第037話 ヘパイストス・バルール
第四階層、第五階層。
階層が深くなるにつれ、転がっている魔物の死骸は強力なものへと変わっていった。
エミルが【魔力探知】で前方を警戒し、アヤメが背後を固め、バルディアが中央で周囲を窺う。
誰も口を開かないが、誰もが感じていた。
——近い。
そして、第六階層に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
むせ返るような血の臭い。地面を覆い尽くす魔物の骨。そして、広大な空洞の中央に鎮座する、黒い山のような影。
体長五メートルはあろうかという、三つの頭部を持つ地獄の番犬、グラナイト・ケルベロス。
昨日の傷を癒すように、静かに目を閉じていたその獣が、ゆっくりと頭を持ち上げた。六つの紅い瞳が、一斉にこちらを捉える。
グルルルルル……。
唸り声だけで、空気がビリビリと震えた。
「……へへ、とうとう出やがったな」
バルディアがガントレットを構える。ガチャリという金属音が、開戦の合図だった。
「出し惜しみはなしだ。最初から全力でいく」
エミルの叫びと同時に、ケルベロスが爆発的な速度で襲いかかった。
「わたしが引きつけます!」
アヤメがケルベロスの側面へ回り込み、鋭い剣閃を連続で叩き込む。ガギン、ガギン、と甲高い音が響くが、ダメージには至らない。
だが、それでいい。
グルォォォッ!
鬱陶しげに吠えたケルベロスの一つの頭が、アヤメへと向く。
——今だ。
エミルは『空間転移』で瞬時にケルベロスの頭上へと跳んだ。右手にどす黒い魔力を収束させる。
「『黒焔・業』ッ!!」
ドォォォン!
脳天へ叩き込まれた一撃が、衝撃波となって巨体を沈ませる。ケルベロスの注意が、アヤメからエミルへと移った。
「今だ、バルディア!」
「おうよ! 『秘露爪掻・モルタル』ッ!!」
バルディアは炎を纏った爪を、昨日エミルが亀裂を入れた頭の傷口へと容赦なく突き立てた。
ガアアアアアア!!!
三つの首が同時に絶叫を上げ、洞窟全体が揺れる。
間違いなくダメージは入っている。だが、倒れない。
「くそ、まだ動くのか……!」
「コイツは本来、A級の冒険者が何人も束になってやっと倒せる魔物なんだ! 早く師匠を探さないといけねえのに……クソ!」
バルディアが着地と同時に舌打ちする。
逆上したケルベロスが、三方向へ同時に攻撃を放った。
左から高熱のブレス、中央から衝撃波、右から岩塊の散弾。
「くぅッ……!」
三人は為す術もなく弾き飛ばされた。
壁に叩きつけられ、エミルは肺の中の空気を吐き出す。
——どうする。
奴の硬さを突破するには、もっと火力が必要だ。
土属性を混ぜれば威力は上がるかもしれないが……。
ブラドとの模擬戦が、頭をよぎる。
心ない野次に我を忘れ、暴走した。心を支配したのは、ドス黒い高揚感と制御不能な破壊衝動だ。気がついたら、ブラドを叩きのめしていた。
——ダメだ。
ここでまた暴走したら、アヤメやバルディアまで巻き込んでしまう。
その恐怖に、指先が強張った。
冷静になろうとすればするほど、身体が動かなくなる。
その一瞬の躊躇いが、命取りだった。
ケルベロスの中央の頭が大きく口を開け、これまでとは比較にならないほどの魔力を収束させ始めた。極大のブレスが放たれようとしている。
射線上にいるのは、体勢を崩したバルディアだ。
「く、間に合え……!」
エミルは『空間転移』でバルディアの前に立つ。
もう一度転移してバルディアを連れて逃げようとした、その瞬間。
ドクン。
全身に鋭い痛みが走った。
「ぐ……」
「エミル……!?」
——くそ、力を抑えすぎたか……?
暴走を恐れるあまり、魔力の流れを絞りすぎていたのだ。連続転移に必要な出力が、足りない。
転移を諦め防御スキルを発動しようとした、その刹那。
「『ハンマープレス』ッ!!」
天井の見えないほどの高さから、何かが隕石のように降ってきた。
ズドォォォォォォォンッ!!
地鳴りのような衝撃音が、ダンジョンの奥深くまで響き渡った。
振り下ろされた巨大な戦鎚が、ケルベロスのブレスごと、頭を地面へ叩き潰していた。重力と全体重、さらには凄まじい魔力を乗せた一撃だ。
ギャ……ア……。
ケルベロスの左の頭がごっそりと陥没し、残り二つの頭が絶叫を上げる。その声も次第にかすれていき、やがて巨体は膝から崩れ落ち、土煙の中に沈んでいった。
静寂が戻った空洞に、一人の老人が姿を現す。
銀色の髪は太く束ねられ、岩のように隆起した筋肉には、無数の戦いの痕跡が勲章のように刻まれていた。左目は潰れて機能していないようだが、残された右目だけで、見る者を射抜くほどの凄まじい存在感を放っている。
「……誰かと思うたら、うちのひよっこじゃな。こんなとこまで来おって」
その老人は、肩に担いだ巨大な戦鎚を軽く揺らしながら、バルディアに声をかけた。
「し、師匠……?」
バルディアの声が震えた。
彼女はへたり込んだまま、信じられないものを見るように目を見開き、口元を両手で覆う。
生きていた。
本当に、生きていてくれた。
その事実が実感に変わる瞬間、堪えていた感情が一気に溢れ出した。
「師匠ォォォォォー!!!」
バルディアが駆け出し、老人の太い腰に泣きながらしがみついた。
「うわぁぁぁん! もう帰ってこないんじゃないかって……! 心配したんだぞ、バカ師匠!」
「ほほ、何を泣いておる。お前さんに心配されるほど、わしは衰えちゃおらんぞい」
老人は悪態をつきながらも、その声はどこまでも優しかった。無骨な大きな手が、バルディアの小さな頭をポンポンと撫でる。
「でも……でも……!」
バルディアはもう言葉にならず、子供のように泣きじゃくった。
その光景を見て、エミルは全身の力が抜けるのを感じた。張り詰めていた緊張が、一気に解けていく。
「バルディア、もしかしてその人は……」
エミルの問いに、バルディアは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま振り返った。鼻水を垂らしながら、それでもこれ以上ないほど誇らしげに、満面の笑みで叫んだ。
「ああ! この人がアタシの師匠で、世界一の鍛冶師! ヘパイストス・バルールだ!!」




