九十七話「潜入捜査の舞台裏」
「……嬢ちゃんはどこに行った」
「…………」
かくして尊が潜入捜査の中で知り合った少女と友好を深めていく最中、しかし一人街に残されたシロガネと言えば。尊が攫われていくのを断腸の思いで見送った後、合図を待つ内に再びと訪れた夜に部屋で一人。不安そうに辺りをうろちょろとする小動物の頭を時折と撫でる最中、二色の瞳を持つ少年は不可視の糸がいつ見えるようになっても良いようにと待機していた。
だがそこに突然と現れた訪問者。扉を開くと開口一番、金色の瞳を細めた男をシロガネは見上げる。鍵はかかっていたはずなのに、どうやって押し入ってきたのか。どうやらそれを聞いている余裕はなさそうだと一人ごちつつ、シロガネは男を見据えた。焦りを瞳に滲ませてこちらを見下ろす、レゴを。
「いつ気づいた?」
「……さっきだよ。今日の朝から今の今まで顔を見てないって、このタイミングじゃあからさまにおかしいだろ」
ベッドに座りながらゆっくりと足を組む。シロガネのその動作にか、それとも問いかけに問いかけを返したせいか、レゴの声は焦れたように上擦った。後手で乱暴に部屋の扉が閉じられる。一歩と部屋に踏み込んだ男は、そのままシロガネの目の前まで歩み寄ってきた。皺が寄った眉間は、どちらかといえば厳つく見える彼の威圧感を更に増幅させて。恐らく彼にこういう表情で見下されるのは、怖いことなのだろう。
「そうだな、おかしい」
「…………」
だがただの子供ならば怯えたかもしれないそれに、シロガネが怯むことはない。凛と一切と揺らがない、異色が混在する瞳。それに正面から見返されたせいか、怯んだのはむしろレゴの方だった。子供に威圧されるなんて馬鹿げている、そう嗤う大人もいるだろう。けれどシロガネはただの子供ではないのだ。幻獣人の中でも謎が多いクドラ族、最強を謳うその種族の子供。
初めてあの気球の中でその話を聞いた時、レゴは間違いなく嘘だと思った。クドラ族が領地の外に出るなんて話は、職業柄各地を巡ることが多いレゴでも聞いたことがない。しかし同時に嘘だと笑い飛ばせないだけの威圧感がこの少年にはあったのだ。或いは貫禄とでも呼ぶべきか。
「あいつはおかしいんだ」
まるで何百年も生きたかのような、そんな重厚感。いつかの夜と同じものを浮かべたシロガネに、間違いなくレゴは気圧されていた。
「……お前の想定通りだと思うが。ミコは攫われに行った」
「……攫われに?」
「ああ。ミーアという女性と、お前の相棒とやらの母子を見つけるために」
だがその姿に気圧されたままでいるわけにはいかないと、レゴは密やかな夜にさえ掻き消えてしまいそうな声に耳を澄ませた。しかし事実だけを述べる淡々としたシロガネの言葉に、レゴの眉はますますと寄っていく。朝から姿が見えない時点で予想していなかったのかと言われれば、嘘になる。けれどこの予想は、叶うならば外れて欲しい予想だったのだ。
彼女を託してきた古い友人であるあの男、カシからは聞いていた。あの少女が誰かの傷を放っておけない、優しくて少し危なっかしい子だということを。だからこそ危ないことに首を突っ込まないように暫くは見ていてほしいと頼まれて、なのにレゴは突然と起こった緊急事態に彼女から目を逸してしまって。取りこぼしてばかりの自分の浅慮に、嫌気が差した。
「……なんで、止めなかった」
「…………」
「お前は、あの子が一番大事なんだろ?」
そのせいだろうか、つい八つ当たりじみた言葉が零れる。わかっている、これはレゴのミスだ。いくら相棒の緊急事態とは言え、頼まれたのはミコの方が先で。レゴは奴隷騒ぎに巻き込まれる可能性がある彼女を、しっかりと見ているべきだった。だがまさか彼女が自分がどうなるかもわからない危険地帯にまで突っ込んでいくとは、思っていなかったのだ。あの華奢で見るからに普通な少女が、出会ったばかりの他人のためにそこまでのことをするなんて思っていなかった。こんなのはきっと、ただの言い訳でしかないけれど。
「なのになんで、一人で行かせたんだ」
けれどこの問いだけは、言い訳ではない。ただの純粋な疑問をレゴはシロガネに投げかけた。彼らと行動を共にした時間は決して短くはないが、この少年があの少女を何よりも大切にしていることくらいはレゴにだってわかっている。周りからは鈍感だなんて溜息を吐かれるレゴにすらも伝わってくるくらい、シロガネの行動は露骨だったのだ。
食事を摂る時、この少年は必ず彼女よりも先に一口を齧る。眠る時、この少年は必ず彼女が寝入ったのを確認してから目を伏せる。道を歩く時だって、その視線が彼女から外れることはなくて。一挙一動が、この少年の行動の全てが、あの黒髪の少女を大切だと叫んでいた。なのにそんな彼が、大切な少女が自ら危険へと飛び込んでいくのを止めなかった。そして今、こうして一人ここに残っている。それは作戦のためではあったのだが、作戦のことを知らないレゴの目からはとても奇妙なものに見えて。
「我は十四。お前の話では、十歳以上の男は対象外なのだろう?」
「……歳の話じゃない、わかってるだろ」
どこかずれたシロガネの返答に、レゴの語尾は自然ときつくなる。どうして付いていかなかった、それを聞いているわけではないのだ。聞きたいのは、どうして行かせたのか。クドラ族である彼ならば、たかが少女を力で抑え込むことなんて容易いはず。そうでなくても心優しいあの少女なら、この子供が全力で頼めば折れたはずだろう。
なのに行かせた。それも、一人で。行かせたくはなかっただろうに、手の中に居てもらうのが彼にとって一番安心できるだろうに、それでも。どうしてもそれがわからない。どうしてどこか森奥の獣のように神聖で鋭い雰囲気を持つ彼が、わざわざ掌中の中にあった珠を転がしたのか。
「……強いて言うのであれば」
「…………」
「あいつはそういう人間だからだ」
「……は?」
けれどそこで返ってきたのは、とてつもなく簡潔な答えで。まるで心にあった答えをそのまま零したかのような簡素さに、レゴの口からは思わず呆けたような声が出ていった。しかしそんなレゴを気にすることもなく、シロガネは自分の左手の小指を見下ろす。右手の人差し指がそれをなぞったのにどんな意味があるのか、それはレゴにはわからなかったけれど。それでもそこには何かの意味がある気がして。
「……クドラ族の容姿を歌った童歌をお前は知ってるか?」
「……? 白銀の髪に瞳、白皙の肌。白い無慈悲な狩人、ってやつか?」
だがその意味を問いかけるよりも早く、今度はシロガネの方が問いかけてきた。突然の問いに首を傾げつつも、レゴはいつか聞いた童歌をなぞらえた言葉を唱える。クドラ族とは、西の覇者。その強さは他の幻獣人と比べても群を抜く、圧倒的なもの。子供なら誰だって聞いたことが在るだろう、そんな童歌を。
白銀の髪を揺らしながら得物を振るい、白銀の瞳は一度捉えた敵を逃がすことはない。白皙の肌が赤に染まることもないまま、汚れなき白の姿で敵を駆逐する種族。いつか聞いたそれは他の幻獣人のものよりもとても物騒に思えて、子供心に恐ろしく思ったものだ。いつかの恐怖を思い出しつつも、けれどレゴはそこで違和感に気づく。
白銀の、瞳?
「ああ。ではその歌の中にあるクドラ族と我の相違点とは、何だと思う?」
「……!」
息を呑んだ。見下ろした先にあるのは、白銀と黒の瞳。童歌とは違うその容姿に、どうして今まで気づかなかったのだろう。どうして今まで違和感を覚えなかったのだろう。白の中で異彩を放つ黒が、こちらを飲み込まんとばかりに見つめている。
「……我は一度、心臓とも呼ぶべき瞳を失った。腹も貫かれ、そのまま死ぬはずだった」
「……な、」
そのままシロガネは静かに語った。到底静かに語るべきではない、己の身に起きた凄惨な過去を。無論、いつか誰かに話したかのようにありのままを全てではない。そこまでするほどにこの男に心を許したわけではないから。ただそれでも、自分が今黙って彼女を見守っていることの意味が男に伝わるように。いつか森の奥で出会った少年と少女の、奇妙な奇跡の話を薄い唇が語る。
「だが、その運命を覆したのがミコだ。どういう原理だったのかはわからない。しかしあいつは自分の瞳を我に捧げ、そうして片目を失った。結果として我は生き残った、道が残された」
「……それ、は」
「だからこその眼帯だ。似合わないだろう、あの平和面にあれは」
少しばかり前のことなのに、もうずっと前のことのようだ。シロガネはぼんやりと思い出す。もう駄目なのかと思った。自分に託された願いすらも叶わずに死ぬのかと、絶望の縁に立たされていた。けれどその全てを、あの異邦者が覆したのだ。真摯な黒の瞳に大きな光を湛えた、あの少女が。
結果として自分は生き残り、彼女は瞳を失った。そうして人々に不気味と謗られることを恐れ、尊は今眼帯を着けている。黒い布地の眼帯は彼女に似合うようで似合わない。外見に似合っていないとか、そういう話ではないのだ。怪我を隠すためのそれが、華奢な体躯と平和な顔付きには似つかわしくないものというだけの話。でもそれでも、自分のやったことを彼女は後悔していない。きっとほんの少しだって、彼女の中にシロガネを助けたことへの後悔はないのだ。
「……そういう人間だ。言葉も碌に交わさなかった相手に、瞳を譲る。そして無事で良かったとそう笑う、そんな人間だ」
そういう人間だった。城崎尊という人間は。自分に利益なんて無いのは百も承知で、それでも誰かのために動こうとする。彼女がそう在るにまで至った経緯は知らないけれど、確かに彼女はそういう人間だったのだ。そうしてそのまま息が止まったかのように硬直しているレゴに、シロガネは言葉を続ける。
「我はミコの行動に生かされた。この身に託された願いを繋ぐことが出来た」
「…………」
「だからミコが誰かのために動くのを、止めることは出来ない。例えそれであいつの身が危険に陥るとわかっても」
だからこそ、尊のそれをシロガネは止めることが出来ない。止めたい気持ちはあった。危険なことに関わってほしくないと思ったし、初めはそんな危険から彼女を守り通すつもりもあった。けれど今となってはそれが、城崎尊という人間を壊す要因に成りかねないことをシロガネは知っている。
そういう生き方をしていた彼女に助けられた自分が彼女を止めるのは、どうしようもない矛盾だと思ったのだ。自分だけ助かって、それは嬉しくて、でも尊を失いたくないからこそその後の彼女の行動は止める。不義理の塊のような在り方を、シロガネはどうしても許せなかった。そういう風に在るくらいならば、彼女と彼女のしたいことを最大限に守れるようになりたい。その全てを守れるくらい、強くなりたい。
それこそが、今のシロガネの願い。
「……さて、聞きたいことはもう無いな。では、対価だ」
「……あ? ってちょ、ちょっと待てって……!?」
「どうせ暇だろう。丁度面倒事をどう片付けようかと迷っていたところだ、手伝え」
だがそこまでを呆けた顔をしているこの男に話す必要はないだろう。もう話は終わりだと言わんばかりに組んでいた足を解いたシロガネは、突然すっと立ち上がった。そしてそのままぼうっと突っ立っていたレゴの手を引く。成人男性と少年、それだけの体格差があってもクドラ族の力というのはやはり強大なもので。レゴは突然手を思い切り引かれたことで体勢を崩すと、そのまま下半身を地面に擦られる形で引きずられそうになった。
あっさりと引きずられかけて困惑の声を上げたレゴを、白と黒の瞳が見下ろす。成程、確かに黒い方は自分が知る少女のものと似ている。こうしてまじまじと見れば確かに同じものであると納得して。しかし話を聞いたことで納得してしまった、その隙が悪かったのだろうか。
「お前がやる方が都合が良いことがある」
「……エ?」
レゴはそのままシロガネの言う『面倒事』を片付けるため、『お前がやるほうが都合がいいこと』とやらに使われる羽目になるのだった。