第10話 「私が好きなのはたったひとりのカレ」
第10話 「私が好きなのはたったひとりのカレ」
聞き覚えのあるクラシックのメロディがヒトの声にかき消されそうになっていた。
「ねえ、カニクリ。この曲って何だっけ?」
12月の第三週の日曜日。
私は前から約束していた先輩の起業記念パーティーにカニクリと一緒に来ていた。
都心にある高層ビルの中のイタリアンビュッフェでは色とりどりの料理とカラフルなドレスの女性とシックなジャケットの男性達が回遊する魚みたいにぐるぐるとしていた。
「曲? あぁ、エリック・サティのジムノペディかな」
その中で、プリンセスラインの深いサファイアブルーに染められたパーティードレスは肌の白くて黒髪のカニクリによく似合っていた。
「朋弥くんって、確かこの曲好きだよ」
何でもないように言ってカニクリは大皿に盛られたよくわからないパスタを自分の皿に取り分けた。
隣に立っているカニクリの長い黒髪は珍しくアップにまとめられて毛先はくるくると巻かれていた。
露わになったうなじからは何とも言えないフェロモンが出ているようで、私はそこにそっと触れてみた。
もちろん、ただの意地悪だ。
「ちょっと、やめてくれる?」
いつもより濃いめのメイクの彼女が私をかわいらしくにらんでいる。
今思えばカニクリとはずいぶんと仲よくなれた。
私の着ているピンクのドレスもカニクリと色違いにした。
髪もメイクも私とイズちゃんが通っているサロンでアレンジしてもらった。
こういうのが、友達なんだと今は思える。
4月にお互いを知った時はこんなふうに二人で出かけるなんて思えなかった。
「でも意外と年齢層が幅広いのね。あそこにいるのが梨世の先輩でしょ?」
ヒトに囲まれた中で笑顔を振りまいているスーツの男性が私達の視線に気付くと小さく手を振った。
「男女問わず人気なのね。確かに社長とか代表向きかも」
とカニクリがパスタを頬張りながら言った。
「で、あの先輩とは何もないの?」
少し遠回しな表現だった。
いつもなら、
「先輩とセックスしたの?」
と直線的に聞いてきそうだった。
「てかカニクリ、私のことビッチだと思ってるでしょ?」
そんなことを言ったところで私達の距離は変わらないという自信があった。
「うん。思ってる」
カニクリがそう言って笑うと他のOBの先輩が話しかけてきた。
「もうそんなことはないとも思ってるよ」
ひとしきり先輩達と話して離れていくとカニクリが耳打ちした。
「ふーん。じゃあさ、私が紹介してあげるよ。私が手のつけてないヤツ」
「いらない。ていうか、そんなヒトいるの? 梨世が手を出してないヒトなんて」
「いるよ。……たぶん」
「まあ、いたところで紹介されても困るんだけどね」
そう言いながら魚介類がたくさん入ったアクアパッツァのアサリの身を貝から箸で取り分けて食べていた。
「何か、出入りが多いね。何人くらい来てるのかな」
カニクリの視線の先で入り口のドアが開くと、ちょっとした歓声が起きた。
「あれって、もしかしてモデルのエム?」
「カニクリも知ってるんだ?」
「CMによく出てるよね」
「エム先輩も勉強会のメンバーでね、就活してたんだけど内定もらったんだって。だから最近テレビにも出てるんだって」
いろんなヒトに声をかけられながら歩いていたエム先輩が私を見付けると顔の隣で小さく手を振りながら歩いてくる。
「梨世ちゃん、久しぶり。いつ以来だっけ?」
「エム先輩、お疲れ様です。9月の時以来ですよ。先輩モデルに戻ったから忙しそうですね。今日は、彼氏さん来てないんですか?」
「あ、シュウジ? うん、何かカレも忙しいみたい。で、隣の子は梨世ちゃんのお友達?」
「はい、まあ友達と言えば友達です。カニクリです」
「カニクリ? かわいい名前ね」
「全然、かわいくないですよ」
「えー、かわいいよ。ドレスも梨世ちゃんと色違いなんだね。二人ともかわいい」
「エムさんもドレス素敵ですね。さすがモデルさんですね」
「えー、そうかな? ちょっとセクシーすぎない? 大丈夫?」
「エム先輩はそれくらいセクシーなのが似合いますよ」
私達が話しているとそれまで距離を置いていたオンナの集まりにいつの間にか飲まれていた。
「ほんとう? ありがとう。カニクリちゃんもスタイルいいから似合いそう」
「そんなことないですよ。着やせするタイプなんです」
集団の中心で話しているエム先輩とその会話に合わせているカニクリ。
いつもなら、
「ほら始まった。女子のかわいい合戦」
とか言ってもっとキツい言葉で一蹴してそうだった。
「あ、先輩。私ちょっとトイレ行ってきます」
「うん。またあとでね」
「待って、梨世。私も」
女子の集団から抜け出すと私達は普段よりも高いヒールで転ばないようにゆっくりと歩いた。
「エムさんって梨世と似てるよ」
「ほんと? 美人なとこ?」
「自分で言うなよ。まあ、そうなんだけど」
カニクリが素直に少しだけ笑った。
「たとえば、集まりに少し遅れてくるとか話の中心になるところとか」
「それって計算ってこと?」
「美人だからかな」
「ほんと? カニクリが褒めてくれるなんて珍しいね。ありがとう」
「まあ打算的ってことよね」
「世界は打算と計算でできているのかもね」
「梨世、それってほぼ同じ意味じゃない? 打算は計算高いってことだし、計算は文字通り計算することだし」
「うん、だからたとえばね、目の前でこっちにアピってくる男子と会話しながら大好きな相手にメッセ送ってるみたいな感じ」
「計算高く計算しているってこと? まあ、何となくわからなくはないかな」
そう言い残して私達はそれぞれ個室に入る。
「それで、カレとはどうなの?」
「彼? どの彼?」
ほとんど同じタイミングで出てきた私達は大きな鏡の前で身だしなみを確認する。
「そういう感じならそれでもいいけど」
とカニクリはポーチから取り出した濃いめの赤いリップを塗り直す。
「でも、別れてよかったよ。あんなヤツ」
「……何で?」
私はそのリップを何も言わずに手を出して借りる。
「だって誕生日に何もくれなかったんでしょ? そんなの梨世のこと、もう何とも思ってないってことじゃない?」
「それは、違うよ。ほんとうはくれたの。だけど私がもらえないって言って断ったの。だから、そんなふうにカレのこと悪く言わないで。私にはもったいないくらいのヒトだった」
「……梨世、変わったね」
赤く染まる唇を重ね合わせた私達は仲よしの友達に見えるだろうか。
「前は別れたカレシのこと梨世が悪く言ってたのに」
それとも、親友に見えるだろうか。
「私は、変わってないよ。ただ、カレのこと悪く思ってないだけ」
「それって、今も好きってこと?」
「そう……なのかな」
それとも、ただの恋敵だろうか。
「好きなんだよ。だから、変わったっていいと思うよ」
私が私でなくなったら、何になるんだろうか。
「相手を変えてしまう覚悟と、自分が変わる勇気が必要なんじゃないかな。何をしてほしいじゃなくて、何をしてあげたいか」
私達がトイレからフロアに戻ると、そのことに気付いた先輩が近付いてきた。
「梨世、せっかく来てくれたのに話相手もできなくてごめんね」
「いいえ。みなさんの先輩ですから。それに私の話相手ならいますよ。親友のカニクリです」
「はじめまして。カニクリです」
「どうも。梨世とルームシェアしてる子だっけ?」
「あ、違います。その子が今日来れなくて私が代わりに」
「そっか。せっかくだから一緒に話聞いてもらいたかったんだけどな」
「話、ですか?」
先輩が呼んだウエイターから私とカニクリは飲み物を受け取る。
「うん。まだ起業したばかりだから正直不安なこともあるけど、ひとりのオトコとしてちゃんと梨世のこと幸せにする自信があるんだ」
いつの間にか私と先輩の周りをパーティーの参加者が囲んでいた。
「だから、オレと結婚を前提に付き合ってくれないか?」
思ってもみなかった。
私の中に結婚なんて言葉は存在しないから。
それに私は知らないヒトにまで『ビッチ』と揶揄されるようなオンナなのに。
「私は、先輩に相応しいオンナじゃないですよ」
私の視線の先にいる先輩の表情が少し曇る。
「今の私に先輩と結婚する資格なんてないんですよ」
「今すぐじゃなくていいんだ。いつかオレと結婚したいって思ってくれるまで待ってるから」
先輩の後ろにいる他の先輩がクラッカーを準備しているのがちらっと見えた。
「先輩。――ごめんなさい!」
私は深々と頭を下げると、グラスを置いてカニクリの手をつかんで、その場から逃げ出した。
私に手をつかまれたまま、カニクリは何も言わず一緒に歩いてくれた。
買ったばかりのハイヒールが痛い。
「何も逃げ出さなくてもよかったんじゃない?」
足が痛くなって立ち止まると、私から解放されたカニクリが靴ずれで赤く血がにじんだ私の足を見ながら口を開いた。
「だっていきなり結婚って……」
「いきなりじゃなかったかもよ。今までその気にさせてキープしてた梨世が悪いんじゃない?」
カニクリはバッグから取り出した絆創膏を血が出てきた私のアキレス腱に貼ってくれた。
「私……が悪かったです。ごめんなさい――」
「あれ? 今日は、私悪くないもん、じゃないのね」
「これでも反省はしてるの。今まで大人げなかったなって」
「へぇ。どんなふうに?」
「それは、――好きになるように仕向けて弄んでみたり、好きでもないのに好きなフリしてみたり」
「それはいいこと?」
「悪いこと……です」
都心の迷路のように路線と地下道が入り組んだターミナル駅はヒトであふれていて、私達の存在を誰も気にとめない。
「それがわかってるなら、成長したのかもね」
「……成長、したのかな?」
私達は歩き出す。
「うーん、どうだろうね。まあ少なくとも前の梨世より今の梨世のほうが一緒にいて楽かな」
「そうなの?」
「うん。そうじゃなきゃ今日だってプロポーズされたのに一緒に走って逃げたりしないよ。しかもヒールで」
「ごめんって。でも、ありがと」
私は隣を歩くカニクリの腕にしがみつく。
「ちょっとやめてよ。歩きづらい」
「いいじゃん。このままウチまで帰ろうよ」
「嫌です」
「じゃあさ、一緒に住もうよ」
「えー? 今度は梨世が私にプロポーズ?」
「そうだよ。イズちゃんと三人で住もうよ」
「嫌よ。第一、あの部屋に三人は狭いじゃん。私、自分の部屋がないと嫌なの」
「だったら引っ越す。三人で住めるところ探そう?」
「だから嫌だってば。そんなことしたらますます梨世が自立できなくなるでしょ?」
「自立なんてしなくていいよー。だから一緒に住もう?」
「もうしつこいなぁ。住まないってば」
「カニクリのケチ」
「うるさいなぁ。……だって、私は今の部屋から出ていけないんだよ?」
そしてそのまま駅のホームに立った。
何で、出ていけないの?
「……彼を忘れないために」
彼って、元カレ?
「違うよ。でも、――命の恩人」
大切なヒトなんだね。
「うん。もう会えないけどね」
どうして? 結婚したの?
「ううん。……死んじゃったんだ。自殺だって」
……その部屋で?
「どこかわからない。でも、カレの弟が言ってたの。もう会えないって。死んだんだって」
今でも、その――好きなの?
「うん。だから、忘れない」
朋弥のこと、好きだったのに?
「それは、まあ、……そうだけど。もしかして梨世、嫉妬?」
そうかもしれない。でも、――今の私に嫉妬する資格なんてないよ。
「カノジョじゃないから? だったらカノジョにまたなればいいんじゃない?」
今の私じゃ朋弥を幸せにできないよ。
「そんなことないよ。そうやって大事なこと隠したまま話さないで終わってほしくない」
さっきは朋弥のこと悪く言ってたくせに。
「朋弥くんにだって悪いところはいっぱいあるよ」
そうかな。だけど、カニクリも朋弥が悪いなんて思ってないんでしょ?
「それはどうかな。彼の悪いところも知ってるよ?」
でもそれ以上にいいところもいっぱい知ってるでしょ?
「うーん、そうかもね」
どっちだよ。
「わかんない」
隣同士に座った私達はそれぞれにだけ聞こえる声の大きさで話して笑い合った。
それから手をつないで私達は帰った。
私とイズちゃんの部屋へ。
私達の友達が待つ部屋へ。
その日は前日から降り続く雨が昼を過ぎてもやまなかった。
「雨、やまないね」
窓辺に飾られたクリスマスツリーの隣でイズちゃんがつぶやいた。
「夜には雪になるかもって朝のテレビで言ってたよ」
私はソファの上で毛布にくるまって横になっていた。
「ずっとそのままだと梨世ちゃん雪だるまになっちゃうよ」
カーテンを開けた窓は結露で白み、その向こう側にあるグレーのような白い空からは冷たい雨音が聞こえていた。
「なりませんよーだ」
「だったらそろそろ起きてお料理手伝って。まずはお昼ご飯からだよ」
ケータイからオトコのメモリーを友達以外全部消した。
「はーい」
飲みの誘いも合コンも行かないと伝えると向こうからの連絡もなくなり、鹿山梨世は死んだんじゃないかという噂すら流れることもあった。
「梨世ちゃんは鍋でお湯を沸かして。お野菜いっぱいのポトフを作るよ」
毛布から抜け出たパーカーとスウェットの部屋着の私はイズちゃんの隣に立って大きな鍋に水をためる。
「これって夜の分も?」
ある意味、私は死んだのかもしれない。
「そう。みんな寒い中、来てくれるんだから温かい物ちゃんと用意しておかなきゃね」
過去の私はいなくなり、新しい私がいるつもりだった。
私は変われたんだろうか。
変わっていけるんだろうか。
「ねえ、イズちゃん。私さ――」
「一人で暮らすなんて言わないでね」
「……え?」
「そもそも梨世ちゃんは自炊なんてまだまだできないし、一人で暮らしてもどうせ私のところに来てご飯食べることになるんだから」
「いつかは、できるようになるよ」
そんなこと、もうどうでもいいや。
「できるようになるまでは、イズちゃん、いっぱい料理教えてね」
私は私だ。
「わかった。いっぱい教えるからその時は食べさせてね」
それ以外の何者でもない。
変わっても変わらなくても、それは私だ。
「あ、でもその前に食べさせたいヒトがいるよね」
私の隣でイズちゃんが笑っている。
「……その時の味見はイズちゃんがしてよね。失敗したくないからさ」
「任せておいて。食べるのは梨世ちゃんよりも得意だよ」
「またおっぱい大きくなるだけかもよ」
「おなかにつかなければいいですよーだ」
「ああ、このおなかは何ヶ月ですかー? 赤ちゃん入ってますかー?」
ふざけてイズちゃんのおなかを私は触る。
「2ヶ月だよ」
「……え?」
「――ほんとうに産まれるよ」
「……嘘?」
「嘘だよ?」
一瞬事態が飲み込めなかった。
それでも野菜を持って意地悪な微笑みを見せているイズちゃんが言ったことはたわいない冗談だとわかった。
「ちょっともう! マジで信じちゃったじゃん!」
「だって相手がいないじゃない。信じないと思ったのに」
手にしたジャガイモをイズちゃんは洗い始めた。
「……それでも生理不順にはなったよ」
「――イズちゃん」
「もうすぐさ、今年も終わるじゃない? だから、まだ残ってるいろんなこと吐き出して水に流そうかなって」
洗ったジャガイモに十字の切り込みを入れると手際よくラップに包んでいく。
「あの時、これで終わりって言ったのにごめんね」
「ううん。あれは全部私のワガママなんだからイズちゃんは悪くない」
「それと――」
イズちゃんはラップでくるんだジャガイモをレンジで温める。
「ずっと思ってたんだけど、そろそろ朋弥くんとヨリを戻したら?」
温める時間を合わせながらイズちゃんは背中越しにそう言った。
「それは、私一人で決められることじゃないから」
「気持ち、確かめなよ?」
振り向いたイズちゃんの瞳は潤んでいた。
「梨世ちゃんが幸せだと私もうれしいから」
「……うん。ありがと」
それから私達がまた大量の野菜を切っているとノックもなしにドアを開けて、
「――え? カニクリ?」
カニクリが入ってきた。
「あ、カニクリちゃんおかえりー」
「あ、ただいま。ちょっとイズちゃん、梨世に合い鍵の話してなかったのね」
「あー、そっか。梨世ちゃん、カニクリちゃんに合い鍵渡したけどいい?」
「事後報告かよ」
「もちろん! これで三人一緒に住めるね? カニクリ」
「だから嫌だって言ってるでしょ。私、自分の部屋がないのは嫌なの」
カニクリがリビングのソファにロング丈のコートを脱ぎ捨てると私の隣に立った。
「カニクリちゃん、エプロンこれ着けて」
とイズちゃんが手渡したピンクのエプロンは私とイズちゃん二人で選んだ。
「ピンク……ありがとう。梨世はエプロンしないの?」
「私はいいよ。部屋着だし、汚れたらすぐ洗うし」
「いいの? 朋弥くんもうすぐ来るって言ってたよ?」
「マジで?」
「マジマジ」
私はすぐにパーカーを脱いで自分の部屋に入った。
その背中に二人の笑い声が聞こえたけれど気にならなかった。
「かんぱーい!」
東京では珍しく雨が降り止まないクリスマス・イヴ。
私達のクリスマスパーティーが始まった。
私とイズちゃんとカニクリが作ったポトフとポテトサラダとツリーに見立てたブロッコリーのサラダ、フライパンで焼いたミートローフ。
ミツさんとメロスが買ってきたローストチキンやフライドチキン。
そして朋弥が買ってきた大きな8号のクリスマスケーキ。
「ねえ、松井さんも来るって言ってた?」
「にぎやかなの苦手だから遠慮するって。彼氏いるみたいだからそっちじゃないかな」
得意げにケーキを見せてくれた朋弥は少し残念そうだった。
「そっか残念。来年から本屋さんでバイトだから最後にありがとうしたかったのに」
「渡来ちゃんは最近できたカレシとイルミネーション見に行っててユウキとマイはテニサーのパーティーだとさ」
ミツさんにとりあえず声をかけてもらった三人はダメだったらしい。
「……シズクは?」
「課題が終わってないから来れないって言ってたよ。――まあ、そうだよね」
カニクリから連絡してもらったのにシズクもやっぱりダメだった。
今年いろいろあったから話したかったけど無理もないか。
シズクとはまた別の機会に話そう。
「はーい、みんな。いっぱい食べてねー」
リビングのテーブルに料理を置いていくイズちゃん。
メロスはそれを手伝っていた。
「メロス、ごめん。私も――」
「梨世はみんなの分を取り分けてやって。朋弥もよろしく」
メロスが箱からお皿に並べたチキンはとてもいい匂いがしていた。
「オッケー。ねえ、お皿取って」
「うん。はい、どうぞ」
朋弥から受け取ったお皿にテーブルの上の大きな鍋から私はポトフを取り分ける。
「てかメロスはあの子とどうなったの?」
「はあ? どうもなってねえよ」
私がそう言うとメロスは焦って強めに言った。
「あの子って?」
カニクリはポテトサラダを取り分けながら聞いた。
「この前三人でご飯食べてたら来てくれたんだよ。メロスのカノジョ」
「マアサちゃんだっけ? 確かギャルヒーって雑誌の専属モデルの」
話を聞いていたイズちゃんは大皿のシーザーサラダを置くと床にぺたんと座った。
「オレ達と同い年でモデルやってる。アイツの母親が今の編集長なんだ。柚木真亜紗だよ」
「――え? 嘘……」
「実家の隣に住んでるヤツの又従姉妹がマアサで、小学生くらいまでチハルおばさんとよく静岡に来てたんだよ」
話しているメロスの隣でカニクリがうつむいていた。
「カニクリ、どした?」
ポトフを入れた器を差し出すと、顔を上げたカニクリと視線がぶつかる。
「……何でもない」
その瞳が潤んでいた。
そんな守ってあげたくなるような彼女を見るのは初めてで、器をテーブルに置くとカニクリの隣に座っていた朋弥を押しのけて彼女を抱きしめた。
「……ちょっと梨世。急に何よ」
「何でもないけど、何でもある気がするから。――泣いてもいいんだよ」
「ちょ、ちょっとやめてよ。――ほら、食べよ」
突然のことでみんな少し驚いていたけれど、それでも私達のクリスマスパーティーはたくさんの料理と笑顔で楽しかった。
「柚木真亜紗ってね、私の中学からの同級生なんだよ」
とベランダで一つのストールを二人で肩にかけて、カニクリがそっと話し出した。
「もう一人の友達と三人で同じ高校に入ったんだ。頭のいい真亜紗に勉強教えてもらってね。それで一年の時にできた私の初カレと彼女が浮気してたんだよね」
「マジで……」
「マジだよ。だから、梨世のそういうところがすぐにわかっちゃって嫌いだったんだと思う。私も真亜紗も一緒なんだよ。……ごめんね。キツいことばっか言って」
「ううん。全部私のせいだから」
首を振る私の吐息が白く雨の夜空に消えていく。
「その、カレって命の恩人の?」
「違うよ。でも、初カレにフラレてから私、海で自殺しようとしたの。それを引き止めて助けてくれたのが、命の恩人の彼。――小説家なの。彼に私は文章の書き方を教えてもらって、今は私も時々書いてるの」
「たまにものすごい勢いでパソコンに向かってるのは小説書いてたの?」
「そうそう。ちょっとだけ仕事もらえてるからがんばらないとね」
「その彼のために?」
「そうだよ。小説家のために」
都会の街灯に照らされたカニクリの顔が少し火照っているように見えた。
「あー、もう。この話、一生誰にも話さないって決めてたのに。何か、梨世には話しちゃうんだよね。意外と梨世、カウンセラー向いてるんじゃない?」
それが寒さのせいなのか、彼とのことを思い出したからなのか。
「私はカニクリの話を聞くくらいで精いっぱいだよ」
「まあ、どっちかって言うと、梨世は私の話を聞けって感じだもんね」
やっぱり寒いね、とカニクリは笑ってストールから部屋の中へと逃げていく。
「……私がそんなことを言えるのは、カニクリくらいだよ」
私はそのあとを追ってそっと窓を閉めた。
「昔の恋人の話って聞いたことある?」
ミツさんに女の子から電話がかかってくるというクリスマスの奇跡が起こって慌てて出ていってから、カニクリが私に話を振った。
「私は聞いたことないかな。過去は過去だし、興味ないよ」
「朋弥くんは? 興味ある?」
「んー、ないとは言いきれないかな。知りたくなくても知っちゃうことってあるし」
イズちゃんは何も言わずに立ち上がって冷蔵庫に向かう。
メロスもこの話題を避けたいのかキッチンに行った。
「たとえば、今まで何人と付き合ってきたかは聞きたくなくても、同じような別れ方を繰り返しているなら原因はその本人にあるのかなって」
今日のカニクリはおしゃべりだ。
「だから、過去に別れた原因を話し合ってもいいんじゃないのかなって」
それはたぶん私と朋弥に対しての気遣いだ。
イズちゃんとメロスがそのつもりで洗い物を始めたのかはわからないけれど、カニクリが何を思っているのかわからないけど、
「それって、私達に話し合えってことだよね?」
「まあ、簡単に言えばね」
「じゃあ、話し合ってみる?」
私は話し合わなければいけないヒトにそう問いかける。
「いいけど、話すのはほとんどそっちのほうだよ」
「そういう言い方、好きじゃないな。話したくないの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、どういうわけよ?」
「ちょ、ちょっと、二人で話してもいいかな?」
「オッケー。私の部屋に行こう」
そんな私達のやりとりを三人はそっと見守っていた。
***
梨世の部屋に入るのは初めてのことだった。
ベッドと服で埋め尽くされたシンプルな部屋だった。
「意外とシンプルなんだね」
「着替えと寝る時くらいしか部屋にいないから」
化粧品で散らかった机を片付けるでもなく、彼女は飲み物をその隙間に置いてベッドに座った。
白とピンクの色で飾られた家具達の中で、キャラメル色の髪をした彼女は浮いていた。
「座ったら? あんまりじろじろ見られても恥ずかしいし」
と自分の隣のスペースをたたいて示した。
僕もグラスを机の空いたスペースに置いて彼女の隣に座る。
「今更、何を恥ずかしがるのさ」
「そんなのいろいろあるでしょ? 女の子の部屋に来ておいてそんなこと言わないで」
「だったら何を言えばいいのかな」
「何でもいいよ。ちゃんと向き合って話したいの。――ううん。二人のこと、ちゃんと話し合いたいの」
「二人のこと?」
「うん。私と、朋弥のこと」
「さっきは過去の別れた原因って言ってたけど」
「そんなの私のワガママなだけでしょ?」
「そうだとしたらなぜワガママなのかって話だよ」
「私がさみしいからじゃない」
「開き直るなよ」
「だったら朋弥は何が別れる原因だって思うの?」
「それは、僕が暇つぶしにもならないからだろ?」
「それ? そういう意味で言ったんじゃないよ」
「じゃあどういう意味だよ」
「二人で一緒に暇つぶしもできないって意味だよ」
「どういうこと?」
「だから、私は朋弥と暇つぶしで付き合ったんじゃないってこと」
「そもそも付き合ってなかったのに?」
「だってそれは、一緒にいるのに一緒にいないみたいに感じてたから」
「それは……シズクにも前に言われたことがある。僕は自分のこともどこか他人事みたいに話すって」
「……そっか。朋弥の原因はそれかもね。どうしてそんな言い方するの」
「そんなつもりはないんだ。ただ何て言うか、世界は自分とは関係のないところで動いてるんだって思ってて」
「関係なくないのにね。朋弥の世界は朋弥を中心に回ってるよ」
「それでも自分の知らないところで何かが起きて終わりを迎えて、それを知るだけだったらやっぱり世界は僕に関係ないって思うよ」
「その世界って、どんな世界?」
「それは――梨世のいる世界」
話し始めてから久しぶりに彼女と視線がぶつかる。
「私はここにいるよ」
「だったら僕が梨世の見ている世界にいないのかもしれない」
「そんなことないよ」
梨世の細くて白い手がベッドの上で居場所を失っていた僕の手の甲に触れる。
「それはもう、過去の話でしょ? 今、朋弥は私の目の前にいる。私は朋弥のすぐ近くにちゃんといるよ」
そして力強く握った。
「だけど――」
「さすがに何回もマイナスなこと言われるといい加減怒るよ」
「うん。ごめん」
僕は彼女の手を返して強く握った。
「梨世、――これからどうしようか?」
「これから? ――エッチする?」
「いやそうじゃなくて」
と僕が思わず笑いながら言う。
「あ、今コイツやっぱりビッチだなとか思ったでしょ!」
「思ってないよ。……でも、そこはちゃんとしよう」
「ちゃんと?」
「うん。だから、――僕と付き合ってください」
「……私のこと、好き?」
「もちろん。好きだよ」
「――ありがとう」
「そうじゃないだろ?」
「え? あー」
と彼女はうつむいた。
「――朋弥、大好きだよ」
その言葉は握り合った僕達の手の中に落ちた。
「だから、私と付き合って」
視線を上げると彼女のキレイな形の瞳が僕を見ている。
そのまま見つめ合いながら、僕は何も言わなかった。
「何か言ってよ。私の人生初告白なんだよ?」
「初、なんだ。意外。梨世からちゃんと言ってもらえたのが初めてだったから噛みしめてた」
「一瞬嫌われたかと思っちゃった」
「ついさっき好きだって言ったばっかりなのに?」
「ヒトの気持ちはいつ変わるか、わかんないでしょ?」
「そうかもね。じゃあ気が変わらないうちにこれ渡しておくよ」
「ん? 何?」
僕は上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「あ、それって――」
「誕生日に渡せなかったヤツ。今度こそ、もらってくれるかな?」
「今ももらう資格があるのか自分じゃわかんないけど、ありがたくいただきます」
「はい。どうぞ」
「開けてもいい?」
「もちろん」
彼女は小さな箱の紺色のリボンをほどく。
開かれた箱からピンクゴールドのネックレスが見えた。
「2ヶ月近く寝かせてるからほどよく熟成されてるかも」
「ごめんって。でも、クリスマスプレゼントにはちょっと軽いかな」
「……え?」
僕の顔を見て梨世は笑った。
「嘘だよごめんね。ほんとにうれしいです」
「それならよかった。それで、僕には?」
「え?」
「いや、え? じゃなくて。僕にクリスマスプレゼントは?」
「だって今日はご飯持ち寄りでプレゼントなしじゃん」
「待て待て。それは友達みんなの話で、ここの二人は特別じゃん」
「うん。特別」
「それならプレゼントを……」
「誕生日の使い回しなのに?」
「それはまあ、そうですけど」
「嘘だよ。ちゃんと用意してるよ」
彼女は枕元に置いてあったスマホで電話をかける。
「もしもし、松井さん? 遅くなってごめんね。今から行くからよろしく」
さ、行くよ。
と彼女は電話を切ると立ち上がった。
「行くってどこに?」
「お店に決まってんじゃん」
彼女は机の上の鏡をのぞき込むと、小さな箱から取り出したネックレスを着けようと手を首に回す。
「店って……?」
髪の毛が邪魔で手間取っていた。
「やってあげるよ。貸して」
「うん。ありがとう」
彼女は僕にネックレスを渡して髪をまとめて右手で持ち上げるとこちらを見た。
「普通後ろじゃない?」
「そう?」
と彼女は微笑む。
「私はこっちの方が好きなの」
ネックレスを持った手を彼女の首に回す。
「だって私のためにがんばってる朋弥が見たいから」
留め具はなかなか言うことを聞かず、僕は彼女に近付いて首の後ろをのぞき込む。
キレイなうなじと後れ毛が僕の手をなでる。
「くすぐったいよ。早くして」
耳元で彼女が言った。
僕にはその声と言葉がくすぐったかった。
その間、残された彼女の左手はずっと僕の胸の上に乗せられていた。
「ねえ、早く」
ようやく留め具がはまると離れた僕に彼女が抱きついた。
「松井さんを待たせてるんじゃないの?」
「ちょっとだけ。ついでに、キスして」
ワガママな彼女のお願いを僕は応える。
「それじゃサプライズプレゼント期待しててね」
外はまだ雨みたいだから寒いよ。
彼女はそう言ってピンクのコートを羽織った。
***
「カレシは大丈夫だったの?」
いつもの閉店時間より少し早く着いたものの、待ちくたびれていた松井さんに私は聞いた。
「ああ、大丈夫です。クリスマスとか気にしてないんで」
そう言って奥から台車に乗せたプレゼントを押してきた。
「ちょっとデカくない?」
雨に濡れたチェスターコートを気にしながら朋弥が言った。
ラッピングもしようと思ったのだけれど、この大きさと重さに断念して包装紙を巻き付けてリボンで飾るだけにした。
「とりあえず海水もポリタンクに入れてあるんで水槽の立ち上げをしてください。メインのクラゲはまた後日ということで」
「もう中味が何かわかっちゃってサプライズ感がないんですけど」
さすがにポリタンクにリボンはなかったかもしれない。
「そんなこと言わずに。そこらのネックレスより高いんですよ。これ」
松井さんはその大きな箱をたたいた。
「そうだね。ありがとう、松井さん」
「私じゃなくて、カノジョさんに言ってあげてください」
表情の乏しい松井さんが笑った。
「あ、そっか。ありがとう、梨世」
「――どういたしまして」
台車を押して私と朋弥が店を出る頃には雨がやんでいた。
肌を切りつけるような冷たく乾いた夜風が私達に吹き付ける。
「さむ。朋弥、手袋しないで大丈夫?」
「そんなに遠くないから大丈夫だよ。梨世は?」
「私? 私はこうするから大丈夫」
と台車を押している朋弥のコートのポケットに後ろから両手を入れる。
「頭いいよね。歩き辛いけど」
雨の上がった真冬の夜空の下を私達は歩く。
空の雲が流されて、月が出ていた。
「朋弥、見て。満月」
「残念。今日は十六夜だよ」
「イザヨイ?」
「満月の次の日のこと」
「さすが、朋弥。頭いいよね」
何でもないこと、たわいないことを話しながら私と朋弥は進む。
「月がキレイだね」
「そうだね。ちょっと寒いけどね」
やっぱり歩き辛いね。
だろ?
仕方ない。腕で我慢します。
朋弥の腕をつかむと強い風が吹く。
「何かまた降ってきた」
そう言う彼のメガネのレンズにいくつかの水滴がしがみついていた。
「待って。拭いてあげるよ」
私はコートの袖で彼のメガネのレンズを拭く。
「あ、ありがとう。もう大丈夫」
嫌がるような彼がかわいく思える。
「雪になるかな?」
「なるかもね。降り出す前に家まで行こう」
少し早く歩き出した彼に合わせて歩くとショートブーツが軽やかに響いた。
こんな時間が私に訪れるなんて、思ったことはなかった。
ぽつりぽつりと雨の降り出す隙間を縫うように彼の話す空気感が心地よくて、ずっと聞いていたいと思う優しい時間。
「ほら、梨世。ちゃんと持ってよ」
大きな箱を部屋に運び入れる瞬間、私はほとんど手を添えているだけで彼が支えていてくれる。
海水のポリタンクを彼が運ぶ間に私が包装紙を取ってしまったことに彼はすねる。
「でも、メインはこっちですから」
彼が箱を開けると中から緩衝材に包まれた水槽が現れる。
円柱を上から見たような、もしくは横に倒したような、どちらかと言えばドラム式洗濯機のドアの部分に似た水槽は、ずっと彼がほしがっていた物だった。
「中身がわかってても、いざ出してみるとちょっと感動モノだね」
彼はそう言って楽しそうに説明書を見ながらコードを接続したり、循環ポンプやフィルターを取り付けていく。
「朋弥、生き生きしてるね」
「え? そうかな? でも、新しいオモチャ買ってもらったみたいで楽しい。梨世、ありがとね」
不意に彼がコドモみたいな満面の笑みを見せたので、私の心は不器用に躍る。
「何か今の顔、キュンときた。もう一回やって」
「えー、嫌です」
「いいじゃんケチ」
「はいはい。じゃあ、海水入れまーす。梨世手伝って」
店から借りてきた電動の給油ポンプで彼が海水を入れるのを私は手伝う。
と言っても私が手伝うのは電源のスイッチを入れるくらいであとは彼が全部やっていた。
私達はこれくらいがいいのかもしれない。
彼がほとんどやって、私が手を出すのはほんの少し。
それが甘えだと、男を頼りすぎだと言うならそれでもいい。
これが私と彼の距離なんだ。
私はただ、愛がほしかった。
誰かの代わりとか、何かを犠牲にしたモノなんかじゃなくて、私だけに向けられた真っ直ぐな愛。
そこに至るための恋なんて簡単すぎて意味がないと思っていた私が、こんなにも恋に不器用になったのはきっと、アナタを好きになったせいだ。
「朋弥。ありがと」
海水を入れ終えて、主役のいないの水槽のLEDライトを点灯する。
明かりを消した部屋の中で水槽からのゆっくりと変化していく七色にベッドに座った私達は照らされていた。
「ん? どうした?」
「私を、好きになってくれてありがとう」
「何だ、そんなこと?」
「そんなことって何? 私はただありがとうって――」
少し声を荒げた私を彼は微笑みながらベッドに押し倒した。
「好きになったくらいでありがとうなら、これから100万回言っても足りないよ」
「100万回好きって言ってくれるの?」
「何回だって言うよ。――梨世、大好きだよ」
朋弥が私を真っ直ぐに見つめている。
光がラベンダーパープルから淡いピンク色に染まっていく。
「……この色って何か、エロいね」
「あ、誤魔化した?」
「違うよ。ただ、恥ずかしかっただけ」
笑っている彼の頬に触れる。
「私も、大好きだよ。愛してる、朋弥。だから――」
言いかけた私の唇を彼はキスでふさいだ。
「ちょっと、ちゃんと言わせてよ」
「梨世と一緒にいると楽しいね」
「うん。私も……って、そうじゃなくて」
吐息が鼻にかかるのがくすぐったい。
「だから、これからも一緒にいてね」
「もちろん。ずっと一緒だよ」
そう言って彼が愛に満ちたキスをくれた。
***
水槽、空っぽだね。
梨世がつぶやく。
すぐにいっぱいになるよ。
いっぱい? いっぱい入れたらクラゲがかわいそうだよ。
彼女は随分とクラゲにも優しくなった。
初めて会った頃は自己中心的であまり聞きたくない言葉を使うギャルだった。
いや、それは今も変わらないのかもしれない。
それでも彼女の中で何かが変わった。
それは僕もだ。
クラゲの水槽に囲まれた都会の底で彼女にキャラメルを食べさせた時から、何が変わったというんだろう。
相も変わらずクラゲが好きなだけだ。
あの時、出逢わなければ僕達はきっと今も何の接点も持たないままだっただろう。
それでも、僕達は出逢った。
二人で時間を共有することが、すれ違いも言い争いも、お互いを知るためには大切な瞬間だったんだと、理解できた。
僕がついつい隠してしまう本音を正面からちゃんと受け止めてくれる梨世には、誰よりも僕のそばで幸せになってもらいたい。
世界で一番幸せだと思ってもらえるように、こんなふうに思ったのは初めてだった。
だからこそ何があってもこの手を離してはいけないんだと、静かに眠る君の横顔に思った。
***
私達の人生は、決してドラマティックではない。
私達の身に起きる出来事は、誰の周りにも存在する、リアルだ。
歓喜する瞬間もあれば、挫折を感じる時間もある。
そんな中で、私達は少しでも楽しくあろうとしただろうか?
全てのことは大きく、そして長い人生の幸福のための、小さな一歩だ。
その瞬間に思う些細な願いは、次の瞬間に願いも相手も変わっているかもしれない。
それでも、私は彼にずっと一緒にいたいと思ってもらえるように生きていきたい。
そう思うことが彼に対する愛なのだから。
梨世はほんとうによく眠るな。
目を閉じたままの私の頭をなでている彼の声が耳に響いた。
何て優しい声なんだろう。
その言葉とその声の響きには、両手では抱えきれないほどの愛を感じる。
今までのオトコ達の誰一人、私にリアルな愛をくれはしなかった。
どこかチープで希薄な愛のかけらしかなかった。
だけど、朋弥の真っ直ぐすぎる愛だけが歪んで濁った私の心を癒してくれた。
この気持ちを、感謝をどんな言葉で伝えたらいいだろう。
きっとカニクリだったら歯の浮くような愛のあるセリフでささやくんだろう。
私らしいやり方で彼に伝えなければならない。
この全身を満たしてくれた愛に、私の全部で応えたい。
そう思って、ゆっくりと目を開ける。
***
「――私は、これからもずっと、朋弥を愛してる」
「僕も、梨世のことだけ愛してるよ。永遠に」
「キミに出逢えて、ほんとうによかった」




