第037話 ヘパイストス・バルール
第四階層、第五階層。
階層が深くなるにつれ、転がっている魔物の死骸はどんどん強力なものへと変わっていった。
エミルが【魔力探知】で前方を警戒し、アヤメが背後を固め、バルディアが中央で周囲を窺う。誰も口を開かないが、誰もが感じていた。ケルベロスが、近い。
不意に、バルディアが呟いた。
「……師匠はさ」
独り言のような、誰かに聞いてほしいような、弱々しい声。
「すげえ強い人なんだ。力も、心もな。……だから、アタシがメソメソしてたら、また怒られちまう」
「お師匠様のこと、信頼してるんですね」
「もちろんさ。……アタシの、世界一の師匠なんだぜ。こんなところでくたばるわけねえよ。それだけは考えられねえ」
彼女は恐怖を振り払うように、ぐっと拳を握りしめた。それでも、ピンと立った大きな耳と、ふさふさの尻尾が、隠しきれない不安に震えている。
強がっているのは、誰の目にも明らかだ。けれど、その強がりこそが、今の彼女を支える唯一の柱だった。エミルは何も言わず、ただ前を見据えた。
そして、第六階層に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
むせ返るような血の臭い。地面を覆い尽くす魔物の骨。そして、広大な空洞の中央に鎮座する、黒い山のような影。
体長五メートルはあろうかという巨大な魔獣。三つの頭部を持つ地獄の番犬、グラナイト・ケルベロス。
昨日の傷を癒すように、静かに目を閉じていたその獣が、ゆっくりと頭を持ち上げた。六つの紅い瞳が、一斉にこちらを捉える。
グルルルルル……。
唸り声だけで、空気がビリビリと震えた。
「……へへ、とうとう出やがったな」
バルディアの焦りと恐怖が入り混じった声。
「出し惜しみはなしだ。最初から全力でいく」
エミルの合図と同時に、三人は散開した。昨日とは違う。敵の能力も、その圧倒的な硬さも、既に知っている。
「わたしが注意を引きつけます!」
アヤメがケルベロスの側面へ回り込み、鋭い剣閃を連続で叩き込んだ。ガギン、ガギン、と甲高い音が響くが、ダメージには至らない。だが、それでいい。
グルォォォッ!
鬱陶しげに吠えたケルベロスの一つの頭が、アヤメへと向く。その隙を、エミルは見逃さない。
——今だ。
エミルは『空間転移』でケルベロスの頭上へと跳んだ。右手にどす黒い魔力を収束させる。
「『黒焔・業』ッ!」
ドォォォン!
渾身の一撃を脳天に叩き込む。岩盤を殴ったような反動が腕に走り、巨体がわずかに沈んだ。ケルベロスの注意が、アヤメからエミルへと移る。
二人が作った一瞬の隙。
「今だ、バルディア!」
「おうよ! 『秘露爪掻・モルタル』ッ!!」
バルディアは炎を纏った爪を、昨日エミルが亀裂を入れた頭の傷口へと容赦なく突き立てた。
ガアアアアアア!!!
三つの首が同時に絶叫を上げ、洞窟全体が揺れる。
間違いなくダメージは入っている。だが、倒れない。
「ちっ、効かないのか攻撃は」
「コイツは本来、A級の冒険者が何人も束になってやっと倒せる魔物なんだ! クソ、早く師匠を探さないといけねえのに……!」
バルディアが着地と同時に舌打ちする。
逆上したケルベロスが、三方向へ同時に攻撃を放った。左から高熱のブレス、中央から衝撃波、右から岩の塊。
三人は為す術もなく弾き飛ばされた。壁に叩きつけられ、エミルは肺の中の空気を吐き出す。
——どうする。
焦りが、思考を掻き乱す。
——奴の硬さを突破するには、もっと火力が必要だ。土属性を混ぜれば……いや。
ブラドとの戦いが、頭をよぎった。
感情に任せて力を振るい、我を忘れて暴走した自分の姿。あの、ドス黒い高揚感と、制御不能な破壊衝動。気がついたら、ブラドを叩きのめしていた。
——ダメだ。ここでもし暴走したら、アヤメやバルディアまで巻き込んでしまう……!
恐怖が、指先を凍らせる。冷静になろうとすればするほど、身体が強張って動かなくなる。
その一瞬の躊躇いが、命取りだった。
ケルベロスの中央の頭が大きく口を開け、これまでとは比較にならないほどの魔力を収束させ始めた。極大のブレスが放たれようとしている。
狙いは——体勢を崩しているバルディア。
「まずい!」
エミルは『空間転移』でバルディアの前に立つ。もう一度転移してバルディアを連れて逃げようとした、その瞬間。
ドクン。
エミルの全身に鋭い痛みが走った。
「エミル……!?」
——力を抑えようとしたのが逆に……!
視界が白く染まる。防御スキルを発動しようとした、その刹那。
「『ハンマープレス』ッ!!」
地鳴りのような衝撃音が、ダンジョンの奥深くまで響き渡った。
空から降ってきたかと錯覚するほどの跳躍。振り下ろされた巨大な戦鎚が、ケルベロスのブレスごと頭を地面へ叩き潰した。重力と全体重、さらには凄まじい魔力を乗せた必殺の一撃。
ギャ……ア……。
ケルベロスの左の頭がごっそりと陥没し、残り二つの頭が絶叫を上げる。その声も次第にかすれていき、やがて巨体は膝から崩れ落ち、土煙の中に沈んでいった。
静寂が戻った空洞に、一人の老人が姿を現す。
銀色の髪は太く束ねられ、背中に垂れている。岩のように隆起した筋肉には、無数の戦いの痕跡が勲章のように刻まれていた。左目は潰れて機能していないようだが、残された右目だけで、見る者を射抜くほどの凄まじい存在感を放っている。
「……誰かと思うたら、うちのひよっこじゃな。こんなとこまで来おって」
その老人は、肩に担いだ巨大な戦鎚を軽く揺らしながら、バルディアに声をかけた。
「し、師匠……?」
バルディアの声が震えた。彼女はへたり込んだまま、信じられないものを見るように目を見開き、口元を両手で覆う。
生きていた。
本当に、生きていてくれた。
その事実が、彼女の中で実感に変わる瞬間。堪えていた感情が、一気に溢れ出した。
「師匠ォォォォォー!!!」
バルディアが駆け出し、老人の太い腰に泣きながらしがみついた。
「うわぁぁぁん! もう帰ってこないんじゃないかって……! 心配したんだぞ、バカ師匠!」
「苦しいわい! 何を泣いておる。お前さんに心配されるほど、わしは衰えちゃおらんぞい」
老人は悪態をつきながらも、その声はどこまでも優しかった。無骨な大きな手が、バルディアの小さな頭をポンポンと撫でる。
「でも……でも……!」
バルディアはもう言葉にならない。ただ泣いている。安堵と、恥ずかしさと、嬉しさが混ざり合った涙。
「バルディア、もしかしてその人は……」
エミルの問いに、バルディアは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま振り返った。鼻水を垂らしながら、それでもこれ以上ないほど誇らしげに、満面の笑みで叫んだ。
「ああ! この人がアタシの師匠で、世界一の鍛冶師! ヘパイストス・バルールだ!!」




