹介してくれたのは、そのケヤさんであるわけだし。
「まぁいいわ。可愛いお客様方、部屋は用意してあるから中にいらっしゃい」
「え、でも……」
納得して頷いて、しかし私達を引き入れようとしたお姉さん?に私は戸惑った。部屋は用意してあるって、どういうことなのだろう。私達はまだチェックインすらしてないし、予約をしていたわけでもない。それに料金はどうするのだろう。後払いなのだろうか。何もわからずに困惑する私と、未だお姉さん?を警戒するように見つめているシロ様。けれどそんな私達に、お姉さん?は華麗なウインクをしてみせて。……ウインク、流行っているのだろうか。
「宿代はアイツ持ち。あいつ人に親切を押し付けるのが趣味だから、気にしなくていいわ。ここの主人と女将の息子ってことで値引きされてるし」
「え!? い、いえ……お金は自分たちで払いますから……」
「いいのいいの。アイツの妄想に付き合わされたんでしょ、迷惑料として貰っときなさい」
だが実態は私が思うよりもとんでもなかった。まさかのケヤさんが私達の代わりに宿を取っていてくれたらしい。しかも料金まで。思わずぎょっとしてその申し出を断ろうとしたが、お姉さん?には見事に躱されてしまう。この押しの強さと我の強さ、まさしくあの店の店主さんと血が繋がっている。私は慄いた。
どうしよう、今の展開が何一つ理解できない。これは私が馬鹿なのだろうかと考えて、しかし隣のシロ様を見た瞬間にその思考は飛んでいった。もう警戒こそはしていないようだが、心底意味がわからないというような顔でお姉さん?を見つめているシロ様。私達の心は一つである。こんなことで一つにはなりたくなかったのだが。
「……ああ、言い忘れてたわ。ようこそ、桃花の宿へ」
けれど私達の困惑も、彼女?からすれば気にすることじゃないのだろう。艶やかに微笑んだお姉さん?がこちらを見つめる。蠱惑的に輝く桃色の瞳は千年樹と同じ色をしているはずなのに、全く別の色のようにも思えて。私はその笑顔に、本当にこの宿に泊まっても良かったのかと考えた。多分きっと、それはシロ様も同じだったはずである。




